7日目 夜 二十八

 気づけば那菜や青木たちが片づけてくれたはずの部屋は、川端の周囲を囲むように物が散乱していた。時間が止まっていた部屋が散らかる様は魔法が解けていくようでもあった。

 呆然と天井を見上げていた。目を逸らしても指先が触れてしまう。床に投げ出されたノートと、その隣の厚手の感触は色紙か何かだろうか。もうどうにもできないのだと知る。結局、家を出て死のうとしても、片づけられたこの家に帰ってきても自分は何も変わっていない。みっともなく母に追いすがり、喚き、探してしまう。大丈夫じゃなんかなかった。家を離れ、自殺を考え直し、ようやく見えたと思った未来が黒く靄がかかったように消えてしまう。これを繰り返すのだと思った。死ぬまで自分は、母の幻影から逃れられない。世界でただ一人、自分を受け入れてくれる存在だったのに。

 震えた手が、固い感触に触れた。すぐにその正体に気づき、柄を掴む。戒めにと歌村から預かっていた包丁が、運命を示唆しているように思えた。そういうことなのだろう。自分の人生を象った物たちに囲まれ、戒めの包丁を使って母の元へ行く。何も無かった川端雅之という人物の、せめてもの弔いの場が整えられていた。包丁を握り、切っ先を腹に当てる。両手で持ち替え、頭上に掲げたとき。

 心臓を内側から貫かれたのかと思った。包丁を取り落としそうになり、思わず払いのける。着信音だ、と気づいてからも体が固まってしばらく動けなかった。他の物たち同様、床に投げ置かれたスマホが光り、無機質な音を鳴らし続けている。発信者の名前は表示されていない。川端は這うようにスマホに辿り着き、通話ボタンを押した。誰でもいいから人の声が聞きたかった。

「あの」

 男の声がする。

「青木です。今日、家で会った……すみません、もう休んでましたか?」

 声が出せない。心臓の音ばかりうるさくて、なんと答えたらいいのかまとまらない。

「あの、ほんと、すみません今更。でもどうしても気になって、なんていうか。少し話してもいいですか?」

 声が出ず、涙ばかり出る。涙が画面に落ちて、その音でも伝わればいいと思った。なんの涙かも分からず、運命を預けるように川端は目を閉じた。また大粒の涙が落ちる。

「もし不快だったら電話を切って下さい」

 そう声がし、川端は頷く。頷き一つでさえ、ぎこちなく不格好に強張る。顎を伝ってまた涙が落ちる。

「俺、川端さんの最後の言葉がずっと気になってました。本当に必要な物は見つからないって。なんでそんなこと言ったのか、あの後ずっと考えてたんです」

 床に置いたままのスマホから声が流れ続ける。聞いていると伝えたいのに、不思議と息を殺して自分を隠してしまう。

「だって、ちょっとムカつくじゃないですか。俺らだって必死に、そりゃ仕事としてですけどマジになって片づけたんです。必要かもしれない物は残したつもりです。それでいて、本当に必要な物は見つからないって。失礼じゃねーか、ってちょっと思ったんです」

 時々、こちらの反応を確かめるように間が空く。届くはずのない頷きを、川端が返す。

「ただ、なんか、それだけじゃないのかもなって思って。俺なら何が必要かなって考えました。自殺考えるぐらい追い詰められて、どうにか家に帰ってきて、何があったら嬉しいんだって、そう考えたんです」

 やめてほしい、と川端は思った。何も大層な真実など無いのだ。いつまでも母親離れができない、ただの子どものワガママだなど、今さら言えるはずもない。

「これがさっぱり分からなくて。思いつくもんはスマホとか車とか。まあ、あったら便利だとは思うんですけど、川端さんが言ってるのってそういうのじゃない気がして」

 青木の声が止まる。こちらからの返答を待っているのか、言うべき言葉を探しているのか。隙間があってから、仕切り直すようなカラリとした声で続けた。

「結局、答えは俺にはわかんないんですけど、これだけは伝えておきたいんです」

 声に集中するうち、響いていた心臓の音は静かになっていた。

「あなたのことを待っている人がいます」

 嘘だ、と口に出してしまいたくなる。うれたんずとして活動できなくなってから、川端雅之を求める人間はこの世から消えたのだ。一度はうれたんずの再結成を夢見ることだってできた。それが、この家に戻り気づいてしまった。どうしようもなく、自分は一人だ。

「麻子さんは、本気で川端さんのことを心配していました」

「それは違う」

 自分でも驚いた。耳を塞いでしまいたかったのに、そうせずに言葉で青木を拒んだ。あの子は仕事として付き合ってくれていただけだ。心配など、しているはずがない。

 突然返ってきた答えに驚いただろうが、電話の声は毅然としていた。

「彼女は俺たちをオカミネビルまで行くよう説得しました。川端さんはずっと助けを求めていたんだと思うと、そう言って聞かなかった」

 宮城麻子。歌村が逮捕されてから彼女に出会った。一人でステージに立ち、どうにか新ネタを書こうとしていた頃。母を見つけられず頭がおかしくなりかけていた。もう死ぬしかないと短絡的な答えを出そうとした寸前、ようやく記憶の中の歌村が教えてくれた。

