誰そ彼
十戸
誰そ彼
まだらに生えた羽根を引き抜く、一本、一本、また一本。
雨に濡れたように光る傷口、ぎざぎざに尖った肌とその下の肉。
わたしは気の滅入る痛みに、
痛みが走る。
骨の底まで燃え尽きるような痛みが。
おお、果たしてわたしはこれほどの烈しさをかつて覚えたことはないわたしは、わたしは……痛みのあまりに気の遠くなるようだった。
血を洗う。薄められた粘つく体液はばらの花のような色をして、身体の下をするすると流れ去っていった。
激痛のあまり視界がかすむ。わたしは自傷の痕に覆われた、溺れるように赤い肌に目を凝らす。けれどそこに、わたしの望むものは見えない。
引き抜かれた羽毛のかたちに丸くえぐれたそれは明らかに、人の肌ではありえなかった。
のどの奥から、腹の底から、おおん、という地鳴りにも似た音がせり上がって、吐き出される。うめきや溜め息、嘆息の代わりとして。かつてそこにあったはずの声帯はぶよぶよにほどけ、いまやどんな言葉も発せはしない。
その瞬間をよく覚えている。
はじめに、歯が生えてきた。
もちろんふつうの歯ではない、鋭く尖った異質の歯。
次に、柔らかく毛が揃い始めた。
爪が抜け落ちゆっくりと、白く濁った三日月のような、やけに細く鋭利なかぎづめが現れた。
次第に痺れや痛みの走る部位も出てきた。
とは言え、これはそう長くは続かなかった。
問題は骨だった。
全身至るところに、感じたことのないようなねじれを覚え、やがてそのまま固定されてしまった。折れた骨が曲がったまま癒えてしまったように。
以来、歪んだ骨たちはわたしを支配し、ねじ伏せ、始終機嫌の悪い主人のように振る舞っている。わたしというものは、このねじくれた身体の内側に深く埋没し、その降下はいまに至るも終わっていない。
最後が、上腕から生える羽毛である。羽毛。そうとしか呼びようのない、筋張ってささくれた毛の群れ。
わたしはくるるる、と我ながら奇怪極まりない息を吐きながら、再び羽根を引き抜く。棘のように鋭利な、ほとんど牙のようになった歯を使って。分厚く伸びた顎は人のそれと大きく違い、あまりに力強かった。油断すると、すぐに口のなかで羽根をへし折ってしまう。
果たしていまの自分がどのような姿かたちをしているものか――わたしも正確には知らない。わたしが逃げこんだこの場所に鏡の類はないし、その代用になるようなものもなかった。水はある。それを張る器も。ただ、少ない光源に結ぶ像はぶれて不完全で、部位以上のものを映すには、単純に大きさが足りなかった。
それはわたしにとって、格好の言い訳でもあった。理由、釈明、そうしたものの。これほど成れ果てたあとにも、わたしはわたしを見たくはないのだ。そうすることを恐れている。
そうだ、恐れている。
あまりに無残な変容を経て、私の元には何一つ形あるものは残らなかった。誰しも最後にたったひとつ、確かに持つであろう、死の詰まった肉体でさえ。
この身体は本当にわたしのものだったのか。
本当に?
そう考えるたび、堪らない感情が押し寄せてくる――本当に。ほんとうに。ひょっとするとこの身体はずっと昔からこの姿かたちだったのであって、ただその獣の精神が、己は人であったと夢想しているだけなのではないだろうか。
鋭い牙の列が、音を立ててがちがちと震える。
そうだ、忘れてはいけない。
いまや己が何ものであるのかということを。
思い出すのは埃の匂いだ。
古い家に特有の、ある意味では逃れようのない、降り積もった陽射しの、逃れようもなく懐かしいあの匂い。僕らが移り住むことにしたその家は、どこもかしこも埃だらけで、思わせぶりな匂いは家中にたっぷり充満していた。ドアを開けるなり僕らは微笑んだ、四つの顔を見合わせて。その瞬間、あの家は僕らの故郷になった。僕ら全員のふるさとに。
僕らはきっとここで何年も暮らすだろう。僕と彼女は次第に年老い、子供たちはみな背を高くしてゆく。もちろん、少しの不安もないわけじゃない。もしも巧くいかなかったら?
