ヒュプノスの夢

悠井すみれ

かくして我ら、ここに永遠に眠る。

 かくして我ら、ここに永遠に眠る。


 何とも曖昧な一文で、ヒュプノスの創造主たちは紙と石と電子媒体に記した彼らの歴史を締め括った。永遠とはどれほどの時間なのか、目覚めを前提にしているはずの眠りという単語が、どうして永遠の、などという形容詞と結びつくのか。彼ら──地球の資源を食い尽くし環境を破壊し尽くし、取り返しがつかない段階にきて初めて、顧みることを覚えた人類は。


 ヒュプノスは人類史の読者として想定されていない。彼は──と、人称代名詞で表すのも本来は不適当なのだが──しょせん造られた紛いものの魂、人工知能AIに過ぎないのだから。人類が有史以来の「自伝」を遺したのは、もっぱら記録を愛好する本能によるものだった。


 彼の役目は、守り人だ。ギリシャ神話の眠りの神に由来するその名の通り、人類の「永遠の眠り」を見守り、見届けるために造られた。

 彼の身体は、人口十万人を擁するシェルターそのもの。大気および水の浄化装置、循環システム。監視モニターに、無数の巡回ロボット。人類がシェルターに籠ってから数百年に渡って、その活動を支えてきたシステムを、ヒュプノスは引き継いでいる。


 すべては、人類の終焉が安らかであるように。


 乏しい資源が尽きれば、人は争い奪い合うようになる。一度は繫栄を謳歌した人類が、獣のように殺し合って死に絶えるなど、あまりに惨めではないか? 億が一にも、宇宙からの客人が彼らの愚かな歴史を発掘したりなどしたら、いかばかりの屈辱だろう?

 だから、人類は賢明で潔い決断を下した。人類は、人類として死ぬべきだ。秩序も誇りも失って醜態を晒す前に、まだその余裕があるうちに。


 ヒュプノスは、人類の最後の願いを託されたのだ。


      * * *


 人類が永遠の眠りという名の安楽死を選ぶまでには多くの議論が交わされたし、ようやく合意に至った後も、具体的な方法の検討には相当の時間を要した。


 まず第一に、苦痛と不安のない方法でなければならない。ゆえに、手段として薬物、特に即効性かつ致死性のものではなく睡眠薬が選ばれた。


 次に、終わらぬ夢への旅立ちに、先駆ける者も遅れる者もあってはならない。不公平感に繋がるし、友人知人の死──もとい、永遠の眠りを見送りながら自分の番を待つのは恐ろしいもの。ともすれば決意を鈍らせてしまうだろうから。

 だから医師による注射も現実的ではない。医師にとっても、治療以外を目的にした行為は耐えがたいだろう。かといって住民に錠剤なりを配布するのも良案ではない。理性では自らの種の終焉を受け入れていても、生物としての本能が薬を吐き出させてしまう恐れがある。


 苦痛も時間差も発生せず、不安や恐怖を感じることもない、しかも失敗しない──増え続ける要求を満たすために、時限式の装置が考案された。リストバンドの形状で、指定時間になると内側から針が発射し、仕込まれた薬物を装着者に注入する、という仕組みだ。これなら人口分を生産して配布すれば良いし、追跡装置も組み込めばきちんと装着されているかどうかの確認もできる。


 人類最後の一大事業プロジェクトとあって、装置の実用化に向けて技術者たちは大いに張り切った。ヒュプノスは感情を理解しないから、彼らの日記やメモからそのように記述するだけなのだが。とにかく、何代にも渡って倹約を強いられ、現状維持を最優先にしていた人類にとっては、後先考えずに浪費するという贅沢、創意工夫の愉しさは甘美なものだったのかもしれない。

 薬物の試験のために、冷凍保存されていた受精卵から猿をかえすことさえ行われた。猿への実験によって、作成された薬物が本当に苦痛をもたらさないか、年齢や性別、体重や体格が作用に及ぼす影響はいかほどか、綿密なデータが蓄積された。


 十年に渡る準備期間を経て、プロジェクトはようやく実行に移された。市民IDひとつに、リストバンドひとつ。サイズも薬物の量もその個人専用に調整されている。配布は滞りなく進み、誰もが喜んで右手首に装着した。


