小説を書く人はアマもプロも問わず一人称と三人称の長所と短所を議論します。
そんな中、極めて少数ですが、二人称、と称される文体で書かれた作品が存在します。読者はずっと「あなたは……」と語りかけられます。
滅多に採用されない理由は、読者に不快感を与えるためです。読者は小説を読んでいる間はずっと、自分の行動も思考も決めつけられ続けます。反発できれば、まだマシです。自分自身が分からなくなった後は、もう……
本作の作者は物語自体だけでなく文体での実験に挑み続けています。メジャーにはなりませんが異端として興味深い作家です。
本作で挑んだのは二人称。この難物をいかに使いこなすか。
複数の話の連作ですが、いずれも主人公は自分自身の認識に揺らぎがあります。経歴、立ち位置、それらに曖昧さを抱えて物語のスタートラインに立ちます。
これを二人称で語られると、読者自身と違う記憶と感情を強制的に注入され、自分自身への違和感を疑似体験するのです。
一人称や三人称で自分自身が分からない主人公を登場させると、このバカはなんだ、と呆れられるおそれもあります。
二人称で強制されると自分自身への違和感を受け入れさせられます。暴力的で不親切ですが合う人もいます。これが二人称の使い方です。
読むと気持ち悪いですし疲れます。でも特異な体験をできます。作者自身が警告するように、危険物である小説です。
難易度の高いレビューをする。その、自覚と覚悟は持ってきた。
本作品は三つの異なるシチュエーションと、三名の主人公(わたし)の視点から構成されるオムニバスである。
[わたし]は現在-過去-未来を、或いは物語を変則的に行き来しながら、歪で曖昧な不安に囚われて行く。
この可逆的な変遷には恐怖と安堵が、非情と温情が、虚と実が綾を成し、その先に衝撃の『キマイラ』が潜んでいる事は想像に難くない。只、この作品は[わたし]に 現実的な恐怖 よりも 根源的な恐怖 を齎すだろう。
理屈で上手く言い表せない不安と恐怖は読み手を魅了して離さず、その歪さは自然界の黄金比にも似て、美しいフラクタルを描く。その様に[わたし]は深い感動と尊敬を覚えるのだ。
但し(わたし)が其々体験する三つの物語は、かなり怖い。