Because I love them

中尾よる

Because I love them

 こんなことをするのは、久しぶりだった。

 そう、二年前の、あの日以来。

 


「ママ、ねえ、ママってば」

 テーブルを間に、向かい合って座っている母を、覗き込むように下から見つめる。母は白い手帳型のカバーがかかったスマホをじっと見て、その右手は絶え間なく画面をスクロールしていた。

「マーマ、スマホばっか見ない」

 母はうーん、とかへーとか曖昧な返事をするが、スマホは手から離さず、目はその液晶画面を注視し続ける。

 スマホの虜になっているのだ。いつも私が見てると、さも嫌なものを見てしまったかのような目で咎めるくせに。その画面に囚われた目は、一向に動くことなく、私が投げる数々の言葉も母の耳には入っていかない。

「ねーえー、奈央よりスマホの方が大事なの?」

 そう聞くと、いつもはそんなわけないじゃん!と笑ってくれるのに、

「そういうことじゃないでしょ」

 と言われた。私は母の瞳がこっちを見ないかと、じっと、待つ。黒い瞳にはスマホの光が少し映って、母の指の動きに合わせて光の色がゆらゆらと動いている。

 はあ、と母に聞こえるようにため息をつき、私はこれ見よがしに大きな音を立てて椅子から立ち上がった。母はそれでも気に留めない。気づいていないのかもしれない。

 いつも、こうだ。私に何か言うくせに、自分は全くやらない。部屋の電気を消せ、食器は食べ終わったらすぐ洗え、トイレットペーパーがなくなったらすぐに次のに変えて芯は捨てろ。すごく基本的で、簡単なこと。昔からそう教えられた私は、もちろんちゃんとやっているのだが、母はなぜかやらない。一日中母の部屋の蛍光灯は灯ったまま。朝食に使った食器は夜までテーブルに置きっぱなしで、コーヒーカップにおいては夜には五個は溜まっている。言わずもがな、トイレットペーパーの芯も、私が捨てるまで溜まりっぱなし。父は会社の転勤で三年前から別居しているので、家には今、私と母の二人暮らしだ。昔は一つ下の妹がいたが、その妹は二年前に、死んだ。結局、母がやらないことは私がやるしかなく、バイトで週五日は家にいない母に代わって家事を請け負った。請け負ったとは言っても、私にできるのは半分くらいだ。平日は高校から帰って洗濯、そして夕食の手伝い。休日は洗濯をすることもあるし、掃除をすることもあるが、基本的には家でごろごろしている。たまに、母や学校の友達と出掛けることがあるくらいだ。

“愛してるよー奈央”

 母は毎日私にそう言う。満面の笑顔に優しい瞳。

“奈央もー。ママが大好きだよ”

 私もまた、とっくに背を越したにも関わらず、母に思い切り抱きつく。昔に比べて少し痩せた身体。でも、あの頃と変わらず柔らかい肢体。例えちょっと面倒くさくても、例え自分勝手だと思っても、やっぱり愛してる。何よりも、誰よりも、愛しい母。

 でも、最近は、違う。私の相手をしてくれない。新しく買い替えた、スマホのせい? 前から自分勝手だと思ってきたけど、一段とそれが増してる気がして、終始母に苛々する。楽しいはずの夕食の団欒でも、嬉々としてスマホで見たニュースや、X、インスタの話ばかりしている。それでいて、やっと私が喋り出したかと思えば、退屈そうに話を変えるのだ。

 苛々したり、カッとなるのは、いつも突然だ。今もそう。大したことじゃないのは百も承知だけど、スマホから目を離さず、話を聞いてくれない母に無性に腹が立った。ばーか。じゃあ、スマホと二人で暮らせば? スマホに“愛してる”って言って、スマホとハグして、スマホと添い寝すればいいじゃない。

 発端は大したことじゃなくても、いつの間にか怒りが膨張して、形を変えることがある。今回も、それだった。

 自己中心な母。きっと後になったら、さっきのことなんて忘れて笑って私のところに来る。ねえ〜奈央、聞いて〜なんて、言って。そう思うとまた、胃の下、腹の奥の方からムカムカと熱くなって、私は歯を食い縛る。いや、もしかしたら、そろそろスマホを注意されるのにストレスを感じ、叱ってくるだろうか。いかにも、自分の言っていることが正しいのだ、という声で。いつもは使わない、冷たい、声で。

