第百八十一話 天衣無縫(前編)

 人が見せる輝きに惚れた。たった一つの、軽薄で分不相応な天の輝き。


 いつか台頭するのだろうと夢を見て、私の主人公として背を押して、存在しない予定帳に未来の姿を書き記した。


 ……なぜ、彼は今ここに立っているんだろう。


 プロの世界に足を踏み入れ、頂点でしのぎを削り合う神才しんさいたちと同じ舞台に立ち、果敢に戦い抜く歴戦の棋士となる。


 そんな姿を想像していた。そんな彼が理想だった。


『いやー、それにしても三岳みたけ六段、凄い勝負になってますね』

『ええ、正直言ってしまうとプロ顔負けの内容だと思います』

『そんなにですか!?』


 女流棋士の相槌に解説役のプロ棋士は深く頷く。


 リアルタイムで放送していることもあって、その盛り上がりはネットにも影響していた。



『【ヤバい】自滅帝とかいう正体不明のアマ強豪www【十段おめでとう】Part57』


 名無しの7

 :今頃知ったかタケっちゃん


 名無しの8

 :三岳六段、最初と様子違くてかわいいw


 名無しの9

 :最初はザ・アマチュアの対局を解説しますって雰囲気だったのに自滅帝がやらかしてからずっとタイトル戦やってるときみたいな態度で解説してるw


 名無しの10

 :てかみんな当たり前にスルーしてるけどさ、自滅帝の強さがプロにまで伝わるって普通にヤバくね?

  コイツただのアマチュアだぞ?


