記憶のランドマーク
涼風 弦音
記憶のランドマーク
記憶にもランドマークは存在する。たとえば、靴擦れをしたら急勾配の長い階段を思い出すし、花火が上がると赤いレンガと波音を思い出す。広がり続ける時間という地図に、記憶という付箋が貼られては落ちて貼られては落ちてを繰り返す。けれど、どうしても剥がれない付箋はあって、それはまるでどこにいても一瞬で分かるランドマークのように、古くなった記憶を一瞬で呼び戻す。
二年経っても正解の分からないオフィスカジュアルを着て、どうせマスクで隠れてしまうからとアイラインだけした午前六時半。テレビから流れるリポーターは私と違って元気で可愛くて「
*
大学三年の春、サークルの新入生歓迎会だった。
「須賀です。大学寮を借りています。ええと……あと一浪です。よろしくお願いします」
たったそれだけ言って頭を下げた彼に、先輩たちは苦笑いを零した。けれど、その朴訥なところも腰を曲げるのが大変そうな身長もどストライクに好みで『彼と出会うために、わざわざ横浜の大学に進学したんだなぁ』なんてお花が咲いてしまったのを覚えている。
「あれ? 恋、しちゃった?」
「やめてよ。部内恋愛とか怖すぎ」
にやけた同期を無視して歓迎の拍手を送る。今の私には、恋をする余裕なんてない。就活は既に本腰を入れていて、恋愛なんてする気力も他人に費やす時間もない。……なんて綺麗事を並べてはいるが、頭に浮かぶのは部内恋愛で酷い目に遭ってきた先輩たちの涙。今の私は、就活以上に振り回されるものなんて抱えたくなかった。ただの先輩と後輩。ちょっと仲良くなれたら御の字だと、頭に咲いた花をへし折った。
就職活動を始めて一年が経った。大学四年の夏だった。
面接帰りの気晴らしに参加したサークルの飲み会は、一言で言えば最悪だった。
「内々定、三企業取った!」
「私もお断りの電話しないとだし憂うつじゃん」
『そんな憂うつならいくらだって引き受けてやるよ』と心で悪態をつきながら、同期の自慢話を曖昧に頷く自分も惨めに感じて、ビールを煽った。
「先輩はもう社会人っすもんね! 給料どうっすか?」
「まあ稼いでる方だとは思うよ」
隣で豪快に笑う先輩は、似合わないスーツ姿だった。私も一年後にはそんな風に笑えているのだろうか。不愉快なのはぬるくなったお酒のせいだと言い聞かせて、残りを一気に飲み乾す。
ガタン!
手が滑って、ジョッキが大げさに鳴った。
「お前、まだ決まってなかったんだよな。悪かったわ」
「違いますよ! 怒ってないです」
「そっか。いつでも相談乗るからな!」
先輩に頭を撫でられそうになってそっと離れた。部内恋愛でこじれた先輩の元カノが遠くから鋭い視線を向けてくる。逃げるように反対隣に置かれたメニューに手を伸ばした。
「ごめん。メニュー取ってくれる?」
「あ、乾いてましたね。すみません」
いつの間に席替えをしたのか、須賀くんがいた。好みの顔が目の前にあって驚きつつも、沈んだ気持ちでは何かある訳でもない。
「先輩、何飲むんですか?」
「ビールにしようかな」
「俺、あんまビール飲めないんですよ。苦いっつーか」
確かに『とりあえず生』しか飲んでないのに赤ら顔をしている。今時の子は、そういうの合わせないで甘いカクテルでも飲むものかと思っていた。
「クラフトビールなら飲みやすいかもね」
「へえ。飲んだことない」
「横浜ってクラフトビールも有名だと思ってた」
「あー。俺、山梨出身なんでワイン文化なんです。ビール、何かオススメあります?」
「そうだなぁ。今度、一緒に飲みに行こうか」
気晴らしだから大丈夫と誰にも聞こえない言い訳をして、スケジュール帳を開いた。
それから、須賀くんと時々飲みに行くようになった。正確には後輩や同期が何人かいたりしていた。私自身、二人っきりというのは抵抗があった。
けれど、お酒というのは凄いもので、きっかけは、私の内定が決まったことだった。いつものようにビールを頼んでつまみを選んでいる時に
「ビールに合うのは小籠包なのに置いていない」と誰にも聞こえないように愚痴った私。けれど、隣に座っていた須賀くんはそれを拾ってくれていた。
「じゃあ食いに行きましょう。折角横浜にいるんですから」と須賀くんが言って、同期の悪ノリもあり、あれよあれよと事は運んだのだ。
――次は元町・中華街、元町・中華街――
カップルを視界に入れないように、改札を出ると赤い門があった。香ばしい油の匂いがしていて「タピオカ飲みたい」だの「船が見たい」だの観光地らしい会話に思わず気持ちが高揚する。
刀削麺の看板を覗いていると不意に肩を叩かれた。振り返ればいつもよりラフな格好の須賀くんがいてデートを意識せざるを得なかった。
「それ、食べるんですか?」
「生意気な後輩だこと!」
一気に肩の力が抜けた。年上レディを食いしん坊認定している後輩は全く可愛くないが、こんな風にからかう仲になれたことが嬉しかった。
