感想

【感想】

 まず一言、面白かった。怪獣映画には疎く、ほとんど見たことはなかった。ゴジラシリーズも、シン・ゴジラとモスラ対ゴジラしか見たことは無かったが、それでも普通に楽しめた。ゴジラが与える恐怖、抵抗できない人間の無力感。そんな中でも必死に足掻く人々。「生きて抗え」のキャッチフレーズは確かに、この作品にぴったりと感じる。主人公が、特攻とゴジラから逃げた責任と罪悪感を覚え、自分の命など尽きればいいと思っているのに対して、ヒロインは何が何でも生きろという信念で対比させているのも、物語を分かりやすくしている様に感じた。

 この映画には二つの見方ができるように感じた。1つ、怪獣映画としてのゴジラ-1.0(以下-ゴジラ)。2つ、戦争映画としての-ゴジラ。

 1つ目の、怪獣映画としての-ゴジラについて。この映画は、ゴジラという分かりやすい形を持った『敵』が存在する。そのため、分類的には怪獣映画に属するものと考えられる。強大な怪獣に非力な人類が立ち向かう。その中で人間同士のドラマがあり、結果的に怪獣を打ち倒す。-ゴジラも大まかにはそのようなストーリーだ。

 そのストーリーを彩ったのが、戦後という絶望的な日本の中で生きる人々だ。家族を失った者達、恥知らずと言われた特攻から逃げた主人公、もう一度国のためにと立ちあがった軍人たち様々な立場の人間としての在り方を書きながらも、最後は一同が同じ方向を向いて立ち向かう。

 また、『ゴジラ』という恐怖の象徴も、かなり強いアクセントになっている。これまでの映画と違い、まともに抵抗できる兵器すら残っていない状況での、あの破壊行動は背筋が凍る。最初に島に現れたゴジラをスクリーンで見たとき、本気で体がすくみ上った。捕食するわけでも何かを探す訳でもなく、純粋な『破壊』と『殺戮』を目的とした行動を、人間とは桁違いの生物が行うだけで、あそこまで恐怖を演出できるのかと驚いた。

 怪獣映画の良さを存分に全面に打ち出した映画のストーリーであり、きっと深く考えなければ、ここで感想は終わるのだが、自分が会えて「ストーリー」と単語を使って話しているのには訳がある。自分はよく、アニメや小説の表面上の筋を「ストーリー」と呼び、根幹部分にある作者の隠した意図や本当に見せたいものを「物語」と勝手に言っている。

 そんな自分の主観に合わせてこの話を見たとき、怪獣映画としての「ストーリー」を持ち、戦争映画としての「物語」を持つと感じた。

 そこで、2つ目の、戦争映画としての-ゴジラだ。完結に言えば、この作品に置いて『ゴジラ』とは『戦争という災厄』を表現していて、それに立ち向かう人間という構図なのではないかと言うことだ。『戦争』は人間が起こす最大の災厄であり、多くの人にはそれをどうすることもできない。ただ『戦争』の脅威に晒され、怯え、殺されていく。しかしそれでも、非力な人間たちはそんな『戦争』を止めるために奮起し、立ち向かう。これは『』をゴジラに置き換えても同じことが言える。『ゴジラ』は熱線を吐き出し、多大な被害を出す爆発を引き起こす。これは、原爆を暗示しており、『ゴジラ』が『戦争の恐怖』またそれが引き起こす『災厄』を代弁している様に感じた。

 舞台が戦後の日本という状況が選ばれたことにより、より強くそう感じる。太平洋戦争が終わり、ようやく平和への道を歩み始めた中、現れた『ゴジラ』。平和を求めようとも、理不尽にやって来る『戦争』の脅威。それが顕著に表れていた。また、最後の不穏な終わり方、『ゴジラ』復活の兆候があり、ヒロインの首にある痣。ヒロインの首の痣は、被爆を表していて、『戦争』の『ゴジラ』の脅威は去ったが、それが残す爪痕が大きいことを指しているのではないだろうか。『ゴジラ』復活の兆候は、何度でも『戦争』の『ゴジラ』の災厄は訪れることを指しているのではないだろうか。