 名無しの11

 :>>10 自滅帝はアマチュアの皮被ったプロ棋士だから


 名無しの12

 :>>10 プロになってないだけで実力十段なんだよなぁ


 名無しの13

 :>>10 十段とか意味不明な記録出してる時点で……


 名無しの14

 :>>10 この怪物いまだに県大会しか優勝してないのなんかのバグだろ


 名無しの15

 :地区大会出場 ←わかる

    ↓

  県大会出場  ←わかる

    ↓

  世界大会出場 ←わからない


 名無しの16

 :>>15 全国大会前の肩慣らしで世界大会出る男


 名無しの17

 :>>15 ギャグだろこれ


 名無しの18

 :>>15 順番がちょっとズレてますねぇ……


 名無しの19

 :>>15 これ最初記念出場かなんかと思ったら普通に勝ちにいってんのほんとヤバい


 名無しの20

 :三岳六段、最初自滅帝の戦績見たとき絶対補欠か何かだと思っただろw



 WTDT杯のスレと並行して盛り上がりを見せる自滅帝スレ。


 これまで一切の空気だった選手の暴れ具合に、SNSでは大きな反響が席巻している。


 いや、むしろその逆だろう。あれだけ大きな事件があった直後の対局だからこそ、その当事者への注目度はどんどん飛躍している。


 まるで最初から仕組まれていた出来事のように、無名だったその選手の名は有名だった仮初の名とイコールで結ばれた。




 ……自滅帝が、渡辺真才が舞台を席巻することは分かり切っていた。


 きっとそう遠くない未来に輝く星。誰もが掘り出せなかった原石が自らの意志で地表に現出し、そこを通りかかる者達を自らの放つ輝きですべからく静止させている。


 元より、食われるのは想定内だった。


 それがかつての黄龍王者であっても、全国に名を轟かせる道場のエースであっても、真に生まれ出た期待の新星の前では誰もが皆脇役となる。


 そうなる未来が分かっていて、それでも前に進んでほしくて──。


 ……でも、そうしていつものワガママで押した背中は想像よりもずっと軽くて、思わず手を戻してしまった。


 向いた針の先、その指針を捻じ曲げるように強く掴んで、その手から血が流れようとも決して放さない強い意志。


 ──ああ、その伸ばした手は誰よりも。


「……ふふ」


 思わず零れてしまう笑みを手で隠そうとするも、表情は隠しきれない。


 そんな風に私が珍しく嬉しそうにするものだから、隣にいた彼女に指摘されてしまった。


「ここ数日ずっと一緒にいたけれど、アンタがそんな風に笑うの初めて見たわ」

「そう?」


 それまで一心不乱に詰将棋本を読んでいた東城美香が、こちらを一瞥して口を開く。


 彼女のスマホはテーブルに置かれているが、東城美香は今朝からそれに触れようとはしなかった。


「そういうアンタは気にならないの? 別にみてもいいわよ?」

「アタシはいい。気にならないと言えば嘘になるけど、一度見始めたら止まらなくなっちゃうだろうから」


 東城美香は勝利を確信していた。


 それは渡部真才への厚い信頼もあるのだろう。だけど、それだけじゃない。


 渡辺真才が選んだメンバーが負けるはずがないと、全てを包含して信頼している。


 相手は海外支部のトップメンバーで構成されたチームミリオス。海外のトップ3を上から順に選んだ、文字通りの最強の面子である。


 対してこちらのチームが日本最強かと問われれば、多くの者は首を振るだろう。


 全国大会での優勝歴どころか、まだ全国大会に出場すらしていない。アウェー中のアウェーで戦っている渡辺真才。


 英雄の三傑を失い、直近の大会で無敗の名が折れ、今や低迷の一途をたどり始めている凱旋道場のエース、青薔薇赤利。


 かつては黄龍戦の王者に輝くも、そこから一線を退いて長いブランクがある天竜一輝。


 "最強"と名付けるにはあまりも格が低い。戦績でも棋力でも、このチームはミリオスを上回ってはいない。


 勝てないと思うのは普通だ。無理だと口で言ってしまうのは必然だ。


 ……だけど、そうじゃない。


 これは理屈とか計算とか、そういうものじゃない。


 彼らを知っている者は少なからず希望を抱いているはずだ。抱かずにはいられないはずだ。


 あの自滅帝が、あの青薔薇家の神童が、あの黄龍王者が。


 ──何もせずに終わるはずがないだろと。


 これは決して"最強"のチームではない。実績だけで集められた、ただ強いだけのチームじゃない。


 何かを起こしてくれる。──、夢のチームなのだと。


「……がんばって」


 決して届かない声を、スマホに向けて呟くように放つ。


 彼女が信頼を向けるのならば、私は期待を乗せて行こう。


 ──もっとも、私の信じる最高の師がただやられっぱなしで終わったことなど、一度もないんだけどね。


 ※


 激と激のぶつかり合い、死という恐怖を捨てた者同士の殴り合いは、既に10手目に突入していた。


(気持ち悪い、吐き気がする。……っ!)


 脳をフル稼働している天竜は、体から出る拒否反応と、無理やり考え続ける脳が混ざりに混ざってひどい酔いが生まれていた。


 右手はもはや震えと呼べるようなものではなく、痙攣に近い動きをしており明らかに異常を訴えている。


 今朝から何も食べていない胃袋からは沸騰するような吐き気がこみ上げ、視界はぼやけたりグラついたりと、とにかく気持ち悪さが増幅している。


 一度休めば元に戻るのだろうが、この秒読みの中、トイレに行く時間など残されていない。


 手を読むために加速させた思考は、振り返りたくもない過去のトラウマを無理やり引っ張ってきて物凄い速さでフラッシュバックしてくる。それが体調を悪化させる要因を作っている。


 せめて一度考えることをやめれば、少しは楽になるだろう。


 ──だが、天竜は勢いを弱めなかった。


(こいつ……!)


 同時にカインの表情が険しくなる。


 その表情は劣勢から来るものではない、優勢なのに決め切れないもどかしさ。今の天竜はサンドバッグ状態。……にもかかわらず、その肝心のサンドバッグが一向に傷つかない。


(なんなんだこの男……!!)


 その指し手は粘りとも、防御とも取れぬ行為。カインの刺突を頬スレスレのところで回避しながら、自らもまた乱舞している。


 崩落していく城の真下で戦い始める両王者。


 その手は読みという読みの果てを幾度も重ねて飛び越える。誰も追いつけない先の先まで思考が走る。


 そうして生まれた拮抗という結果は、二人にとって最悪な結末に等しい。


 ──たった一歩でいい、この男を越えなければと。


(息苦しい、一手指し返されるごとに自分の首に何かが絡みつくような)

(鬱陶しい、追い詰めているはずなのに底のない水瓶に水を注ぎ続けるような)


 ──有限の中で感じる、終わりのない戦い。


 カインは殴る、殴り続ける。悪手でも最善手でも何でもいい。とにかく目の前の男が体勢を崩すその瞬間までひたすらに殴打を続ける。


 その手段を選ばない貪欲な指し回しに、評価値は子供が描くような線で上へ下へと乱高下する。


 もはや正しい正しくないでついていける次元ではなく、この手を境にそれまで饒舌に解説していた三岳六段の口が止まる。


 会場は騒然とし、そのあまりにも難解な内容に観戦者は完全に置いてけぼりである。


 それでも、彼らはこの激戦の中でひとつの答えにたどり着く。


 ──どうやらカインが優勢のようだと。


「うッ……」


 両者の対局再開から5分が過ぎた頃、天竜の顔色が青ざめる。


 顔面蒼白。血の気が引いたようなその顔色は、知恵熱から出る熱気で誤魔化しているだけの空元気状態。天竜の体はいよいよもって限界を迎えていた。


「はぁ、はぁ……っ」


 もう限界、もうここまで。そう交代を懇願する表情も、別室で盤面だけしか見えていない沢谷には決して届かない。


 そんなどうしようもなく絶望的な状況に追い込まれた天竜の心情は、今にも叫びたい激情と共に心の中で咆哮した。


(……最高に、気分がいいッ!)


