第7話 医師に答えられる精一杯

 俺の推測が正しければ、紅葉の体に宿ってる精神は、今、明日乃のものなんじゃないかと思う。


 そんな彼女から、遂に連絡が入った。


 『助けて』と一言。


 意識が回復したばかりなのは間違いない。


 俺が学校に行ってる間、つまりは午前中か、午後か、はたまた夕方である今なのかはよくわからないが、ともかく、今日明日乃は目を覚ましたのだ。


 俺は大急ぎで学校を出て、街を駆け、病院へ向かった。


 病院へ着いても、それは変わらない。


 基本的に、院内は他の患者さんもいるし、全力疾走することは控えたが、それでも早歩きで、先へ先へと感情が前へ行く。


 心拍数が上がり、比例して不安もどんどん強くなっていった。


 助けてっていうのは、いったいどういうことだ。


 と、そんな風に考えながら移動し、ようやく明日乃がいるであろう部屋の前へ辿り着いた時だった。


「だから、私は紅葉じゃないんです! 式凪明日乃です!」


 扉を介した部屋の中から、訴えるような声がくぐもって聴こえる。


「明日乃……!」


 部屋のネームプレートには、堅苦しい楷書体で『現野紅葉』と記されている。


 推測は間違いではなかった。やっぱり、明日乃と紅葉の体は入れ替わってる。


 確信し、軽くノックしてから「失礼します」と遠慮がちに扉を開けた。


「――あっ……! 結賀……!」


 室内には、ベッドの上で入院着を着て、上体だけを起こしてる紅葉、いや、明日乃と、中年くらいのキリッとした男性医、それから若い看護師の女性の三人がいた。


 皆が一斉に俺の方へ視線をくれる。


 その中でも、紅葉の姿をした明日乃だけは、目を見開き、やがて安堵したように泣きそうな顔を作りながら俺の名前を呼んだ。


 俺はすぐに明日乃の元へ歩み寄ろうとするが、


「待ちなさい。あなたは現野さんとどういったご関係の方? 申し訳ないけれど、彼女は今――」


 険しい顔をした女性の看護師に止められる。


 彼女の表情を見るだけで、さっきまでのこの場の状況が想像できる。


 圧を感じ、俺は一瞬うろたえてしまった。


 傍にいた男性医も俺へ歩み寄って来る。


「後藤さん。そう警戒しないであげてください。この子は、以前現野さんの緊急手術の際も病院へ来ていた。名前までは伺っていませんが、彼女と親しい方です」


「え……そうなんですか?」


「ええ」


 言って、彼は鋭い視線を俺へぶつけてきた。


 が、その口から出る言葉は、特段厳しいものではない。安定と安心を兼ね備えた、不安を癒すような声音だった。


「悪いね。君のことは知ってる。前に手術室の前で、現野さんの手術が終わるのを待っていたね」


「は、はい」


「私の名前は西木野だ。名前、伺ってもいいかな?」


 断る理由がない。


 真っ先にこの人から出ていけ、と言われるかと思っていたが、それが杞憂だったようで安堵する。


 俺は頷き、自分の名前をフルネームで言った。「織平結賀です」と。


「織平結賀君、か。いい名だ。私は産婦人科医ではないが、名前を付けてくれた人、産んでくれた親へどうか少しでも感謝してあげて欲しい。君が今、こうして生きてるのは奇跡だからね」


「は、はぁ」


 さりげなくいいことを言われたが、その言葉はこの状況で必要なのだろうか。


 明日乃のことが心配だった俺は、そんな風に思ってしまう。


「あ、あの、西木野……先生。それで、そこにいるあす……じゃなくて、も、紅葉の方は……」


 大丈夫なのか。そういう意味で、おずおずと言う俺だったが、すぐに明日乃から、「結賀!」と声が飛んできた。


 自分が紅葉ではなく、明日乃であるということをアピールしたいのだろう。わかってる。でも、いきなりは無理だ。徐々にこの西木野医師と、後藤看護師へわからせてやらないと。


「彼女なら、しっかりと回復へ向かっている。今日の昼、十三時に意識が回復した」


「十三時……」


 なら、もう意識を取り戻して少し経ってるのか。よかった。


「ただ、もう少し安静にする必要があるのも確かだね。私から言えるのはそれだけだよ」


「結賀! 私、紅葉じゃないの! 明日乃! 明日乃なの! 信じて!」


 訴えてくる明日乃を落ち着かせようとする後藤看護師。


 明日乃の方を見ず、俺の方だけを見て言う西木野医師。


 それは、決して直接的なことを言うべきでないと理解してる医師としての姿だった。


 本来なら、無知な俺に対し、記憶障害だの、何だのと、簡単な言葉で理解させたいはずなのに。


「……西木野先生」


「何だろうか?」


「先生は、先に意識を取り戻してた式凪明日乃と会話されましたか?」


 その言葉の意図を勘繰ったのか、一瞬間を空け、彼は頷く。


「もちろんだよ。それが私の務めだからね」


「式凪明日乃の方はどうでした? ちゃんと、自分を理解してました?」


 彼は無言だった。


 無言のまま、俺の顔の上へ視線をやり、やがて再び口を開いた。


「ちゃんと、とか、普通に、とか、そういう表現での質問に答えたくはないが、あえて返すならば、彼女は紛れもなく式凪明日乃さんだった」


「……なるほど」


「質問をいくつかさせてもらったけれど、そのどれもをスラスラと違和感なく答えた。記憶に別状はなかったんだ」


「……」


「意識の分散なんて、科学的にあり得ない。医学的に言えば、もっとだ」


「でも、彼女は――」


「すまない。ここから先は私に答えさせないでくれ。精神医学に関してはまるで明るくなくてね」


 どうか許して欲しい。


 そう言って、彼は明日乃の方へまた歩み寄って行った。


 俺は取り残され、病室の真ん中に立ち尽くす。


 ベッドの上で訴え続ける明日乃を見つめ、唇を噛むのだった。








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