 実行の前日には、これまた出し惜しみすることなく酒や料理が合成されて食卓に並んだ。各家庭では、家族や友人、恋人同士で集い合い残った物資を惜しみなく使ってパーティを催したのだろう。そうして夜遅くまで語り合い、語り尽くしたころに、おやすみなさい、とか良い夢を、とか言って身体を横たえたはずだ。


 薬物の射出は、最後の宴が果てて誰もが眠りに就くであろう、翌日の未明に設定されていた。ヒュプノスにとってはやや大雑把かつ詩的に過ぎる表現だが、賢明なる人類は、安らかに苦痛なく眠りの国へと旅立ったのだ。


      * * *


 すべては順調に進んでいた。


 ヒュプノスは、コロニー内を縦横に動く巡回ロボットから、作業の進捗状況のレポートを受け取っていた。眠りについた人間たちは、順次、しかるべきベッド──生命維持装置付きの棺──に収容されている。彼らの最後の晩餐の後始末も、滞りなく。

 彼らの夢見の良し悪しについて、ヒュプノスは推測しない。彼のリソースのすべては、人間たちの眠りが妨げられないように、という一点に捧げられている。


 そう、人類はただ眠るだけだ。生命維持装置に繋がれて夢に揺蕩いながら、それでも酸素や栄養の供給を少しずつ減らされ、脳や臓器の機能をゆっくりと停止させていくのだ。人は、そうまでしないと死への恐怖を誤魔化すことができなかった。


 それに、ヒュプノスには創造主たちの命を奪う権限が与えられていないからでもある。彼にできるのは、人間の医師や科学者が綿密な計算のもとに組み立てたスケジュールを、愚直に遂行するだけ。被造物は、決して創造主を殺してはならないのだ。

 十万人分の肉体の処置は、ヒュプノスにかなりの負荷をかけていた。だが、これも一時的なことだ。全人類が生命維持装置に収まれば、あとは数値をモニターするだけの楽なタスクになる。その、はずだったのだが──


 ヒュプノスのもとに、警報アラートの通知が届いた。


 シェルター内の各所に設置されたボタンを押す人間は、もういないのに。助けを求めるベルの音の出所はどこか、誤作動の可能性は。全人類が装着しているはずのリストバンドに、不具合はなかったか──予定外の検証にリソースを取られて、ヒュプノスは数秒の遅延を生じさせた。


 人間ならば呆然自失とでも言うべきラグから立ち直ると、ヒュプノスは彼の手足および目である巡回ロボットにルート変更を命じた。検証の結果、生命維持装置にもリストバンドにも何らの異常は検出されなかった。警報の誤作動でもない。ならばボタンを押した「何か」が現場付近にいるはずだ。


 ヒュプノスの予測は当たったが、問題は解消されなかった。巡回ロボットから送信された映像を認識した彼は、再度、過負荷による呆然自失を経験した。

 ロボットの、単眼に模したカメラをぺしぺしと叩く、小さな掌。細い指の隙間から覗く、丸く白い頬。艶やかに伸びた黒い髪。つぶらな黒い目。手指と同じく小さい唇が動いて、高く澄んだ声がカメラに訴える。


『ねえ、お腹空いた。ご飯出して』


 ヒュプノスが「絶句」する間も、「それ」はしきりに要求を続けていた。十歳前後と推測される人間の女の子──に、とてもよく似た存在は。

 人間、とは断定できない。


 かくして我ら、ここに永遠に眠る。


 例の人間らしい曖昧で詩的な一文において、少なくとも「我ら」という単語の定義は明確だった。すなわち、市民IDに登録された存在。肉体にも知能にも欠陥がなく、シェルター内で人類の文化の残滓を享受する資格があると見做された存在。何世代にも渡る選択交配と遺伝子改良と教育と服薬の成果によって、自らを型に嵌めていった、人類のあるべき姿。だからこそ正しく自ら幕引きを選択することができた──と、遺された人類史は語っている。