 不快感から反転した興奮は、脳髄から腕を伝ってその指先まで刺激をもたらす。


 もはや自分の状態など関係ない。その瞳の奥底に眠る天竜自身の真意が、体の中で弾け飛ぶ。


「……お前のそれは"プライド"か?」


 天竜の状態をおおよそ察しているカインが、自らの秒読みの中で問いかける。


「はぁっ、はぁっ……そうかもな……っ」

「理解できねぇな」


 既に読みを終えているのか、カインはさきほど天竜から奪い取った飛車を駒台から取って見つめる。


「俺達はこの対局で勝てばプロ棋士への道が開かれる。念願のステージだ。……だが、お前達はこの戦いで勝ったところで何も得られない。何も得られない戦いだ。なのにどうしてそこまで本気になる? そんなに俺達を、俺達海外の将棋指しを、プロ棋士に昇華させたくないのか?」


 カインは手に持っていた飛車を裏返し、龍王の文字を見つめる。そしてその視線は、やがて目の前の男へと向かれた。


「……別に、そんなんじゃない」


 天竜は影を落とし、息を整えながら答える。


「俺はただ……好きな子にカッコいい所を見せたいだけだ」

「……は?」


 カインの思考が一瞬真っ白になる。


 しかし、対局時計の秒読みが10秒を切ったところで出る警告音が、その意識を現実へと引き戻す。


「……そんなことのために」


 カインは体をプルプルと震わせると、その手に持っていた飛車を大きく振りかぶって盤上へと叩きつけた。


「……そんなくだらないことのために、お前は立ちふさがっているのかァ!」


 カインから放たれた渾身の勝負手は、飛車の腰から抜かれた霹靂の斬撃。王手金取りの絶好手である。


「……くだらないだと? あぁ、そうかもな……」


 そんなカインの手を受けて、天竜は自身も同様に持っていた飛車をカインの打ち込んだ飛車の隣に軽く置く。


 ──飛車のタダ捨てである。


「なっ!?」

「──だけど、男なんてそんなもんだろ?」


 天竜の放った一手に、カインの思考は鋸の刃のようにギザギザに欠けていく。


 大胆な飛車のタダ捨て。しかし取ってしまえば速度が逆転する。そして速度が逆転するということは、敗北への道が敷かれることを意味していた。


 盤上に残った金将があまりにも邪魔過ぎる。カインの王様に隣接スレスレで狙いを定めた金。


 ──それを指したのは渡辺真才だ。あの男の手が今この瞬間にも突き刺さっている。


 アリスターは見切れると踏んでその金を見逃していたが、カインにとっては痛恨の楔が常に入り続けているようなもの。


 さきほどカインが指した十字飛車じゅうじびしゃによる王手金取りで、その目障りな金を剥がせると思っていた。


 だが、天竜の飛車捨てで肝心の金が取れなくなった。何故なら、天竜の手もまたカインの王様に突き刺さっているからだ。


 王手金取り逃れの王手飛車。カインの手がたった30秒の思考時間で逆用された。


(罠に誘われた……! コイツ、俺が安全策を取るとあらかじめ決めつけて先の局面を読んでやがったのか……!)


 天竜の捨てた飛車を拾ったところで、大金を得たところで、その先で死んでしまったら元も子もない。


 かといって、天竜の飛車を取らなければ、そのタダ捨ては王手飛車へと変貌する。


(コイツ……ッ!)


 カインの拳が強く握られる。


 自身の夢が、子供の頃から抱いた棋士という勲章がすぐそこにあるというのに。こんな恋煩いをしている男に負かされるなど、あってはならない。


 懸けている重りが違う。懸けている信念が違う。


 そんなカインの思考を読んだかのように、天竜はハイになった瞳をカインへと向ける。


「懸けているものの大きさで闊歩するなよ。夢なんてのは所詮、自分の尺度でいくらでも大きくできるものだろう?」


 そのセリフは不屈にのみ許された発言。失敗はなく、成功を捥ぎ取り続けた天才とは違う。失敗という屍を、死屍累々を踏みつけて、休む間もなく歩き続けた者から吐き出される狂気の沙汰。


 ──つけてきた足跡の桁が違う。


(俺が……この俺が……っ! こんな雑魚に……ッ!!)


 残り時間を計算に入れながら頭の中で膨大な分岐局面を展開するカイン。


 しかし、ハッとしてその思考は止まる。


「お、おまえ……!?」


 それは異常だった。──いや、異常ではなくなったという、異常である。


 本人が言う意思の強さが、覚悟がそれを上回ったのか。それとも本当に狂気に飲まれた怪物になったのか。


 どちらにせよ、それは本来の"普通"を体現したものであることに間違いはない。


 しかし、これほど恐怖を感じた"普通"を、カインは知らなかった。


「どうした? 読めよ天才、サカナはもう背を登っているぞ」


 ──天竜の右手の震えが、止まっていた。










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 本当はもう少し後になる予定でしたが、クリスマスということで早めの公開です……!

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ネット将棋トップランカーのド陰キャ、周りに将棋初心者だと思われながらリアル大会に出場する 依依恋恋 @iirenren

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