 つまり、戦争映画としてみた場合の-ゴジラは、『戦争』に対する人間の無力さ、何度でも訪れる『戦争』の災厄を表していると考えられる。

 「この映画は怪獣映画の皮を被った戦争映画」誰かがそんなことを言っていた気がするが、上記に書いたこと、その他物語の構成やキャラクター、時間、視点の動きなど細かな部分を見て、その言葉の意味がよく分かった気がする。

 いい意味で、怪獣映画の皮を被せることで、戦争に疎い人にも、戦争を伝えられる作品になっていたと思う。




【歴史好きとしての評価】

 作中の舞台が戦後と言うことで、戦後日本の闇が映画の中で顕著に表れていた。第一に、本土に帰って来た時のご近所さんの反応だ。「生きて帰って来たのか、この恥知らず!」特攻隊に入ったことを知っていた為、逃げ出したことがよく分かっていたからこの発言が飛び出たのだろう。戦後の日本ではよく見た光景だ。家族や町の人が「生きていてよかった」と、帰って来た兵士に言うのはごく僅かであり、ほとんどは敗戦責任の追及、生きて帰って来たことを咎める者が多かった。死んだ友の家に、戦死を伝えに行けば「お前が死ねばよかったのに」とも言われる。そんな光景が広がっていた。

 また、ヒロインの初登場、闇市での泥棒など日常茶飯事であり、もはや当たり前の光景となっていた。家に上がり込んで口論になる時「私にパンパンにでもなれっての?」とヒロインが言うが、ある程度子供も見る中で、この言葉をぶち込んだのは少し驚いた。泥棒、身売り、命がけの仕事、それらが常習化する社会。まだ戦後から復興できていない日本の闇を余すことなく書いていたように思う。

 『ゴジラ』の襲撃にあっても、ソ連を気にして米軍が軍備をよこしてはくれない。すでに武装解除した駆逐艦4隻と、高雄1隻のみとかマジ舐めてる対応を取るのも、なんとなく理解できる。そしてそれに同調しなくてはいけない日本政府の立場もよく分かる。アメリカの性格上、自身の国に被害が出ない限り極端な行動に出ないところはよく分かっているなという印象だった。民間主導の海神作戦の時も、「家族がいるから」と戦うのを拒否した人は一定数いる。戦後すぐだからこそ、「生きて帰れてのだから死にたくない」という感情が強く、未曽有の危機を前にしても、完全に団結できない姿、またそれを咎めない姿は、映画全体のリアリティを上げていた。




【ミリタリー好きとしての評価】

 今回登場した目玉兵器たちは、島の整備兵たちが『ゴジラ』に向けて撃った《38式小銃》(九九式かもしれないが、あんな所に新型を置くとは思えないから)。木造船に乗せ、機雷除去用の『13ミリ機銃』。ゴジラの口に突っ込んだ『機雷』。シンガポールから駆け付けた『高雄』。国会議事堂前から応戦した『四式チト』。最後の海神作戦で投入された『響』『雪風』。主人公が最後に乗り込んだ『震電』。だったと思う。それぞれ意味のある登場で、ミリタリーや戦争に明るくない人でも分かりやすい描写がなされていた。以下で細かく解説していく。

 《38式村田小銃》これは、当時の日本軍の主力小銃で、6.5ミリ弾を発射する。ゴジラという未知の生物の襲撃にあって、この武器を登場させたのには、おそらく恐怖感を煽るためだと思う。何も対抗できるものがないから逃げ惑うだけの姿を映すと、「何か武器があったら立ち向かえるかもしれない」と自分を鼓舞する形で恐怖を誤魔化せるが、なまじ武器を手にし、恐怖感を紛らわせるために発砲したことで「既存の武器が効かない」という状況を作り出した。縋れるものがなく、踏みつぶされ、噛み殺される状況はかなりの絶望具合だった。

《13ミリ機銃》と《機雷》、これは物語の伏線的な役割を持っていた。最初に主人公が機銃を撃つ場面で、主人公のパイロットとしての技量の高さを暗示している。機雷を口内で爆破させることで、内側からの爆発に弱いという部分も後々に回収される。