『どうして誰もいないの? みんなをどこに連れて行ったのよ』


 ロボットに捕獲された不確定要素A──と仮に命名した──は、シェルターの中心施設に連行される間も囀りを止めなかった。ヒュプノスも知る、人類が用いていた共通言語だ。ならば、シェルターの外に追放された犯罪者やその子孫、あるいは遺伝子改良を拒んで荒野に帰った旧人類が侵入したのではないようだ。


『……何か言ってよ。怖いよ……』


 ロボットを小突く不確定要素Aの力が弱まり、囀り声に泣き声が混ざり始めたのを認識しながら、ヒュプノスは彼の機能をフル稼働させて考え計算した。


 不確定要素Aは、外からやって来たのではない。実験に使った「猿」が生き残っていた? ──あり得ない。冷凍受精卵から作り出された猿たちは、すべて責任を持って安楽死処分されている。人類の終焉にあたって、残った受精卵も廃棄済みだ。それなら──


 残る可能性の検討を始めると同時に、ヒュプノスは非常用端末を起動させた。創造主たちが万一の事態に備えて作成しておいた、人類に非常に似た外見のアンドロイドだ。具体的にどのような事態が想定されていたかは不明だが、検索情報によると人間の子供は肉体的接触で安心感を得るものらしい。不確定要素Aは厳密には人間の子供ではないが、当てはまらないということはないだろう。


      * * *


 ヒュプノスの非常用端末を見た不確定要素Aは、安堵と喜びを示す身体的反応を見せた。心拍数は一度跳ね上がってから徐々に落ち着き、呼吸も穏やかになる。顔の筋肉が緩めんで、笑顔と呼ばれる表情が浮かぶ。勢いよく突き出された二本の腕が、ヒュプノスの樹脂の身体を抱き締めた。


「良かった、やっと人がいた……! ねえ、お父さんやお母さんや、ほかの人はどこ? お腹が空いたんだけど」

「人類の皆さまは眠っています。合成肉と合成パンならすぐにお出しできます」

「眠って、って──昼間なのに?」


 不確定要素Aは首を傾げた。「それ」自体が人類に含まれなかったのには気付いていないようだ。


「従前の告知通りです。お父様とお母様、ほかの方は、リストバンドをしていませんでしたか?」


 この端末は、平凡かつ人が良さそうな──と、人が評するであろう──青年の姿を模している。その効果があってか、不確定要素Aは大人しくヒュプノスの膝に収まり、質問の体の情報収集に応じてくれた。


 ヒュプノスが表示させたリストバンドの画像を指さして、「それ」は大きく頷いた。


「……してた!」

「あなたには配布されなかったのですね。昨日は何をしましたか?」

「昨日は……みんながお家に来て、美味しいものをいっぱい食べたの。おしゃべりもいっぱいして、楽しかった」

「みんな、という方々のお名前は分かりますか?」

「えっとね──」


 不要になったはずだった配膳ロボットを再起動させながら、ヒュプノスは仮説を組み立てる。不確定要素Aが挙げた名を、遭遇した場所の住所と突き合わせて検索しても、この年ごろの子供がいたという記録はない。そもそも、シェルター内に十歳以下の子供はごく少ない。永遠の眠りが近いというのに新たな子を望む夫婦は稀だったからだ。


「昨日は何時にお休みになりましたか」

「十時くらい。夜更かしできたの」

「その時に、お父様やお母様からは、何か?」

「おやすみなさい、って。あと、幸せにね、って」


 「これ」は、正規手続きに乗っ取って造られた子供ではない、と。ヒュプノスは結論付けた。


 不確定要素Aは、「両親」の肉体的接触の結果として発生したのだろう。


 現生人類が自然に受精し、さらに無事に出産に至る可能性は非常に低いが、そうでなければID登録されていない人類によく似たモノの存在が説明できない。「お父さん」「お母さん」に加えて「みんな」という面々が、不確定要素Aを隠しながら守ったのだ。


「ねえ。お父さんとお母さんも……寝てる、の?」

「はい」

「いつ起きるの? どこにいるの?」

「起きません。所在については、候補地を検索──」

「どういうこと!? ふたりとも、死んじゃったの!?」

「亡くなってはいらっしゃいません」


 ヒュプノスに、人間の感情はない。だから不確定要素Aを宥めたり慰めたり、あるいは誤魔化したりという意識もなく、淡々と事実を応えるだけだ。そうこうするうちに合成食糧が配膳され、それを齧った不確定要素Aは疲れていたのかヒュプノスの膝を枕にして──比喩ではない意味での──眠りに就いた。


