映画館の怪人

朝吹

映画館の怪人


 エメラルド色の灯りをつけた非常口を除けば一か所しかない観音開きの扉。その向こうには座席が階段状に並んでいる。いま画面にかかっているのは、単館上映の芸術性の強い北欧映画。ミニシアターを愛好する人たちによって支えられてきたこの映画館も、来年の秋、半世紀以上の歴史に幕をひいて閉館することが決まっている。



 今日からバイトに入ることになりました、よろしくお願いします。

 元気な声でそう挨拶して、新人くんは指定時刻どおり、開館四十分前のカウンターの中に入って来た。

「嶋田北斗です。大学の一回生です。今日からよろしくお願いします」

「香取舞です。バイトは二年目になる二回生です。じゃあ、まずはポップコーンを作ってもらおうかな」

 映画館用のポップコーン製造機はアメリカ製だ。四角い透明な箱の中に、大きなステンレスのバケツが吊り下がっている。硝子の上部に貼られたシールに書かれている英文は注意事項と作る手順。嶋田くんは少し顎を上げるようにして説明書きを読んでいた。 

 下の戸棚からポップコーンの材料を出しながらわたしは訊いた。

「分かる?」

「ホットと書いてあるのは分かります。嘘です。このくらいの英文は読めます」

 彼の大学ならば読めないほうがおかしい。

 業務用の豆、塩、オイル。

 研究室で実験でもやるかのように、嶋田くんは説明書きの英文を読み上げながらポップコーンを作り始めた。わたしは傍で、「軽量カップは使うたびに洗うこと」「攪拌されるから一度に全部入れても大丈夫」と言葉を添えるだけでよかった。嶋田くんは多少は自炊をしているとみえて、よどみなく工程を進めていく。

「夜のバイト先が料理屋なんです。簡単な調理はそこで覚えました」

「来年閉館する旨の広報が出てから入場者が増えたの。だから手伝いに来てくれて助かるわ。忙しいのは入りの時だけだから、仕事はらくよ」

「閉館は残念です。サブスクで映画を観る人が増えたせいですよね。座席はみんな家で予約してから来るのでは」

「そうでもないよ。飛び込みや、ネットを使わないお年寄りは従来通り来館してからチケットを買うから。これが座席表。画面で空席を確認して、こちらのお席でいかがですかと案内してあげて」

 十五年前に大規模改装をした館内はまだきれいだった。この映画館が閉館するにあたりわたしが心から惜しむのは、赤い壁紙を貼っている待合ロビーだ。小さな映画館に相応しい小さなロビー。そこには大理石の白い柱が真ん中に立っている。コリント様式を模した柱。そこだけを見れば、扇を手にした淑女たちが行き交う前時代の劇場のようなのだ。

 バイトに一人で入る時、わたしはいつもその赤い壁紙と、創業当時からあるという白い柱を眺めながら、映画館黄金期の頃に想いを馳せた。贔屓の役者を観に来る人々で座席が埋まり、封切りするたびに満員御礼であった往時。


「甲子園みたいに、上映中も座席の間を売り子が歩いていたんだよ。『ばんじゅう』って分かるかい。駅弁を売るような首からさげる平たい箱。あれで煙草やあんぱんを売っていたんだ。夏は最中アイス」

「昭和の頃はね、入れ替えなんてなくて、最初に入ったら最終上映まで居てもよかったのよ。気に入った映画はそうやって、三回も四回も同じ日に繰り返し観ていたものよ。今と違って硬い座席で、よく我慢していたと想うわ」


 そんなことを客の老人が教えてくれるものだから、すっかり知ったような気になっているのだ。

 古い映画館なのだから、オペラ座の怪人ならぬ、映画館の怪人なんてものがあってもいいな。

 高度経済成長期に集団就職で都会に出てきた若い人たちの娯楽は映画。鑑賞料金は今よりもずっと安くて、お財布と相談しなくても気まぐれに、すいっと入ることが出来た。

「休みがくると次はどの映画を観ようかと、心待ちにしたものだったよ」

「ビデオなんてないもの。一期一会。いつも食い入るようにして映画を観ていたわ」

 いつしかわたしの中では、映画館に来る老人たちの回顧話と、いろんな映画の話が一つになっていた。

 東北から集団就職で上京してきた十六歳の女の子なんかが、きっとこの映画館にも通っていたはず。その子は下町の縫製工場に勤めているんだけど、お休みの日には寮を出て、一人で映画館にやって来るのよ。

 小花柄のブラウスと台形のスカート。女の子が来ると、映画館に暮らしている怪人は後ろの通路から、ただその女の子の後ろ姿を観ているの。映写室が映し出す画面の蒼い光は女の子の頭頂の輪郭しか照らさない。怪人はそれでもいいの。いつまでもずっと彼女を見ていたい。映画「海の上のピアニスト」みたいに。

 女の子はいつも一人で映画館に来る。

 なぜかって?

