エピローグ
隅の席でいいと伝えていたのに、話がまるで違う。活気と未来あふれる生徒たちが右往左往する中で、どっしり座ったままの部外者はどう見ても浮いていた。
「今からでも後ろの席行くか」
振り向く青木の視線の先には、まだ誰も着席していないパイプ椅子が五十席ほどは並んでいる。あと五分で公演が始まる時間と聞いているが、依然として会場内は慌ただしかった。生徒たちにはそれぞれ役割分担があるらしく、ネタ合わせに集中している者もあれば、何やら走り回っている者、講師らしき男と話し込んでいる者もいた。講師と言ってもお笑い養成所らしく、半袖Tシャツのラフな恰好だ。
「せっかくのご厚意ですから、一番前で見ましょう」
右隣に座る那菜が涼しく言う。冷房が切ってあるようで生徒たちの緊張と熱気で蒸し暑いというのに、この女だけは嘘みたいに汗をかく素振りがない。
渋々青木は前へと向き直った。卒業公演、と名はついているが舞台は一般的な劇場とはまた違った雰囲気だ。木の床に右手の壁全面が鏡になっている作りは、ダンスやヨガの講習が似合いそうな風景だった。正面右手にはテーブルが設置され、講師が立つのだろう場所が作られている。
「木井さんと高代さんはまだですか?」
「木井が車で拾って来るって言ってたけどな。高代が遅れてるんだろ」
なるほど、と那菜は根拠の無い高代への嫌疑に同意した。
「あ、そういえばこれ。いつか見せようと思ってたんです」
那菜が手に持っていた紙袋をそのまま渡してくる。那菜のすることだから、聞くよりも見た方が早いだろう。青木は中身を取り出した。革製のハンドバッグだ。光沢のある栗色で、形から女性モノなのだろうということは分かった。ひっくり返して初めて気づく。特徴の無いデザインに見えたバッグに、はっきりとした主張がされている箇所があった。
「これ、おこわさんか?」
「中にもいるんですよ」
開いて中を見ると、こちらはワンポイントどころでは無かった。生地のドットのように五百円玉サイズのおこわさんが並んでおり、どれも微妙に顔や仕草が違う気がする。
「これは大変でした。依頼主の方の希望とはいえ、いったい何パターンのトカゲを描いたことか」
ため息をつきながらも、充実感があるように見えた。
「おこわさんじゃないのか?」
「ええ。初めて描いた試作品はおこわさんでしたけど。世の中、爬虫類ファンの方って多いんですね。いまだに驚きます」
では、世界に一つだけの品なので。そう言って那菜は有無を言わさず、鞄を紙袋にしまった。
「オーダーメイドなのですぐお客さんの手元に返しちゃうんで、今日は無理を言って借りてきました。もうすぐこれも、お客さんのところに納品される予定です」
「オーダーメイドの雑貨って、爬虫類の雑貨なのか」
「はい。おこわさんを初めて見たとき、案外愛嬌があってかわいいなって思ったんです。それで、デザインをしてみて川端さんに相談したら専門店に持って行くといいって言われて」
ふふっと満足げに一人微笑んだ。いつかラーメン屋で丸め込まれ、ゴミ屋敷の掃除をさせられるハメになったときの笑顔を思い出す。あのときも今も、変わらず憎たらしい。
「それでとんとん拍子に、二十万円が手に入りまして」
二十万円、という響きに覚えがある。青木たちにとって、意味の深い金額だ。
「まさか、その二十万って」
「何かお礼をしようと思っていたら川端さんの行方が分からなくなっていたので、そのために使うことにしました」
正気かよ、と聞こえないように言ったつもりが聞こえていたらしい。
「川端さんがいたおかげで今の職場と縁ができましたし。無事川端さんも見つかり、我ながら見事な選択でした。必要物品で二万円多くかかったのは計算外でしたが、結果から見れば些細なことです」
大事そうに紙袋を膝の上に置き、何事もなかったように背後を気にしている。知れば知るほど、那菜という奴は侮れない。川端が清掃料を支払うと言い出したときも、四人がかりで説得しても那菜はなかなか納得してくれず大変だった。そんなところも含め、面白い奴だとは思う。
あ、と那菜が声を上げる。大げさな荷物を担ぎ、足音やら荷物が揺れる音やらをどやどや立てて木井と高代がやって来た。
「よかった、間に合った」
木井が胸を撫でおろし、青木の後ろの席に座る。よほど慌てていたのか忙しなく辺りを見回し、まだ? まだ? と息も絶え絶えに確認している。
「大丈夫だろ、まだ空席だらけだ。というか、なんだその荷物」
高代が両脇に抱えているカバンやら手提げ袋が立てる音が、一層忙しなさを強調していた。
「いやー、やっぱ差し入れがいるかなと思ってさ。何人ぐらいいるか分かんないから買えるだけ買ってきた。ま、若い者どもはたくさん食べるでしょ」
口ぶりからして、中には買ってきた菓子でも入っているらしい。木井が肩をすくめる。
「買うならちゃんと専門店で買おうって言ったんだけどね」
「キーくんみたいに高いお給料もらってないからね。いーの、学生は砂糖が入ってればなんでもありがたがって食べる」
