負け犬の定位置

 惨めな負け犬。
 これが自己愛性人格障碍者(女)がターゲットにしたわたしにつけた綽名だ。

 人に対して「惨めな負け犬の遠吠えをしてる~」と高らかに嘲り笑うことが出来る人間がこの世に本当にいることにまず愕いた。
 ニヤニヤとこちらに向かって指を差し、取り巻きと共に勝ち誇っていた。

 嘲り笑うだけでなく、自己愛はわたしの周囲の人にも一人一人、「ここだけの話」として巧妙に悪口を吹き込んでいく。
「あいつは駄目な奴なんだよ~」
「あいつは何処に行っても嫌われ者だよ~」
「あいつはプライドが高いよ~」
 ターゲットの評判を落とし、ターゲットの交友関係を壊して取り上げ、ターゲットの努力を踏みにじる。

 あんな出来の悪い女に比べて、あたしの方がはるかに完璧でしょう?

 わずかな光明としては、わたしを何としても価値のないものにしよう、どんな人間からも憎悪される嫌われ者にしてやろう、その為にも悪評をばら撒いてやろうと常日頃から足を引っ張っていた自己愛の目的がわりとはっきりしていたことだろうか。


「ああ、この人は何としても、『あの女よりも勝ちで上だ!』という立ち位置がなければ、自分一人を許容も出来ず、支えられもしないのだな」


 自己愛のターゲットになって以来、暴風雨のような自己愛本人の強烈な自己顕示欲と劣等感をまともに浴び続け、比較対象として堕とされ、下げられ続けてきた。
 当人だけでやってくれたらいいのだが、ターゲットの交友関係を全取りして自分の味方につけていくという性質を自己愛は持っている。
 誰かと知り合えば知り合った数だけ、「ちょっとこっちに来て~」と自己愛サイドに取られていくのだ。そこでの自己愛は新興宗教の教祖のように愛とゆるしを説き、救済者として振舞い、その役に陶酔している。

 
 小説を書く人にはうつ病やその他の精神的な悩みを抱えている人が少なくない。
 実はわたしは彼らのことを「羨ましい」と想っている。
 それらの悩みは自分の内部から発生する悩みであり、投薬で軽減することも出来、徹頭徹尾、自分の問題として向きあえる。
 自己愛性人格障碍者のような暴走ブルドーザーによって、どれほど地道に積み上げていこうとも横合いから突きあたられて粉々にされていくわたしよりも、「はるかにましだ」と。

 悩みに大小はないので、そんな状況により、わたしもずっと巨大な負を背負い、自己愛の口説を信じた人たちから唾を吐かれたり憎悪されながら書いているのだということだけが伝わればいい。


『ほとんどが貧乏くじを引かされて生涯を終えます。』

 この一文に胸がぐしゃりと潰れそうだった。
 その通りだからだ。

 自己愛が嘲り嗤ったとおり、小説を書いているわたしたちの殆どが、『惨めな負け犬』なのだ。
 これほど毎日、莫迦のように文字を綴り、言葉をひねり出し、必死で小説にかじりついていても、ほんの僅かの恵まれた一握りの人にしか見返りも報いも来ないのだ。

 きらびやかな成功者たちの裏に、どれほどの『惨めな負け犬』がいることだろう。
 勝者の裏で、どれほど多くの人の原稿や生涯の夢が、誰からも知られることのないまま泥沼に沈んでいったことだろう。

 投稿サイトにいると楽しい反面、真っ暗な闇に吸い込まれそうな気がすることがある。
 その暗い洞穴には「惨めな負け犬の遠吠え」がわんわんと木霊している。
 誰もが、惨めな負け犬なのだ。
 しかし惨めな負け犬でなければ、負け犬の孤独をこの胸に刻み込まなければ、馬場芥氏の本作品のように、惨めな負け犬の心を震わせる文章は絶対に書けないのもまた確かなことなのだ。


 光の届く地上では蝶が飛んでいる。
 小説を書いていなければあそこにいたのかもしれない。
 しかしどちらかを選べと云われたら、負け犬の同士諸君は、叩き落とされても叩き落とされても、やはり惨めな負け犬であることを選ぶのではないだろうか。
 負け犬でいよう。
 小説とは、才に酔い驕りたかぶった天上世界から書くものではなく、常に自分を下げて下げて、光を仰ぎながら無才を噛みしめて書くものなのだから。