 自室の椅子に座り、拳を作って机を思い切り殴った。多分、スマホに熱中している母に、この音は聞こえないだろう。二度、三度と、机を殴る。壊れてしまわないかと一瞬不安になったが、まあいいか、と思った。壊れてしまえばいい。

「ばーか……」



 多分、それは偶然だったのだと思う。その日、高校の授業の後、追試を受け、二時間の部活を終えて帰宅した私は疲れ切っていた。大会に向けて土日も、学校で部活をする日が続き、そのストレスのせいもある。いつになく頭が回らず、疲れ切った足は浮腫んでいた。頭痛もして、頭をトンカチで殴られているみたいだ。

「ただいまぁ……」

 小さな声でそう言い、ゆるゆると靴を脱ぐ。重い鞄を引きずり、自室に入った。

「あ、奈央、おかえりー」

 どうしてか、部屋には母がいて、私の椅子に座り、アルバムをめくっている。

「ちょっと、どいて」

 無造作に母を追いやろうとすると、母は眉を顰めた。疲れていて、余計な喧嘩はしたくなかったので、小さく謝ると、母は腰をずらし、はい、と半分空いた椅子を指差した。聞こえないようにため息をつき、座るのを諦めて鞄を置く。何見てるの、と後ろから写真を覗いた。

「大会のやつ。奈央、ここちょっと姿勢変だよー」

 弓を引いた瞬間の写真。よく顧問の先生にも指摘されるところだが、母に言われると何だか癪に触る。母は中学高校と弓道部だったため、時折私の弓道のやり方に口を出すのだ。しかし、先生や他人に言われるのとは違い、身内からの言葉はなぜか悪意がこもって感じられる。もちろん、そんなことはないのだろうが。受け取り方の問題だ。

「この時、いつもちょっと変だよね。何でだろう。早く治した方がいいよ?」

 知ったかぶりに、そんなことを言う母に、段々本当に苛立ってきて、私は心の中で悪態をつく。

 それを言うためにここにきたわけ? 私は疲れてるんだよ。早く出て行って。人の椅子を占領しないで。わからないの? 私が疲れてるのとか、嫌がってるのとか。気づかないの? 見てないの? いつも、いつも、いつも——————

 その背中。服を脱いだら、骨が浮いて見えるだろう。細くなったその身体。そのくせ、お腹は出ているはずだ。身体から落ちた肉が、そこにだけ重そうに溜まっている。最近徐々に頬が垂れ、年齢を感じさせる顔。目の横に、くっきりと皺が刻まれたのは、いつだっただろう。

 背中越しに、母がめくるアルバムの中に、あの子の顔を見つけた。白い肌、桃色の頬、おかっぱにお茶目な瞳。細い指をこっちに向けて、Vサインを出している。私は、不意に机の横の引き出しに目をやった。上から二段目の、小さな引き出し。その中には、あれが入っている。銀色に光る、あれ。

 ゆっくり、引き出しに近づく。母は気にしていないようだ。引き出しをすっと開け、その中に入った目的のものを探る。それはすぐ見つかった。あの日以来、触れていないからだ。この引き出しも、あの日以来、初めて開く。

 それは、思ったよりも重かった。あれ? こんなに重かったっけ。そんなことを考えながら、手にしっくりくるその感触に、ふと昔のことが蘇る。柔らかいあの子の頬。生意気な言葉ばかり吐くその赤い唇。わがままな、私の妹。

 茶色い皮のケースを取ると、それは部屋の蛍光灯に反射して、キラッと光った。一度も研いだことはないが、あの日以外使ったことはない。だから、大丈夫だろう。今回も。

 それは、アメリカ・ボーイという名のナイフだった。切っ先が、くい、と上に向かって曲がったナイフで、家族で見た映画に出てきて気に入り、数年前、誕生日に父から買ってもらったものだ。日常的に使う機会はないので、普段は引き出しの中にしまわれ、時折見る程度の観賞用になっている。

 母の背中を見て、少し逡巡した。今の日常、毎日の愛の言葉、泣きたくなるくらい私の毎日は母の愛に満ちている。でも、私はもう、十七年間ここで母と暮らしてきたのだ。人生の、約六分の一。十分すぎるほどだ、と思った。意を決して、無防備に背を向ける、小さな母の後ろ姿に声をかける。