そうなれば次の故郷を探せばいい、と彼女は言った――僕もうなずいた。どこか別の、住みよい家を。僕たち家族はまだ若く、健康で、じつに身軽な生き物だった。
何事もなく半年。家のなかを綺麗にして住みよくし、家具を揃え、ペンキを塗り替え、最後に庭を整えた。整えたとは言っても、そこは田舎暮らしのこと。庭の先は野ばらの茂みからそのまま、果ては小ぶりで背の低い丘の裾まで続いていて、はっきりとした境目も分からない有り様だった。僕と彼女は肩をすくめて、とりあえずお互い気のすむ範囲の石ころをどけ、余分な雑草を引きちぎり、そしてあやふやに芝を敷いた。僕は
ところがある日、妻が帰らなかった。
家族全員で、昼ごろまでを笑い転げて過ごし、お互い目じりに溜まった涙を指先でこすったすぐ後のことだった。まあまあ、あたし笑いすぎてお腹が痛いわ、なんて言いながら、彼女は街へ買い物に出かけた。夕飯の支度をするからと言って。子供たちが、めいめい食べたいものを叫び合う。
僕らは幸福だった。掛け値なしに幸せだった。
陽が傾き、そのうちに辺りが暗くなったころ、僕は子供たちを残して家を飛び出した。――いい子で待っておいで。ママを探して、すぐ連れて帰るから。大丈夫、心配しないで。お腹が空いたらキッチンにあるものを好きに食べていいからね。パパがいない間に、何か困ったことが起こったら、となりの家のおばさんを呼ぶんだよ。そう、いい人だ、信用できる。二人とも、あのおばさんのこと大好きだろう? よし、よし。それじゃあ行ってくるよ。大丈夫だから。
だいじょうぶ?
おいおい、あんまり笑わせないでくれよ。
もちろん――誰も彼も、ちっとも大丈夫なんかじゃなかった。
何だってまた、僕はあの子たちを置いて家を出てしまったんだろう?
彼女のことなんて放っておけば良かったんだ。ずっとあの子たちの傍にいて。
そうするべきだった、そうだとも。それが一番だったはずなのに。それが何より一番やさしいやり方だった。
どうしてあの日の僕は、無謀に飛び出すなんてことをしたんだろう。
畜生、それはもちろん、彼女を愛していたからだ。
夜の底に、黄色く濁った息を吐きながら目を覚ます。
不恰好に大きく膨らんだ鼻を、半ば無意識のうちにひくつかせる。はるか彼方に消え去った、かつての夢の残り香を健気にも求めて。もうどこからも、あの懐かしい匂いはしてこない。あるのはただ、澱んだ挙句に腐ったような、あまりに惨めな生臭さだけだった。
どこかから、甲高くきんきんとした音が響いてくる――あまりに鋭敏になった鼓膜の底を、針先で突くような不快な音だ。それはかつていつかに聞いたことのある響き、けれども酷く耳障りで、どこか遠くへ押しやってしまいたい音だった。
わたしは震える。
それは人間の女の声だった。
わたしはおののく。
それはわたしの娘の声だった。
彼女は泣きながら叫んでいる――喚きながら髪を振り乱して。ぼんやりとした明るみのなかに、彼女の手にした気高い選択が輝いている。冴え冴えと黒い鉛のひらめき。わたしは喘ぐ、おお、やめてくれ、よしてくれ、まさかお前までこのわたしに。
次の瞬間、すさまじい轟音とともに世界の何もかもが、一点に凝集しながら白熱し、そして。
真実何も視えなくなった。
「ママと、パパの仇よ……やっと殺してやった」
しゃくりあげ、すすり泣く声。ぽたぽたとしたたる水滴のような嗚咽。血の気のない腕から、がらんと投げやりに散弾銃が落ちる。いまだその喉笛に、白く熱した息をしゅうしゅうと吐き出しながら。極度の緊張に長時間晒されていた両足から力が抜けて、彼女はがくりと膝を突く。そうしてそのまま、しばらくの間、頑是ない子供のように泣いていた。
浴びた返り血が生臭い。銃創から噴き出した化物の血は、驚くほど広範囲に飛散し、死骸から離れた彼女の身体にまでかかるほどだった。血は驚くほど赤く、ねばねばと酷くべたついて、煮詰めた酸のような臭いがしている。彼女はたまらず、鼻の頭にぎゅっとしわを寄せた。
じっさい、血中には何がしか、おかしなものが含まれているのかも知れない――毒性を持つものが。無防備に血に濡れた肌のところどころが、段々と熱を帯び始めていた。彼女はのろのろと、腰に下げた飲み水で腕を洗う。すすいでも、拭っても、赤色はべったりとこびりついたまま中々剥がれない。彼女は顔をしかめた。戸惑いながら、振りかける水の量を多くする。どうにも様子が変だった。点々と続く血痕が、次第に大きくなっているような気がする。いや、じっさいのところ、いまやその不気味な赤い染みは明らかに面積を増していた。呆然と見詰める先で、その染みは段々と――歪み、泡立ち始めたのだった。