そこからは、いわゆる王道デートをした。中華街で小籠包の焼きと蒸しの違いを力説して、赤レンガ倉庫前の芝生でクラフトビールを飲んだ。柔らかな芝生に、海鳥の声、波音に負けない強い翼の音。そして、隣には気になる男子。『青春かよ』と他人事のように思って、気恥ずかしくなってむせた。それを彼が笑うから、つられて私も笑った。やっぱり青春だった。
大学寮の門限ギリギリまで遊んでしまって、急いで桜木町駅に戻ろうと汽車道を通った時だった。
「どうしました? 酔いました?」
不意に足が止まる。心配そうな顔を横目に橋の手すりに触れた。ランドマークタワーの誘導灯がぽつぽつと不安気に点滅を繰り返して、建物たちの光は黒い海を淡く着飾る。後ろを通る人達に混ざって流れるカモメの羽音。雰囲気づくりのBGMと分かっている。でも、ここにある全てに私は酔っていたのだ。
「お酒は平気。酔ってないよ。……ただ」
ただ、ひたすらに楽しかった。だから、今日を終えたくないと思ってしまったし、就職で横浜を離れても彼の隣にいられる権利が欲しくなった。初めはただの先輩で良かった。彼と話して、仲の良い先輩になりたくなった。でも、それだけじゃ足りない。もっと、次は、本当は。海に重なる色たちはまるで欲張りな私の心のようだ。
「ただ?」
この街のロケーションは、堪えていた言葉を押し出すばかり。
「好きだよ、須賀くん」
狡い私は海を眺めていた。赤、白、オレンジ、青、緑、ピンク。混ざって溶けて揺られて彩られていく。数秒の沈黙の後、彼は一言
「そうですか」と言った。
「そうですかって」
「地元に戻るんですよね」
「うん」
「いや、かっこいいですよ。大手企業に就職して、実家に帰る。貯金も出来るし、親御さんも嬉しいだろうし、人生設計もちゃんとしいるし、凄いとは思いますよ」
褒められているはずなのに責めている口調だった。波音はハウリングして頭をぐるぐる回り、心臓を侵して呼吸を乱す。
「でも、先輩は先輩でしかなくて」
「そう。うん。そっか。えっと……ごめん」
「いえ。その、俺」
飲み会で元カレを見ていた彼女の姿が浮かぶ。その顔は『ほらね』と悲しそうだった。
彼の言葉を最後まで受け止めずに、そのまま駅に歩き出す。隣に並ぶでもなく、彼は後ろを着いてきた。
「あの、先輩のことは尊敬してます」
戸惑うような声色はらしくないじゃない。
「いつも楽しかったし、今日も楽しかった」
過去形で言わないでよ。
「先輩と話すのは気が楽だし」
だったら隣で話せばいいのに。
「先輩は凄い努力家だし、優しいし」
カモメも雑踏もお願いだから静かにして。
「サークル入って良かったと思った」
誰も彼の言葉を邪魔しないで。
「でも、社会人と学生じゃ続かない」
やっぱり、海が荒れればいい。
「デートのつもりはなくて」
人工音でも構わない。強く強く翼をはためかせて。
「……うん。っ、そう……だね」
頼むから、全部、全部、搔き消して。声も嗚咽も記憶も感情も、全部、全部。
「勘違いさせてすみません。横浜は、駄目でした。だってこの街は」
海は幾重にもなり、何色でもなかった。彼の言葉も私の姿も、水面は全てを曖昧にしか映してくれない。それがとても有難かった。
*
時計が鳴る。気づけば、ニュースはお天気コーナーに変わっていた。記憶のランドマークは酸いも甘いも関係なく、一瞬で時間も場所も越す。
彼が言った最後の言葉。
――恋人じゃないのに来るべきじゃなかった。
結末は不幸でも、最高のデートだったと思う。今、もしも好きな人が出来て、デートをすることになっても、きっとあの日ほど印象に残らないだろう。大人になって見える世界が広がった。社会人になってお金の余裕も出来た。
それでもあれを最高のデートだと言えるのは、どうして? 隣にいたのが彼だったから? 青春時代の私が可愛かったから? 確かに、就職した先がブラック企業だなんて微塵も思わず笑っていた私はに可愛かったし、人生の全盛期だろう。それでも、あれが最高のデートになったのはそんな理由じゃない。申し訳ないけど、多分彼のおかげじゃない。
「恋人じゃなくても、最高だったよ」
どれだけ好きでも、幸せでも、きっとあの街じゃなきゃダメなんだ。あの街には多くの付箋が落ちている。ハイカラで粋でおしゃれで美味しくて、一瞬一瞬がドラマチックな街。私の華やかな気持ちを映して、汚い心は深い海の底へ隠してくれる街。じゃあ、私が恋をしていた相手は誰? そんなことを自問してふっと笑った。
「会社、行くか」
山道を通るバスの中で、一人海の香りを纏っていよう。
記憶の地図に貼られた付箋に
#青春
#最高のデート
#私が恋した相手
と書き加えて、いつか現れる王子様がランドマークを探して呼び起こすその日まで大切に閉じておこう。
終
記憶のランドマーク 涼風 弦音 @tsurune
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