第百八十話 【翼無き竜】

 その青年は、プロを夢見た将棋指しだった。


 青年の得意戦型は居飛車、得意戦法は横歩取り。それ以外は何も指せないカモの将棋指し。


 初めは、そんな状態だった。


 有段どころか1級にも満たないその青年は、西地区で行われる大会の級位者部門で負け続け、ついには心が折れたそうだ。


 才能の限界を自覚するには早すぎることもない成人の門出。何もかもが嫌になって、前に進めない自分すら嫌いになって、全てを投げ出そうとしてしまいたくなった大会の帰り道。青年はある少女と出会った。


 少女の名は舞蝶まいち麗奈れいな。当時の西地区の女王にして、オールラウンダーと呼ばれる全戦法を扱う強豪の将棋指し。


 自分より一つ上の高みで戦っていた少女は、自身を紹介してくれた鈴木会長を通して青年に願った。


 ──自分は、あらゆる戦法を使いこなすことができても、それを極めることができない。だからひとつの戦法を極めるやり方を教えて欲しいと。


 それは青年の願いの対極だった。


 ひとつの戦法のみを極め続け、それ以外の戦法はまともに指しこなすこともできない。そんな青年が求める願いを、可能性を、少女は手にしていた。


 ──両者が手を組んだのは、互いに相手を叩きのめした後のことである。


 ※


 苦難を乗り越え、頂点に立つ。ただそれだけのことがどれほど難しいか。


 一瞬、視界が暗転する。何をされたか分からなかったのに、感情が勝手にその答えを導いた。


 麗奈にはたかれたのは、俺が黄龍戦の全国大会で優勝した直後、プロの道を蹴った時のことだった。


「バカじゃないの!?」


 それまでずっと優しく接してくれた麗奈の、一番の怒号が響いた。


 口の中が切れ、血が出てくる。


 全力のビンタは、想像していたよりもずっと痛かった。


「だって、今の俺には……」

「違う、違うのよ! 私が言いたいのはそこじゃない! 目の前にチャンスがあるのに、それを二つ返事で蹴るのが許せないの! あれだけ頑張った日々を、そんな軽い気持ちで蔑ろにするのが許せないのよっ!」


 全てを分かった上で、それでも麗奈は怒鳴る。


 俺は視線を落としたまま静かに麗奈の頭を撫でた。


「……そうだね」

「……っ」


 頂点へと至った先に待っているのは、果てなき大空である。


 そこから見える景色はどこよりも絶景で、どんなことよりも達成感のある場所だった。


 限られた者しか見ることができない。数えきれないほどの努力と苦労が実った結果にようやくたどり着くことができる頂上で、俺は下を向いた。


 ──俺には、その先へ飛び立つための"翼"が無かった。


「……分かってる、師匠の状態は分かってるのよ……。でも、ダメだからって挑戦しないんじゃ、何も始まらないじゃない……」


 俺の両肩を掴んで、零れる涙を拭うこともなく顔を俯かせる麗奈。


 ……この時の俺は、将棋の駒を持つこともできない。重度のイップスにかかっていた。


 原因は色々ある。


 休む間もなく将棋の学習に日々を費やし、勝ち負けの世界で常に気を張っていたこと。成人を過ぎて年齢制限となり、奨励会に入る機会すら失った自分には、もう残された道はそんなに多く無い。


 そもそもとして、地区大会すら勝てていなかった二十歳はたち過ぎの大人がアマチュアのトップになってプロ棋士になる? 夢物語もいいところだ。


 だけど、それでも、夢を諦めるわけにもいかなかった。


 勝たなければいけない、負けるわけにはいかない。そんな中で麗奈の未来すら託された現状で、俺の心は自然と蝕まれていく。


 元からその兆候はあったらしい。──俺は、極度の緊張に達すると右手が震える。自分の意志に反した震え方は、手先の感覚すら感じられなくなって、自分の手が自分のものじゃないみたいに気持ちが悪い。