はじめに羽根が生えてきた。
次に、柔らかく毛が生え揃い始めた。
渦巻くように、一房一房ゆっくりと表皮から立ち上がり、拡がってゆく。
みるみるうちに爪が抜け落ち、その下の肉の内からゆっくりと、白く濁った三日月のようなかぎづめが現れた。
彼女は悲鳴を上げた、それまで肺に吸いこんでいた吸気のすべてを吐き出して。
けれど変形した歯と舌のために、その声は化け物の吠え声にしか聞こえなかった。
それから何日も、わたしは怯え、泣き喚きながら過ごした。恐怖と罪悪感、心細さと不快感、何もかもがどろどろに混ざり合って、わたしは泣くよりほかになかった。
残念ながら、もう涙は流れなくなっていた。それはわたしを一層打ちのめした。化け物は涙を流さない。
全身を襲うその変化――ああ、ほかに何と呼べばいいのだろう。変化の波は気まぐれで、急に何かが生えたと思えば、何時間も何日も何も変わらないこともあった。おかしな話だったけど、むしろずっと事態が悪化し続けている方が、わたしにとっては気が楽だった。痛みや痺れ、目の前で起こっている不愉快なことで頭をいっぱいにしておけば、それ以外のことを考える暇はなくなるのだから。
自分が、本当は何を殺してしまったのか、そんなことを思い悩む暇さえ。
何事もなく、ただこの暗闇にじっとしていると、本当にたまらない気持ちになる――わたしはいままで何をしていたのだろう。何をしてきたのだろう? いまやすべてが手遅れだった。
一番こたえるのは、洞窟のあちこちに、引きちぎられたような羽根や獣毛、折れた爪などが散らばっていることだった。
なぜそんなものが転がっているのか、そのことに思い至った瞬間、わたしは。
くるるる、と、
どれほど時間が経ったのか。少しずつ色々なものが曖昧になっていく。自分の姿も、過去のことも。
わたしは、一体何だったのか。
そうしてなす術もなく、ただ不快に濡れた地面の上に転がるうち、わたしは耐え難い空腹に見舞われ始めた。
食べる物ならばあった。すぐ傍に。それはもうとっくに息絶えていて、適度に腐敗していた。わたしは食性として腐肉を好むのだ。これなら、わざわざ外へ狩りに出る必要もない。わたしは微笑んだ――微笑むということがどんなものか、もう思い出せはしなかったけれども。
少し前から、おかしな音が聞こえるようになった。その音は酷く遠くから、かんかんかん、と絶え間なく鳴り響き、そして徐々にこちらへ近づいている。
やがて見慣れた暗闇のなかに、一筋の閃光が走った。わたしは思わずうめき声を上げ――くるるる――そこに現れた奇妙な生き物を見つけた。それは金色の頭をした、二本足で立っている、とても不思議な生き物だった。
何よりおかしなことに、わたしは彼を知っていた。
彼を愛していたことさえある。
忘れたがって閉じこめた記憶のすべてが、津波のようにどっと押し寄せてきた。
わたしは、いまや様々なことを思い出していた。彼のこと。両親のこと。そして何よりも自分自身のことを。わたしは、彼に自分の行先を告げていたのだ――この数年、わたしは子供の頃に失踪した両親をずっと探していた。ときには、温かい彼の肩にもたれて、その胸に支えられながら。
薄明りのなかに、彼が身構える武器が見える。
これから起こるであろうことを思って、わたしは震えだした。
ああ、お願いよ。やめて頂戴。まさかあなたまで。
嘘だと言って。
そして光と轟音と、魂を焼き尽くすような熱を頭と胸に、わたしの意識は掻き消えた。
こびりついた血糊が、拭っても拭っても落ちない。それだけじゃない、何だか妙な感じがする、痺れるような――たまらない不快感。
そして訪れたその瞬間、僕はねじくれていく自分の手を、ただ呆然と眺めていた。そうすることしかできなかった。もはや後戻りのできない、このあまりの不条理さを前にして。
真っ赤にぬめる指先が、次第に形を失っていく。
そこでようやく、僕は気づいた。何という――これはいったい、何ということだろう。僕はたまらず泣き出した。迷子になった子供みたいに。
彼女は、もうぴくりとも動かない。奇妙なことではあったけれど、そのことが、ほんのわずかの慰めになった。
どうして探そうなんて思ったんだろう?
畜生。それはもちろん、彼女を愛していたからだ。
誰そ彼 十戸 @dixporte
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