 独りになりたいから。映画館ならそれが叶うでしょ。上映中はお喋りをする人もいない。東北訛りを笑われることもない。朝から夕方まで、女の子はずっと映画を観ている。テレビもまだそんなに普及していない時代だもの。上京して初めて映画というものを観た子なの。膝の上には手荷物を入れたバスケット。疲れて居眠りしている時もある。


 或る日、怪人は想いきって、女の子の隣りの席に座る。



 ぽんぽんというよりは、バチバチと派手な音を立てて、銀色のバケツから盛大に綿花のような白いポップコーンが溢れ始めた。

「おおー」嶋田くんは嬉しそうだ。

「粗熱を冷ましたら、このカップに入れて、作り置き分には蓋をします」

 ドーム型の透明な蓋を、カップに被せてみせる。

「きちんとはめないと取れちゃうから、手応えがあるまで押し込んでね。次はたこ焼き。注文を受けたらこの張り紙どおりの秒数、レンジでチンして、ソースをかけます。明石の蛸が入ってるから美味しいのよ」

「たこ焼きがある映画館、珍しくないですか」

 確かに。開館した当初は、事務所の中でたこ焼きを作っていたそうだ。

「創業者が関西の海運業一家に生まれた人だからじゃないかな。神戸大の昔の名、ええと、なんだっけ」

「神戸高等商業学校」

「そうそれ。そこを卒業後、海外に遊学して、帰国後この映画館を建てたそうよ」

 その神戸高等商業学校は、東京高等商業学校に倣って関西に設立されたものだ。東京のほうはさらに商科大学と名を変えた。今の一橋大学の前身にあたる。

「あの、香取さん」

「はい」

 ポップコーンと飲料はセットで買うと割引になる。開館まであと十分だった。映画がはじまるのはさらに二十分後だから、人がすぐに来ることはない。

 紙製のトレイを嶋田くんに組み立ててもらっていた。初日は仕事の流れを見学しながら、軽く手伝ってもらうだけでいい。何しろ小規模なミニシアター、かかる映画も地味なら、客も限られた人数しか来ないのだ。平日は社員一名とバイト一名でも余裕で回せる。

「香取さん。この売り物のシリアルバー、食べてもいいですか。朝食がまだなんです。金は払います」

「嶋田くん早く云いなさいよ、そういうことは」

 わたしは時計を見た。出来立てのポップコーンを詰めたカップを嶋田くんに手渡す。たこ焼きもチンして、売店のカウンターの陰に嶋田くんをしゃがませた。

「いそいで食べて」

「いいんですか」

「ポップコーンは食べてもばれない。たこ焼きはキャンセルが出たことにして、月に一度くらいは学生のバイトならみんな食べてる。早く」

 足音がした。館内清掃のおじいさんがバケツを手に行き過ぎるところだった。わたしは愛想よく首を傾けて「おはようございます」とおじいさんに挨拶をした。わたしの腰のあたりでは身を屈めた嶋田くんが熱々のたこ焼きを食べている。

「今のおじいさんは戦争孤児なんだって。ずっとこの映画館に勤めてるの」

「香取さん」

「はい」

「スカートの裾、ほつれてますよ」

 どこ見てんのよ。

「縫いましょうか、俺」

 嶋田くんはそう云った。ほのかに笑うその口端に、たこ焼きのソースが薄くついていた。


 

 美味しそうな匂いがする。ソースの匂いだ。映画館の事務所で、社員の男性が朝からカップ焼きそばを食べているのだ。

「おはようございます」

「おはよう、舞ちゃん」

 わたしはタイムカードを押して事務所を出た。

 彼の唇を想い出す。どんな顔をして今朝逢えばいいのだろう。嶋田くんのばか。

「香取さん」

 バイトの交代時刻がきて、いつものように遅出の人に後を任せた後、バックヤードにさがったわたしと嶋田くんはそれぞれの更衣室で着替えて同時に外に出た。

 二か月も経てば立派な戦力だ。嶋田くんは、最近は平日に独りで遅番を任されている。

「週に何回入ってるんだっけ」

「三、四回ですね。平日は後番、土日は香取さんと一緒の早番」

 時給が良いわけではないのだが、映画館のバイトの旨味は、どの映画館でも出入り自由になる従業員用パスを貸し出してもらえることだ。パスがあれば映画が無料になる。映画代が値上がりしている昨今、大画面で新作の映画が観れるこの余禄はありがたい。わたしもあちこちの映画館にパスを使って通っている。

「こんな制度も、代替わりしたらもう廃止になるだろうね。最期の機会だよ」

 パスをくれる社員の人が寂しそうにしていた。同業者同士、寄席や劇場や映画館を相互に見学できた時代の名残りなのだそうだ。

 郊外型ショッピングモールに併設しているシネコンを除けば、映画館があるのはたいてい市の中心部の繁華街。白黒フィルムにあるように、かつてはもっと多くの劇場や映画館が幟を立ててひしめき合っていた。