 ……決定打は県大会の予選だった。


 当時の俺はただの緊張のせいだと震えが止まらない右手を放置したまま、その対局に挑んでいた。


 局面は順調だった。終盤に差し掛かり、こちらの陣形はかなり安泰で、向こうには詰めろがかかっている。ハッキリ言ってしまえば圧勝と呼べる局面。


 勝負は秒読みの中で行われていたが、俺の勝利は変わらなかった。


 あと一手指せば投了してくれる。そんなところまで切迫した場面で、俺は時間ギリギリまで考え込む。


 残り2秒。息を呑むほどの緊張の中で読みを終えた俺は、パッと右手を盤上へ向けた。


 指したかった手は王手、詰めろを読み切った一手だった。


 だが、俺の伸ばした右手は突然自分の意志とは真逆の方向に勝手に曲がって、痙攣して、横にあった駒ごと盤上から弾き飛ばした。


 頭が真っ白になった。何も考えられなくなった。


 ……でも、まだ間に合うはずだ。指し手を口頭で伝えれば指したことになる。


 しかし、慌てて口で紡ごうとした符合は真っ白になった頭では思い出せず、無理にでも押そうとした時計はのカウントは既に0になっていて……。


 ──俺はそこで、時間切れ負けとなった。


 それから俺は予選を2連勝で制し、1敗を抱えながらも無事予選を突破することができた。


 ……だがその代償は大きく、俺はこの時以来右手で将棋を指すのをやめている。


 左手は利き手じゃないが、イップスが起こっているのはどうやら右手だけのようで、左手で指せば特に問題が生じることはない。


 しかし、人にはその人なりの癖がある。俺の場合はずっと右手で将棋を指してきたものだから、体にその思考を始めるためのルーティンが刻まれてしまっていた。


 左手で指す俺の将棋は、想像以上に弱かった。いや、本来加算するべき部分が消えてしまっていたという方が正しかった。


 左手で指す将棋は、知識と経験任せの機械的な指し手。つまり、その場その場で発揮されるべき『考える』という行為がまるで出来ていなかった。


 ──このままではダメだと思った俺は、黄龍戦の全国大会で無理やり右手を使うことに決めた。


 そもそも、右手を使って自然体で考える将棋がその時の俺の基本状態だ。それなのに慣れない左手を使って戦うなんて、そんな状態で優勝できるほど全国大会は甘くない。


 そうして迎えた黄龍戦の決勝戦は、無理やりの状態で戦っていた。


 震え手を抑えながら、激しく脈打つ心臓の鼓動を喉元まで込み上げる吐き気で紛らわしながら、限界を越えて戦った。


 結果は勝利したが、その代償に俺のイップスは悪化。俺はそれ以上まともに将棋を指すのが難しくなり、病院に通うことになった。


 医師には過度なストレスを抱えすぎている点が挙げられ、短期間での完治は難しいとのこと。最低でも1~2年は様子を見る必要があるらしい。


 だから、黄龍戦を優勝してせっかく得たプロ棋士への切符だったが、俺は断腸の思いで棒に振ることに決めた。


 ……でも、麗奈は納得がいかなかったらしい。


「……ごめん」

「謝らないでよ……本当は、誰よりもつらい思いをしてるのは師匠なのに……私には何もできなくて、むしろ私が負担をかけすぎてるせいなのに……」


 麗奈の肩を掴む手が強くなる。


「でも、師匠には行って欲しかったのよ……! そのためにここまで頑張ってきたんでしょう……? なのにそれを、こんなことで……こんな……っ」


 醜くても、悪あがきでも、失敗するのが分かっていても、それでも挑戦するのが麗奈の信条だった。


 でも、俺はそうじゃない。


 失敗するのが怖かった。失敗した先で、やっぱりダメだったと自覚する瞬間が怖くて、それが自分の足を崩す決定打になりかねなくて。……そんな最悪の未来ばかり想像して足を引いている。進めない。


 俺の足は鈍足だ。一歩一歩地盤を固めなくちゃ前に進めない。


「……なあ、麗奈。そんな顔するなよ。また次回頑張ればいいじゃないか」

「でも……っ!」

「俺、今度から左利きで生活してみるよ。そうしたら少しは実力が戻るかもしれないし、その時にまた右手で指せるようになったら今度は両利きだ。どうだ? 両利きで指せるなんてちょっとかっこよくないか?」

「師匠……」


 いつ治るか分からない。もしかしたら1年経っても治らないかもしれない。


 だから俺はそれ以来、左手で将棋を指すようになった。


 集中力が限界に達しそうになっても、左手で指すというほんの僅かな違和感だけで集中力が切れてしまう。……そんな小さな癖を矯正するべく、じっくりと時間を掛けて治していくことにした。


 いつか来たるべき、復帰の日に向けて──。


 ※


 ──懐かしい記憶が脳内を過ぎる。


 思えば、俺はあの日からずっと研究し続けるだけの毎日だった。


 そして、それまで同じように大会に出場していた麗奈は、俺がプロ棋士への挑戦を蹴った日から一回も大会に出なくなった。


 毎日毎日、責任を取るかのように俺の研究に付きっ切りになっている麗奈に、俺はやめてくれ、自分のことに時間を費やしてくれと怒ったこともあった。


 だが、結局麗奈が引き下がることはなかった。彼女は彼女なりの信念のもとに、自らが進むべき道を突き進んでいるのだと豪語した。


 ──もうたくさんだ。


 これ以上、あの子に辛い思いをさせるのは我慢ならない。いつまで経っても治らない右手の痙攣、妥協とでもいいたげな左手の酷使。そんなものに何を何ヶ月も甘えた日々を送ってるんだ。