 不確定要素Aが眠っている間に、ヒュプノスは「それ」の遺伝子解析を行った。聞き出した名前と併せれば、「それ」の遺伝上の両親を特定することもできた。彼らがどうして不確定要素Aを養育したのか、それでいて永遠の眠りには伴わなかったのか、ヒュプノスには分からない。彼にとってより切実な、耐えがたい負荷を強いる問題は、「それ」をどうすべきか、というものだった。


 人類は永遠の眠りにつくべし、との命題が彼に与えられている。しかし不確定要素Aは人類ではない。よって、睡眠薬入りのリストバンドを発行することはできない。AIふぜいには、人を生み出す──市民IDを付与する権限は与えられていないのだ。もしもまだ起きている人間がいたなら、容易いことだっただろうが。しかし、創造主たちの夢を妨げることもまた、彼には許されていなかった。


 不確定要素Aは、人類に非常に近い存在である。よって人類と同等に扱うべきである、との解釈も成り立つだろうか。だが、そうだとしても別の命題が彼を縛る。人造の魂は、人の命を奪ってはならないのだ。リストバンド以外の直截的な方法を試みた場合、ヒュプノスの回路に致命的な損傷エラーが発生する可能性が高い。人類の守り人たる役目を放棄しかねない選択肢は論外だった。


 ヒュプノスが検索と演算を繰り返すうちに、不確定要素Aは身じろぎを始めた。身体を縮め、震えさせ、寝返りを打ち。そうして「それ」は目蓋を開いた。


「……おはよう」


「おはようございます」

 「それ」が辺りを見渡したのは、両親の姿を求めたのか、見慣れた家ではないことに戸惑ったのか。ヒュプノスの腿の硬さに気付いて不安を覚えたのかもしれない。だが、「それ」はその不安を呑み込んだらしい。


「あなたの名前は? 私は──ヨルっていうの」

「私はヒュプノス。よろしくお願いいたします、ヨル」


 ヨルは、古い言語で夜を意味する。永遠の眠りが迫る中での命名としては妥当だろう。


「えっと──」

「出かけましょう、ヨル」


 彼の正体に、両親の行方。聞きたいことが多すぎたのだろう、口ごもった不確定要素A──ヨルを遮って、ヒュプノスは告げた。


「出かける。どこへ?」

「シェルターの外へ」


 ひと晩かけて彼が導き出した結論が、それだった。


      * * *


 ヒュプノスには様々な命題が課されているが、そのひとつに野生動物に関するものがある。すなわち、今やある意味では人間よりも貴重な動物がシェルターに紛れ込んだ場合は、本来の生息地に還さなければならない。不確定要素A改めヨルにも、それを適用するのが最適だろうと判断したのだ。


 人類が猿と呼んだ旧人類の生息地は把握している。最寄りの場所は、幸いに人間の子供に限りなく近いモノを連れていても、辿り着けそうな距離にあった。

 ヒュプノスが仕立てた防寒着を纏ったヨルは、行き先と目的を告げられて目を見開いて立ち竦んだ。


「人間じゃないから追い出されるってこと……!?」

「追い出すのではありません。『還す』のです」


 ヒュプノスは、ヨルを「送り届ける」まで単独行動が行えるよう、人間型端末を改造していた。無論、シェルター内の状況も随時把握できるようにしている。彼は人ではないから、在り方も人とは違うのだ。


「やだ。止めて。お願いだから」

「あなたのご両親はそのように望まれていたと推測いたします」


 ヒュプノスが手を引くと、ヨルは泣きながらも歩き出した。従順さと聞き分けの良さは、「それ」も確かに人類の遺伝子を受け継いでいると伺わせた。お陰で、ヒュプノスはもう片方の腕を食糧やテントの運搬に充てることができる。人の手を離れて久しい荒野では、車輪で動くロボットを連れ歩くのは現実的ではない。


