著者の年齢に瞠目せよ

 この方にレビューを投稿するのは記憶にあるかぎり「墜死体とブルー」に続く二度目なのだが、十七、八歳でこれだけのものを書けるとは、素直に凄い。
 この方には、『作家の眼』が備わっていらっしゃるのだ。

 小説を書くなんて簡単でしょ?

 そう想われがちだが、猫も杓子も気楽に書けて、AIをはじめとした便利なツールが揃っていても、作家の書く文章というのは明らかに違う。

 どのへんが?

 それを説明するよりも、本作を読んでいただければ分かると想う。
 細部や心理の描写ではない。
 取り上げた題材ですらない。
 カシミアと絹と化繊が違うように、作家の眼をもつ者が書いた文章には他にはない風合がある。

 巧い文章とは何か。
 こう問われると、人は、語彙や描写力に眼を向けがちだ。
 それも重要な要素ではあるが、語彙など、小四くらいの語彙力であっても、「はっ」となるものを書けるのが作家の視点だ。
 描写力、こちらは作風と文体にぴったりしたものであることが重要で、とくに正確はなく、何十行も不要な描写をしているようにみえてそれが得難い魅力と個性を生んでいることもあるのだから、わたしは描写の多少については問題としない。
 もし問うならば、描写がその作品に与えている効果の方だ。

 十代はすぐに過ぎてしまう。
 二十代になれば「若いのに凄い才能ですね」と云われる人たちの人口も爆発的に増加する。
 三十代になれば、もう「若いのに」は附属しない。水準の高さをもって当たり前となる。

 早熟の才能というより、この方は生まれつき作家の眼をもっておられるのだ。
 何を書いてもある程度までは端正に仕上げてくるだろう。
 その先のことになると、自分が書きたいと想うものをどれだけ強く内面に抱いているかが勝負になる。

 今は沢山の作品に触れて、社会からも人間関係からも、心の糧を吸収する時期だ。
 どうか、上辺だけは整った魂のない作品を書くような人間にはならないで欲しい。
 自分の書きたいものは何なのかを問い続けて欲しい。

 ……と、以上のようなことをわたしが十代の頃に云われたら、「莫迦じゃないの、うるさいわバーカ」としか想わなかっただろう。
 それでいい。