 いい加減にしろ。いい加減にその甘えを消せ。修羅の道に努力だけで届かせると誓ったあの日の証明を、俺は忘れたわけじゃない。


 未だ待機室から出てこないカインを尻目に通路で過去の感傷に耽っていた俺は、その握りしめた拳にムカつく感情全てを投じ、その勢いのまま自分の顔面を全力で殴り飛ばした。


 あの時の麗奈のビンタに比べたら、大した痛みも無い。


 それに──。


「……なんだ。動くじゃん、右手」


 唇が切れてポタポタと流れる血を拭きつつ、顔を殴った反動で痺れている右手を確認して少しだけ安堵する。


 俺はこの大会で成果を上げなければいけない。それを渡辺真才が看破しているかどうかは分からないが、少なくとも彼の取引は神の一手に等しい威力だった。


 麗奈はこの大会を絶対に見ている。恐らく隣にいるであろう東城美香があれだけ渡辺真才にご執心とあらば、WTDT杯の様子はネット中継を介してでも見ているだろう。もしかしたら、二人仲良くお茶でも飲みながら観戦しているのかもしれない。


 だから、俺はここで示さなければならない。


 天竜一輝は復活したと、もうまともに将棋を指すことができるようになったと。そう麗奈に伝えなければならない。


 それを本来は、慣れてきた左手で行うつもりだった。そして事実、ここまでの対局を俺は左手でずっと指していた。


 ──だが、それももうやめだ。


「なんで後手引いたのに、わざわざ左手で指さなきゃならないんだってな」


 対局場に入って席に着いた俺は、右側に置かれている対局時計を見てそう呟く。


 先手は先に手を指せる代わりに、後手は対局時計の置く位置を右か左に選ぶことができる。


 ここからは1秒たりとも無駄にできない秒読みの世界。そんな中でわざわざ不利な状況ばかりに固執する理由がどこにある?


 翼が無いからと両手を羽ばたかせて、飛べもしない頂上からただ崖下を見るばかりで。


 ……それで天竜一輝を名乗るなど、ここまで積み上げてきたこれまでの自分に失礼だ。


 ※


 数分の間をおいて、ようやく対局場に一人の影が映り込む。


「俺は間違えない。俺は間違えない。俺は間違えない。俺は間違えない……」


 念仏のようにぶつぶつと何かを唱えて対局場へと入ってくるカイン。


 その瞳は絶望にも恐怖にも染まっていない。精神統一を果たしたかのような眼に、猛獣が出すような気迫。


 将棋に運要素は介在しないが、調子の良し悪しで戦績が変わることは多々ある。


 それはフィジカルを重要視するスポーツでも同様、勝負というのはどの分野においても相手が人である以上、メンタルが個々の実力を左右する。


 カインの瞳は"今"を見ていた。


 過去を引きずっていても意味がない。過去の過ちを悔いる暇など無い。進むべきは今この瞬間だけである。


 対する天竜は"過去"を見ていた。


 あの日に置き去りにしてしまった夢を、希望を、今この瞬間から過去に遡って引っ張り出さなければならない。


 対局場の影で対局の様子を見ているスタッフたちは、カインの様子が変わったことでそれまでの流れがミリオスに傾き始めていることを察知する。


 獰猛に全てを狩り尽くさんとするカインの気迫。


 切迫し、何かに苦しめられながらも必死にもがこうとする天竜の表情。


 メンタル勝負は語るまでもなくカインに軍配が上がっている。


 アリスターの覚醒、吹っ切れたカインの気迫。それを見ているであろうジャックが続くように快進撃を見せれば、勝敗の行方はおのずと予想できる答えへとたどり着く。


 ──しかし、カインは気づかない。


 周りのスタッフたちも、対局を見ている観戦者達も気づかない。


「……!?」


 気付いたのは、それを画面越しに見ていた麗奈ただ一人だけだった。


 ぱっと見では分からないほどの小さく小刻みに痙攣する手が、ほんの一瞬だけ画面に映り込む。


 それはなんてことはない、ただの"右手"である。


 それをものともせず自然体で対局時計のボタンを押した天竜に、麗奈はその過程に含まれる想いや覚悟の一切を察し、待機室で見ていた真才は思わず笑みを浮かべた。


 翼無き竜の、飛翔の瞬間である。









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 本日で連載開始から1年が経ちました!

 これまで本当に多くの方に応援されて、本作品もきっと喜んでいると思います!

 改めてありがとうございます!

 物語はまだまだ続きますので、今後とも是非ご期待ください!


 ※12月から年末にかけて忙しくなるので少しの間更新が緩やかになるのをご了承ください。

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