芸術家が職人であった時代、ミケランジェロがシスティーナ礼拝堂の天井画を半狂乱になりながらも描き上げたように、やりたくねぇことでも金の為にやり遂げてしかも後世に遺るものを創るというのが、何故か創作者のあるべき姿であるかのように云われがちだ。
個人の才を思う存分発揮して、のびのびと書きたいものを書く方がずっといいだろうに。
しかしなぜか現代でも云われるのだ。
「それでは上にいけない」
「それではプロになれない」
「それでは自己満足にすぎない」
好きなことを好きなように書くのは、さも途方もなく悪いこと、失策、お先真っ暗であるかのように。
これらの言葉を投げつけてくる人は創作に対してビジネスのような感覚をもっており、「読まれない作品には意味がありませんよね」と実に爽やかに、わたしのような底辺の人間に向かってフフンと鼻先で嘲笑う。
ともあれ、『作家という同じ言葉でも、イメージが違うからかみ合わない』文中のこの箇所には納得だ。
まさにこの『イメージが根本的に違う人』からわたしは長年粘着されていて、「こうでないと駄目なんだぞ!」と現在進行形で凄まじい否定を受けている。
あちこちで書いているので今さら伏せもしないが、その人(女)は自己愛性パーソナリティー障碍を患っているので、ありとあらゆる人を巻き込んでカクヨムでも大暴れし、何としてもわたしの価値を下げようと躍起になっている。「あなたの為に」と云いながら、行動は妨害行為しかやっていない。
その自己愛に云われた言葉で忘れられないものがある。
『書きたいものを好きに書けると思うな!』
好きに書いてはいけないのだそうだ。
必ず自己愛の指示を仰ぎ、その命令どおりに書かないといけないという。
『小説の創り方には唯一の正解があるんだぞ! わざわざお前のような無才に指導してやるのだから感謝しろ!』というのだ。
まずそこからして全くわたしの考えとかみ合ってはいなかった。
小説の創り方に唯一の正解がある……?
しかし仕事としての対価が発生するプロの世界でもこの手の横暴が横行しているようで、セクシー田中さん事件の際にも方々から不満が噴き上がっていたが、「書きたいものを書かせないのが我々の仕事」とまで言い切っている担当もいるそうだ。
作家がのびのびと好きな作品を書いていると潰さずにはいられない慢性的な病気にでもかかっているのだろうか。
プロになることは、作家が好きなものを書くことを許されないのが前提なのだろうか。
「いや、それは違う」と彼らは言うだろう。
「売れる作品にするために」
「みんなが幸せになるために」
「読者に喜んでもらえるために」
『書きたいものを好きに書けると思うな!』
書き手が死んだ眼をして、心を潰して、書きたいものを封印して書きたくないものを渋々書いている状態こそが、書き手の正解の姿なのだそうだ。
自分の力だけで書けると思うな! そう云う人々の「好きなもの」を書かされるために、その指示に従わなくてはならないのだそうだ。
その結果、売れたらまだいいのだが、「俺さまが考えた無能な作者のお前なんかよりもすごいストーリー(二次創作)」の為に、死にそうな気分で自分の大好きな作品世界を大幅改稿させられた挙句に、ほとんどは打ち切りになって使い捨てだ。
だったら、「俺さまが考えた無能な作者のお前なんかよりもすごいストーリー」に一体、何ほどの価値があるというのだろうか。
もちろん、作家に寄り添えて能力を存分に引き出し、明るい未来へと並走してくれる凄腕の担当さんもたくさんいるだろう。しかし当たりが悪い時、自己愛のような人間が担当だったら、確実にその創作者は潰されてしまう。
書きたくないものを書かせて、作者の心をズタズタにするのが当たり前。
こんな現状に、わたしはいつも首を傾げている。
本エッセイでみちのあかりさんが分類した「芸術家」「職人」の区別によると、わたしは芸術家ということになるようだ。
自分では職人だと考えていたのだが、なるほど、ここでの職人とは、売れるもの、流行が求めるもの、顧客の満足に合わせてプライドを持って良い商品を提供する、『売れる仕事が出来る人』そんな堅実なイメージだ。
本人が「需要をこなしてバリバリ売れるぞ!」とノリよくやっているのならいいのだが、しかし何故か現状は、「書きたくないものを編集の指示で暗い顔で無理やり嫌な気持ちで書いていないといけないんだぞ!」そんな創作者の犠牲ありきが当たり前のようにされている。不思議でならない。
『書きたいものを好きに書けると思うな!』
書きたいものを書いてはいけない。もしこれに納得できる人がいるなら、「有名になる」「作家というステイタスが欲しい」などの承認欲求が飛びぬけて高い人ではないだろうか。
目的が最初からそこなので、元からとくに書きたいものもなく、全く書きたくないものであっても、「有名になれるのなら」とこなしてしまうし、そのための努力も惜しまない。
それこそがプロなのだという。
本来、書きたくないものを書かされ、書きたいものは書けないというのは、創作者にとっては死を意味する。
読んでもらえること、人気が出ることとは別に、「ああしろこうしろ」と他人に指示されて自分の心が死んでいるのであれば、その状態で生み出される作品など、振り返るのも嫌な作品にしかならないのではないだろうか。
それは書かされたものであって、自分が書いたものではないのだから。
しかしそれでないとプロにはなれないと多くの人が云うのだ。そんな作品は果たして良いものになるのだろうか?
作者が死んだ眼をして憂うつな気持ちで他人の指示に従って自作を捨てるのが当たり前。
そんな創作世界は、間違えているような気がしてならないのだ。
※もちろん作家を育てるのがうまい良い担当さんも大勢いますよ!