なんだそりゃ、と青木も木井と同じように肩をすくめた。軽く言葉を交わしている間にも、木井と高代の肩越しに見える後列が騒がしくなってきた。学生たちは流れを熟知しているらしく、合図でもされたかのように速やかに持ち場に散っていく。空席だらけだったパイプ椅子は、瞬く間に固い面持ちの学生で埋まっていった。
「始まるみたいですね」
那菜が右前方に置かれたテーブルを指さす。先ほどまで学生と話していた講師らしき男から、マイクを受け取る小柄な女の姿。麻子が、こなれた司会者のように笑みを崩さず頷いている。自分から進行役を買って出ただけあって、入念に準備をしてきたということだろう。小さく息を吸った後、麻子の声が会場に響く。
「卒業生の皆さん。本日はおめでとうございます」
「まだ分かんないからね! 今日の出来次第じゃ全員留年かもしれんから」
麻子の隣の男が、マイクも持たず声を張る。三十代半ばらしき男は、活発な兄貴分といった振る舞いだった。恐らく男もまた本業は芸人なのだろう。客席や設営係の学生たちから笑い声が聞こえ、日常的に近い関係にあるのだと分かる。お笑い養成所といっても異様な髪型や目立ち方をしている者はなく、講師も学生も一般的な大学生とあまり変わらないように見えたのが意外だった。
「すみません、つづきをどうぞ」
男が笑ったままコミカルに頭を下げる。麻子も照れ臭そうにマネしてから客席へと視線を向けた。
「今日は皆さまの卒業ライブということで、渾身のネタが見られることを楽しみにしています」
「渾身のネタでも滑るときは滑るけどね」
絶対滑らねえし! 客席の一人が立ち上がったことで、周りに大きな笑い声が広がる。麻子も手を叩いて笑い、次に言葉を発するタイミングを窺っている。レンタル彼女として初めて会ったときとも、素の麻子とも違う無理のない所作だ。声優の卵として、彼女も経験を重ねているのだと知る。
「これから卒業生の皆さんに一組ずつネタを披露して頂くわけですが、今日は特別に前座の方をお呼びしています」
「前座って、ちょっと待ってよ。こいつらからしたら大先輩だからね!」
軽快なやりとりに聞き入りながら、青木は思わず体を起こした。前座、とは川端から聞いていたので最初なのは当然だが。会場の空気の急な変わりようにまだ頭が追いつかない。
「それでは、うれたんずのお二人の登場です!」
会場の明かりが消える。暗闇の中で、慌ただしく客席の両脇や前方を動き回る気配がする。どうやら追いついていないのは学生たちも同じらしい。
「出囃子、出囃子!」
麻子の隣にいた男が声を潜めて指示しているが、普段客前で見せているだろう声量が仇になって、青木たちにもはっきり聞こえてしまっている。
「出囃子が始まらないよ」
「あれ、リハでは鳴ったのになんで」
音響係らしい学生の焦った声もする。本当は出囃子がかき消してくれるだろう、コント用の舞台を設営する音も派手に響いている。暗転も中途半端に明かりが残っており、本当なら客側に見えてはいけないだろう、舞台上を右往左往する動きまで丸分かりだ。本来は学生たちしかいない内輪向けのステージとはいえ、杜撰さに見ている方が不安になってくる。
ふふ。思わず、といった様子で隣の那菜が吹き出した。子の出番を待つ親のような心細さを覚えていた青木と違い、那菜は純粋にこの場が楽しいようだ。
「あの二人の復帰には、これぐらいゆったりしている方が似合っているかもしれません」
「ゆったりねえ」
うれたんずの二人が、再出発の始めとして選んだのがこの舞台だ。卒業校での凱旋ライブ。もっとも、学生同士で行う卒業ライブであり本来は前座などというものは存在しない。当然報酬も発生していないだろう。それでも二人はこの舞台を選んだ。実現には、同僚の芸人や先輩など多くの人の助けがあってのことだそうだ。そこに、青木たちは招かれた。
「ほら、特に歌村さんなんて、いきなり大々的にやると興奮して何しでかすか分からないですし」
那菜の視線の先に、組み上がりつつある舞台の上で椅子に座る人影があった。川端よりも背が高く、体も厚いのが分かる。あれが、歌村拓。
歌村に向かい合わせになるように、同じく椅子に座っている人影が見える。シルエットだけでも頼りない猫背。川端だ。
唐突に鳴った爆音に飛び跳ねそうになった。軽快なギターの音に紛れて、数人の安堵した声がする。無事、音響機器の機嫌が直ったらしい。周囲から徐々に声が消えていく。出囃子に声をかき消され、いよいよ始まるという期待とともに視線が舞台上へ集まる。
場を盛り上げる音楽の中、青木も舞台上に集中した。二人の影は俯き、照らし出される瞬間を待っている。
青木は眉を上げた。微かに、歌村の首が動いた気がした。表情は分からないが、川端の方を向いた気がする。遅れて川端の肩が微かに揺れる。青木は客席まで届くはずもない、うれたんず二人の囁き声を聞いた気がした。言葉を交わし、笑い合う二人がそこにいるように見えた。
出囃子が止み、会場にゆっくり明かりが戻っていく。川端が最初の台詞を発するとともに、青木は二人が生み出すコントの世界に飲み込まれていった。
了
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