 《四式中戦車チト》《重巡洋艦高雄》これは両者、いわゆる魅せる兵器であった。-ゴジラは他作品と比べ、火器耐性が低いことは、ゴジラ初心者の自分でもよく分かった。《高雄》や《チト》の砲撃に、明確にダメージを受けている様子が見て取れ、実際に表皮を砲弾が抉っている。そして何よりこれらは、今作の中で最も火力が出せる兵器であったために登場したと考える。戦後の日本は武装解除が進み、戦争で残った兵器たちですら徴収、処分されていた。1946年7月時点の艦艇は、確かに今作で登場した艦達以外存在していない。歴史的な齟齬を生まずに火力の投射という見せ場を作るために、本土決戦用に用意されていた《チト》、自沈待ちだった《高雄》をゴジラに向かわせたのだろう。怪獣映画の醍醐味である、迫力のある演出を魅せるために。

 《駆逐艦響》《駆逐艦雪風》泣いた。この二隻が最後に奮闘する姿はもうマジ無理泣く。《高雄》と同様、この時期で残っている艦の中でおそらく最も性能が高いのはこの二隻。駆逐艦であるから小回りが利き旋回半径も小さいから、海神作戦にはもってこいだったのだろう。それに、この二隻は幸運艦と名高い艦であり、その力もあやかって、作戦に投入されたとも思える。もう本当に、この二隻が頑張る姿は、ミリタリー、特に旧帝国海軍が好きな人には突き刺さりまくる。戦中味方が死ぬのを目の前で見続け、自分は最後まで生き残ってしまった。数々の武勲を立て、奔走したのにも関わらず、祖国は破れた。そして、失意の中敵に引き渡され、《雪風》は中華民国に、《響》はソ連に渡るはずだった。だがもう一度、祖国を守るために立ちあがる機会が訪れた。二隻はきっと、「もう一度、最後に自分たちの国のために戦える」と喜んだのではないだろうか。ぁヤバイ涙が……。

 《震電》は、恐らくミリタリーや戦争に詳しくない人への配慮だろうと思う。最後の戦闘機で誘導という話の時、『ゴジラ』の攻撃を躱すための機動力、誘導するための速度と考えたら、《烈風》の方が適任であるように考える。《烈風》とは、《零戦》の後継機となるはずだった艦上戦闘機で、火力、速度、機動力それらの性能が高水準でまとまっている傑作機となるはずだった試作機だ。『ゴジラ』を誘導する際、ゴジラの身長から見てもせいぜい50メートルから100メートルを飛んでいる。主人公は、この低空で《震電》を巧みに操り、噛みつきや叩き落としを躱していた。しかし《震電》はあくまでも高高度迎撃機であり、機動性よりも速度、低空性能より高高度性能を重視した機体であり、作中のような動きは不可能と言ってもいい。だが、ここで《烈風》を使ってしまうと、恐らく《零戦》と区別がつかない、最終番に投入されるには特別感がない、そんな機体になってしまう。《烈風》はいわゆる単発レシプロで、皆がよく考えるプロペラ機の見た目をしている。そのため、「これが特別な機体だ! 最後のための機体だ!」と作中で登場しても、《烈風》の凄さが分からない人には、「《零戦》と何が違うの?」となる可能性が大きい。その震電は、エンテ型という特殊な形をしていて、後ろにプロペラがあるため、一目でこの機体は他のものと違うと認識できる。それらの効果を狙って、《震電》になったのではないだろうか。




【まとめ】

 ここまで感想をつらつら述べて来た訳だが、勿論気になる点もあったにはあったが「まあそれはいいや」と書くのを止めたので、ここまでになる。何度でも言うが、非常に面白い作品だったし、怪獣映画初心者の自分でも楽しめたから、是非他の人にもおすすめしたい。

 きっとゴジラに付いての知識がもっとあったら、考察なども書けたのかもしれないが、あくまでこれは感想なので、その辺も「まあいいや」で終わらせている。適当に思いのままに書いた感想だが、ここまで読んでくれてありがとう。まだ見てない人は、是非劇場で見ることをお勧めする。強いて言うなら、少しだけ戦後日本のことや《雪風》《響》のことを勉強しておくと、より感情移入しやすいかもしれない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ゴジラ-1.0を見ての感想 古魚 @kozakana1945

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