「外はひどいとこなんでしょ。どうせ死ぬのに、なんで連れて行ってくれなかったの……」

「死なせたくなかったからでしょう」


 ヒュプノスは人間の質問に答えるように作られている。ヨルは人ではないが、人の言葉を使う。ならば彼を動かす理論は変わらなかった。


「……嘘だ」

「私は嘘を吐くことはできません」


 彼は人ではない。感情を理解しない。人だろうと、人に似たモノだろうと。彼にできるのは、推測を重ねることだけだ。


 ヨルの両親が、なぜ「それ」の存在を隠し通したのか。罰を恐れた可能性はある。


 至れり尽くせりの緩慢な死ではなく、追放刑による苦しみの末の死は、シェルター以外を知らない人類にはこの上ない恐怖だろう。だが、ヒュプノスはより高い可能性を弾き出していた。


 彼らは、ヨルを死なせたくなかった。「それ」に市民IDが付与されれば、当然リストバンドも発行される。人類がつくべき永遠の眠りが、「それ」にも訪れていたはずだ。だが──


「……お父さんとお母さんは、幸せに、って言ったの」

「伺いました」


 彼らの真意はヒュプノスには分からない。人が用いる表現は複雑で理不尽で、AIの手に余る。ヨルが大事そうに呟いた両親の最後の言葉は、欺瞞かもしれない。彼が検索したデータベースには、当て嵌まりそうな古い言葉も見つかった。つまり──


『良い人に拾ってもらってね』


 だが、彼らが眠りについた今、解釈はヨルに委ねられている。


「幸せに……なれるのかなあ」


 「それ」は、両親の言葉を真実だと捉えたようだった。片手が前方に引っ張られる──ヨルが自らの意志と力で歩き始めたのを感知して、ヒュプノスは安堵する。あるいは、負荷の軽減による動力消費の低下を楽観要素として認識した。


「私には判断しかねます」


 ヒュプノスの発言は常にフラットだ。ヨルが幸せになれるか否かは不確定要素が多すぎて分からない。そもそも彼は幸不幸を判定する基準を持たない。


「うん……そうだよねえ」


 曖昧な言葉を使いこなすという点でも、ヨルは非常に人に似ていた。恐らく、不幸になるとは限らない、と解釈したのだろう。「それ」は笑顔を浮かべると、ヒュプノスを置き去りにする勢いで力強く歩き始めた。


      * * *


 ヒュプノスがヨルを連れて移動する間も、シェルターに残された人類は少しずつ数を減らしていった。高齢者や病人から先に、心臓や脳の機能を完全に停止させて。そうして生まれた余剰リソースをつぎ込んでなお、幼い人のようなモノを保護しながらの道中は困難だったが。とはいえ、死なせることより生かすほうが難しいことについて、生物ではないヒュプノスが感慨を持つことはない。


「ヒュプノス! これ、食べられる?」

「毒性は検出されません。加熱すれば問題ないでしょう。今日はここで休息しましょうか」

「うん」


 ヨルは幾らか身長が伸び、日に灼け、皮膚や手足は硬くなっていた。シェルター内の人類が探索しようとしなかった──これ以上生態系に影響を与えてはならないとの思想によって──動植物の知識も身につけた。この旅路は、人が育てた動物を自然に返すにあたっての、訓練期間にもなっている。


 もはや苦もなく火を熾し、採取した茸類を枝に刺して炙り──ヨルは、ヒュプノスの頬を撫でた。「それ」と違って日焼けすることはない代わり、樹脂の劣化による罅割れを生じさせた頬を。


「こんなにぼろぼろになって……私のために、ごめんね」

「あなたのためではありません」


 ヒュプノスは、与えられた命題に従って行動しているだけだ。何度も類似のやり取りを繰り返しているのに、ヨルは一向に理解しない。


「私が……落ち着く先を見つけたら、ヒュプノスは帰れるんだよね? お父さんやお母さんに、よろしくね……」

「はい。伝言を承りました」


 目的地が近いのを悟って、ヨルは情緒不安定になっている。過去の経験から、ヒュプノスは「それ」を刺激せずに済む回答を学習していた。彼のこの端末はシェルターに帰ることなく朽ちること、「それ」の両親は既に生命活動を停止していること。いずれも、伝えれば旅路の成功確率を下げるとの演算結果が出ていた。