「お疲れさま」

「香取さん。俺、今日これから暇なんだ」

「あっそう。じゃあせっかくの土曜日だし、お茶でもしばいてく?」

 とくに他意なく云ったのだが、嶋田くんは眼に見えて顔が明るくなった。いつもなら彼はこのまま掛け持ちしている夜のバイト先へと直行するのだ。

「奢りますよ」

 にこにこしながら、嶋田くんはコートの上からわたしの肩を抱いた。それが昨日の午後。


 香取さん。

 かとり、舞さん。


 気が付いたら、何故かわたしは嶋田くんとキスをしており、場所はどこかの路地で、暗がりの中、嶋田くんはわたしを「まいまい」と呼んだり、「舞」と呼び捨てにしたりして、身体を傾けて何度もわたしの顔にキスをしていた。

 待って。

 頭を疑問符で埋めながら、ふわふわした足取りのわたしは彼を押し戻したり、引き寄せられたりしていた。酔っていたことだけは確かだ。

「嶋田くん、ソースがついてる」

 笑いながら背伸びをしてわたしの方から彼の口端についたソースに唇を寄せた。ソースがコピーされたようにわたしの唇にもついた。お茶の後、嶋田くんと流れでダイニングバーに行き、夕食がわりに軽食を頼んだのだ。そのうちの一皿がソースのかかったイタリア風の丸いコロッケだった。


 たこ焼きみたい。


 ふふふ、ははは。笑いながらコロッケをつまみ、沢山の映画の話をしながら仲良く呑んでいたはずだった。自分のアパートで眼が覚めた時に、「夢だったのか」と想うほどに。



 映画館の制服を着たわたし。唇にはソースがついている。洗顔して消えているはずなのに、唇の上にはまだソースが付いている気がする。

 舞。まいまい。

 想い出すたびにくらくらする。きっと二日酔いのせい。映画館の怪人のせい。

「おはようございます」

 嶋田くんが現れた。

 日曜日の今日も、嶋田くんと二人で早出だ。わたしの方が早く来ていた。眼の前でバチバチと弾けているポップコーン。最初に彼は何を云うだろう。きっと謝罪だよね。昨夜はすみませんでした。そしてわたしは云うのだ。

 ううん、お互い酔っていたから。昨日のことは忘れよう。

「おはよう」

「まいまい」

 出来上がったポップコーンをすくうスコップを片手に握り締めて、わたしは想い切って嶋田くんの顔を見た。泣きそうな顔をしていたと想う。緊張しすぎて。脳内シミュレーションを跳び越えてきた嶋田くんは、なぜか眼鏡をかけていた。

「まいまい、今日も俺、夜のバイトないんだ」

「くびになった」

「違うよ。他の人に頼んでシフトを交代してもらった。デートしたいから」

「誰と」

「訊きますか、そんなこと」

「その眼鏡は」

 彼、眼が悪かったっけ。

 俺だって恥ずかしいんだよ、と嶋田くんは云った。

 映画館の怪人。いきなり隣りの席にきた。

 このミニシアターは閉館するのよ。ビルごと解体してしまう。その後、怪人は何処に行ったらいいのだろう。映画と共に生きてきたやさしき怪人。

「俺、あの場所が好きなんだ」

 嶋田くんがロビーを指す。赤い壁とコリント式の円柱。掃除のおじいさんがちょうど円柱を拭いている。昔は煙草の煙でいっぱいだったであろう待合。

「真ん中にあんな柱のあるロビーなんて、洒落ていて、画一的なシネコンばかりが量産される今ではもう作られることもないだろ。機能性と引き換えに消えていくもの。あそこには何か物語があるよね」

 赤い壁はポンペイ・レッド。大理石の白い円柱の陰には映画館の怪人。東北からやってきた女の子が感じ入った顔つきで眼の前を通り過ぎる。大切そうに抱きしめているパンフレット。


 次に来館する時、女の子はきっとカトリーヌ・ドヌーブみたいな髪型になって、カチューシャをしている。


 このミニシアターが閉館しても、わたしの心の地下室の映画館にはいつも赤い壁と白い柱が立っている。わたしはシェイクスピアではないけれど、語れるお話はあるかもしれない。大勢の影が行き交うロビー。おせんにキャラメル、煙草にあんぱん。立ち売りもそこにいる。昨夜の夜の出来事もアイスに沿えるウエハースのように、映画館の物語の中に沈めてしまうのだ。シェルブールで起こった恋人同士のすれ違いくらいに、ありふれた話。

 男の子と女の子の間にいつでも起こる映画館でのお話。

 がさっ。

 わたしの手からスコップを取り上げ、すっかり粗熱の取れたポップコーンを嶋田くんがすくう。勢いがつきすぎて外にこぼれ落ちてしまった。

 嶋田くんとわたしは同時に身をかがめて、大急ぎで床に転がり落ちた白いポップコーンを屑籠に拾い集めた。ポップコーンが笑っている。ふふふ、ははは。

「昨夜のようなことはしないから。ほんと。約束します」

 うつむく嶋田くんの顔から伊達眼鏡がずり落ちかけている。

 掃除のおじいさんが微笑みながら私たちを見ているような気がした。



[了]

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