 エンターテインメントを勉強しろ、全てを笑いに活かせ、新しいものが出たら飛びつけ、未知の世界が芸を助けてくれる。

 当時、始まったばかりのレンタル彼女というサービスに目をつけた。何かを得たくて電話し、現れたのが麻子だった。声優になりたくて専門学校に通い、学費のためにこのバイトをしている。そう言っていた。バイト中も演じた声で客と接することで、勉強にもなると話していた。川端にとって、自分の境遇を話しても変わらずに接してくれるただ一人の存在だった。おこわさんの世話を頼み、遺書の入った金庫の鍵まで預けた。錯乱しかけの精神状態で、唯一無理を頼める相手として浮かんだのが麻子だった。

「麻子さんが説得してくれてよかったと思ってます。こうして、生きている川端さんと会うことができた」

 なぜ、と思う。自分と会って良かったことなど、一つも無いだろうに。

「那菜さんはあの家の片づけ料二十二万円を自分が払うと言い張っています。あなたを見つける手がかりを探すために、清掃を依頼したと言っていました」

 田上那菜。歌村が襲った男の妹。初めて声をかけられたときは恐ろしくて逃げ出してしまった。裁判のとき、寝てますよね? どうしてですか?

 その声がしばらく耳にこびりついていた。もちろん寝るつもりなどなかった。だが。舞台に上がれば好奇の目で見られ、家に帰ればゴミ漁りを始めてしまう。楽屋にいても周囲の芸人が気を遣っているのが分かる。無間地獄だ。裁判所にいるときだけは、一人の傍聴人として世界に溶け込むことができた。その居心地の良さに、意識を委ねてしまう。まどろみ落ちていく感覚を、自分の意思ではどうすることもできなかった。

 二回目に声をかけられたとき、責めるつもりは無いと言われた。単に、表現者として興味深いと。川端は信じていなかった。それでも会っていたのは、復讐してくれることを望んだからだ。相方として、歌村の暴走を止められなかった罪を償えるならそれでいい。

 本気で川端を恨む気がないのだと気づくまでに、数か月はかかった。一向に害する様子のない彼女は、おこわさんが気に入ったらしく何度か家に来ては興味深そうに見つめていた。あの頃はまだ、おこわさんは明乃が連れてきたときから使っているガラスケースの中だった。物で溢れていく家の中、当然の成り行きだとでもいうようにケースは壊れた。集めたガラスをタンスに詰めて、おこわさんは流し台に避難させた。彼女と会う機会が減ったのはそれからだ。流し台に追いやられたおこわさんの姿だけは、見せられないと思った。                    

「川端さんの大変な状況を見たら、俺らに何ができるかは言いにくいですけど」

 スマホからは変わらず青木の声がする。

「でもなんかはできると思ってます」

「なんか、って」

 つい口から声が出た。頼もしいような、いい加減なような、なんか、という言い草に苦笑してしまった。笑った拍子に涙が落ちる。だが眼の淵に溜まっていたそれが、最後の涙だった。ようやく分かった。自分は、怖くて泣いていた。ずっと一人が怖くて泣いていた。

「なんか、は具体的には何も分からないです。でもなんかしたいんです。それは麻子さんも那菜さんも、俺も、木井ってくそ真面目も、高代って変な芸人かぶれも同じです」

 一人一人の顔が浮かぶ。今日、この家に集まっていた彼ら。こんなことを許してしまっていいのだろうか。何も遂げていない自分に、手を差し伸べようとしている者がいる。そんな幸運が、許されていいのだろうか。

「頼むから信じて下さい。あなたがいなくなったら困る人がまだまだいる」

 膝に力が入る。川端は床に置いていたスマホを拾い上げ、立ち上がった。振り返り、自分がいた部屋を確かめる。散乱したままの物たち。今しがた、この手で生み出した惨めな姿がそこにある。おぼつかない足で踏み出し、今度は廊下を挟んだ隣の部屋を覗いた。先ほどまでウレタンマットが広げられていた部屋。今は片づけられ、床には何も無い。新しい部屋だ。何を置くのも、捨てるのも、阻むものは何も無い。全て自由だ。

「もう、探さなくていいんですね」

 え、と戸惑った様子の声が聞こえる。上ずる声は、期待も混ざったものの気がした。

「いえ、なんでもありません」

 まっさらな部屋が教えているようだった。今日までの川端雅之はもういない。全て、無に帰ったのだと。いや。川端はこの部屋に一つだけ残されている物に気づいた。天井の近くから、この部屋を見守るように貼られたままの賞状。

 第二十二回NGKお笑いグランプリ 審査員特別賞 うれたんず

 川端は笑った。こんな簡単なことに気づかなかった自分を笑った。うれたんずの二人なら、無敵だと思えた瞬間がある。歌村と川端の二人が組めば、怖いものなど無かったはずだ。あれから十五年。うれたんずは無敵ではないことばかりだった。かび臭いステージで、誰も立ち止まらない遊園地で、かじかむような野外で。誰も自分たちを見ていないと、幾度となく気づかされた。それでも。自分たちはコントを止めなかった。

「どうかしましたか?」

 青木の探るような声がする。傍から見れば異様な変わり身だろう。だが川端からすればそれも愉快だった。笑えばいい。うれたんずのコントを見て、生き様を見て、笑うのだ。無様でも、見苦しくても、見た者全てを笑わせる。ずっとそうやって生きていく。ようやく思い出した。

「いつからか、忘れていました」

 受話器の向こうから声はしない。川端は胸を張った。

「僕たちはお笑い芸人だったんです。今までも、これからも」

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