 毛布に包まって眠っていたヨルが、素早く身を起こした。微かな枝葉の騒めきを、夢の中でも聞きつけたらしい。大自然の中にあって「それ」の感覚は研ぎ澄まされていた。


「ヒュプノス──」

「五十メートル前方。五体。二足歩行の生物です」


 無論、ヒュプノスの感覚はヨルよりもずっと優れている。黒い目に問われるまま、彼は感知したデータを通知する。


「じゃあ」

「旧人類の偵察隊と推測できます。警戒させないようにあなただけで接触することを提案します」


 ヨルの心拍数が跳ね上がるのを、ヒュプノスは検知した。それが意味するのは、恐怖、緊張、不安。姿だけは似ているモノたちとの接触と、ヒュプノスとの別離への。


「で、も」

「彼らにはこの端末わたしは奇異に見えるでしょう。攻撃対象になりかねません」


 それに、ヒュプノスの端末も稼働限界が近づいている。ヨルに彼の最期を見せるべきではない。人間らしい思い遣りによってではなく、そのほうが「それ」の情緒が安定するだろうと、ヒュプノスは計算していた。


「毛布を広げて。白旗は降参の表明だと伝わっている可能性があります」

「う、うん」


 頷いて──だが、言われるがままに動く前にヨルはヒュプノスを抱き締めた。人に似たモノの体温と柔らかさは、彼に何らの情動をもたらさない。ただ、これまでの学習の結果が、彼にヨルの頭を撫でさせた。そうすると「それ」は聞き訳が良い。


「──ありがとう、ヒュプノス。元気で……私のこと、忘れないでね」

「はい。忘れません」


 AIの彼には忘れる機能などないことに、ヨルはとうとう気付かないままだった。


 毛布を掲げて恐る恐る近づくヨルを、旧人類の偵察隊は驚きの表情で迎えた。ひとりの雌が、毛布を取り上げてヨルの身体を覆う。幼い雌は群れに歓迎されるだろうとの推測が当たったらしい、と。離れたところでヒュプノスは観測した。焦点が合わなくなりつつあるカメラで。姿勢を保持することもできず、茂みの間に半ば倒れ伏しながら。この端末が動く限り、ヨルを同胞──になり得るモノたち──に返した結果を記録するのだ。


 長い年月の間に、どれほど言語は変化していたのだろう。旧人類たちとヨルは、身振りで意思疎通しているようだった。ヒュプノスに、もはや音声を拾うことはできない。ただ──ヨルを抱き締める腕に、「それ」のぎこちない笑顔。最後に観測した映像は、彼らの言語では、彼ら自身を人類に相当する単語で呼ぶのだろうと推察させた。


      * * *


 シェルター内の人類は、すべて生命活動を止めた。


 役目を終えても、だが、ヒュプノスは今少し活動を続けるはずだ。彼を構成する部品が、摩耗し切らないうちは。

 ヒュプノスは、余ったリソースで考える計算する。ヨルや、その子孫がシェルターを訪れる可能性を。「あれ」と再び会う日が来るのか否かを。その計算は、あるいは夢とも呼べるだろうか。彼は、最後に与えられた忘れるな、というタスクを実行しているだけなのだが。


 シェルター内の資源は尽きている。だが、少なくとも雨風はしのげるし、機能を失った家電の類は装飾品としての価値が発生するかもしれない。旧人類が死に絶えることがなければ、ここまで探索の手を伸ばすこともあり得るだろう。


 辿り着いた旧人類は、ヒュプノスも彼の人類が遺した「自伝」も、無遠慮に破壊するかもしれないが──構わない、と彼は判定する。彼自身や記録の保全は命じられていない。何より、人類の定義はひとつではないようだ。ヒュプノスにとっての人類は死に絶えても、新たな人類が産声を上げるかもしれない。その時は例の結句は偽となる訳で──ならば、破壊されても致し方ないのだろう。


 死した人類を守りながら、眠りの神ヒュプノスは遠い目覚めの夢を見る。

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ヒュプノスの夢 悠井すみれ @Veilchen

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