「ねえ、ママ」

「んー?」

 母は、振り返らず、アルバムのページをめくりながら空返事をした。

 その背に、ナイフを、振りかざす。好都合なことに、部屋着のみを着ていた母の背中は薄い布一枚でしか覆われていなく、簡単にナイフの刃を受け入れた。

「あう……ぐっ!!」

 アルバムが、開かれたままうつ伏せに床に落ちる音がする。そう言えば、昔、母は本を伏せるなとも言っていたな、と思い出した。もちろん、母はしょっちゅう本を伏せて置いていたのだけど。

 背中には肋骨や肩甲骨が盾になって、刺さりにくかと思ったが、ちょうどよくナイフが骨を避けてくれたのか、あっという間にナイフの柄元までが母の身体に埋まった。抜けば、夥しい血が噴き出るだろう。何の準備もせず、刺したことに僅かな後悔の念を感じながらも、それどころではなく、余裕をなくした私は刺さったナイフを無理やり回した。肉を抉る、生々しい感触。まだ息は止まっていなく、母は呻きながらも荒い呼吸をしている。

「ど……」

 どうして、と言いたいのだろうか。それでも母は言葉の続きを紡げず、口から血を吐いた。床に落ちたアルバムに、唾液の混じった赤い血が降りかかる。

 ナイフを抜き取ると、案の定大量の血が噴き出して、顔や胸を濡らした。

 あーあ、まだ制服なのに。クリーニングに出さなきゃ。

 母の正面に回る。母は椅子の背もたれに身体を預け、呻いている。呼吸は、さっきよりも浅い。痛みに耐えるのが精一杯なのか、手はだらりと力なく垂れ下がっていた。このままでは、苦しいだけだ。母が痛がる姿は見たくない。見ている自分が、痛くなる。

 多分、心臓だと思われる場所に向けてナイフを突き立てる。母が貧乳で良かった。邪魔にならないし、骨の位置もわかる。心臓に刺さったナイフは、まるで吸い付くようにそこに収まった。手を離しても、抜けず、刺さったままだ。母は、一瞬、痙攣するようにビクビクと動いたが、それは数秒のことだったと思う。あっという間に収まり、開かれた目は目の前の私を凝視していた。

 唇に触れる。頬に、額に、鼻先に、幾度となく降りてきた、この唇。柔らかくて、愛しくて、安心するもの。息は、もうしていなかった。

「ママ」

 母を呼ぶ。

「ねえ、ママ」

 返事はない。けれどその瞳は、今度こそ、私を見つめている。ナイフをその胸で包み込んだまま。途端に、頬に生暖かい感触を感じた。びっくりして、右手で頬に触れると、細い涙が頬を伝っている。頬から、顎へ、そして、床に落ちて弾ける。涙が、とめどなく流れていた。胸が、ぎゅうぎゅうと締め付けられる。嗚咽が口元から漏れ、それはいつしか慟哭へと変わった。乾いた叫びが、喉から搾り出される。過呼吸になりそうなくらい必死に息を吸い込み、叫んだ。喉が裂けそうだった。自分が、裂けそうだった。

 愛してる。誰よりも、愛してる。そして、誰よりも、憎んでる。あの子のことも、母のことも。ああ、五月蝿い、五月蝿い、五月蝿い! 何も言わないで、何も見ないで。ただ、私だけのことを考えていて。

 あの日のことを、思い出す。妹を、殺した日。アメリカ・ボーイは彼女の首を切った。どうしてだかわからない。でも、妹を切るときは、首を、と最初から決めていた。それは、案外容易かった。妹は私がそんなことをするなんて、つゆほども疑っていなかったし、例え何度喧嘩してもそれがあんなことに発展するなんて思っていなかっただろう。私は、彼女が憎かった。ずっと。理由はあったのだろうか? もちろん、彼女のわがままさ、身勝手さは、私が彼女を憎むに値していたけれど。時折見せる彼女の笑顔、懐いて私の手を握る、湿った柔らかな手、上目遣いの丸い瞳、お喋りな唇、そんなものがより彼女を憎むきっかけになった気がする。妹を、愛していた。その身体を折れるくらい抱きしめて、私の中に取り込んでしまいたかった。

「ママ」

 母はもう動かない。ただ、私の目を見ている。じっと、その目は私の目だけを捉えている。これで、もう何も言われない。これで、母は完全に私のものだ。あの子と同じように。



 ああ、こんなことをするのは、本当に久しぶりだ。そして、恐らく、最後になるだろう。

 愛してる。

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