東亜幻霊英雄伝 : 呉衛(くれまもる)作

呉衛(くれ まもる)

第1話 魔神、目覚める

天啓六年(西暦一六二六年)。北京近郊の某所。


 真っ暗な谷。切り立った岩崖に細い桟道が伸びていた。

 絶壁に鑿で穴を開け、太い杭を横向きに差し込む。その上に板を渡して作った歩道だ。大昔に作られた道だ。杭も板も腐っている。そのうえ苔が張りついていてヌルヌルと滑った。

 危険な桟道を二百人もの男たちが進んでいった。深い谷の底に向かって急角度で下る。明かりは手にした松明だけだった。


 突然、悲鳴があがった。一人の男が足を踏み外して落ちていく。

 豪華な冠をつけて顔には化粧をした中年男が、谷底に冷たい目を向けた。

「愚か者めが」

 ひげがなく顎の下にはたっぷりと贅肉がついている。こんな危険な桟道なのに輿に担がれている。下人たちが八人がかりで担いだ輿の上に座っていたのだ。

 自分の足では歩くことができないほどに肥えている。担がされている者たちにはたまったものではない。

 下人のひとりが、おそるおそる、声をかけてきた。

「掌仰太監(しょうぎょうたいかん)・王回様……これより先は、危のぅございます……」

 掌仰太監と呼ばれた男は、輿を担ぐ下人を睨みつけた。輿を守る兵士が歩み出てきて下人を鞭で殴りつけた。皮膚が破れて血が飛ぶほどの強打だ。下人は「ひいっ」と悲鳴をあげた。

 殴った兵士が怒鳴りつける。

「谷に落ちて死ぬか、罰を受けて死ぬかだ! 死にたくなければしっかり担げッ」

 兵士は金糸で刺繍された官服を着ていた。錦衣衛{錦衣衛:きんいえい}と呼ばれる秘密警察官である。


 掌仰太監・王回の警護のために錦衣衛が十人ばかり従っている。揃って武芸の達人で、かつ、冷酷非道な男達であった。

 掌仰太監は宦官の最高位のである。宦官は宮殿で皇帝とその家族に仕える者をいう。皇后や皇女の身近に仕えるので、あらかじめペニスと睾丸を手術で取り除かれていた。

 ホルモン異常で人格も歪む。下人が谷底に落ちようが、鞭で打たれようが、輿の上で涼しい顔だ。

「進め!」

 錦衣衛の号令で輿と行列は再び進み始める。

 錦衣衛たちは松明を掲げる。岩に刻まれた魔人の彫刻を照らし上げた。巨大で不気味だ。黒い影がバサバサッと羽音を立てて飛んだ。コウモリだろうか。下人たちは怯えきっている。

 王回のすぐ近くには異国の老人が従っている。頭に白い布を巻きつけたペルシャ人であった。

 王回はペルシャ人に質した。

「ずいぶんと深い谷じゃな。北京の近くにこのような谷があるとは知らなかった」

 ペルシャの魔道師は長く伸びた白髪の眉毛の下で、目を妖しく光らせた。

「太古の昔に黄帝が掘らせた暗渠(トンネル)と聞いております。長い年月で土が削られ、このように深い谷になったと聞き及んでおりまする」

「黄帝じゃと? 神話の人物ではないか」

「地中深くを延びる谷ゆえ、人に知られることもございませぬ」

 それから四時間あまりの苦労を重ねた末に、一行は谷の最深部へと降り立った。


 古い青銅の灯籠がある。刻まれた文様は古墳から出土するような様式だ。太古の灯籠には “謎の燃料”が残っている。人魚の脂だという。錦衣衛たちが松明の火を近づけると火がついて谷底を明るく照らし始めた。

 谷底は平坦な広場になっていた。いくつもの死骸が転がっている。太古の時代の鎧武者や墓泥棒。すっかり骸骨になった古いものもあれば、先ほど落ちた下人の死体もあった。

 広場の真ん中には不気味な石像があった。大きさは三丈(九メートル)近くある。やはり太古の様式で彫刻されていた。おぞましい化物の彫像だ。錦衣衛が松明で照らすと下人たちが震え上がった。

 掌仰太監の王回はペルシャの魔道師を呼んだ。

「これはなんだ」

「饕餮(トウテツ)塚にございます」

「トウテツ? それもまた神話に出てくる怪物じゃな」

「仰せの通りにございます。この塚の真下に、伝説の魔物が眠っているのでございます」

 王回は苦労して輿から下りた。蚩尤塚の正面に立つ。

 石像の正面部分には怪獣の顔が彫刻されていた。彫刻全体から妖しい波動が伝わってくる。

「まるで心臓の鼓動のようじゃ」

「いかにもトウテツの心臓の鼓動にございます」

「魔物が目覚めたならば、何が起こる」

「この世に不死の兵が出現いたします」

「不死の兵!」

「トウテツを目覚めさせたあなた様に不死の兵が従いまする。決して倒せぬ不敗の兵団……あなた様が天下の主となりましょう」

「わしが天下の主、すなわち皇帝か! 魔道師よ、左様ならば儀式を始めよ!」

 王回の命にペルシャの魔道師が大きく頷いた。

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