はんてんの身にて君想う

稲子帰依

失ったものと残るもの。

 円状に広がった世界の端には壁があり、空が透明なドームに覆われた謎の多い都市『ソドム』。そこには人であって人でない生物が人間と共に住んでいました。彼らはソドムに現れた時から少年や青年の姿をしており、決して衰えることがなく、それぞれの頭の上に『ニンバス』と呼ばれる個性的な光背が浮いています。しかし寿命や見た目の違いだけではありません。


彼らには論理的に説明できない特殊な力───『祝福ギフト』があったのです。たとえば木を軽々持ち上げられる怪力。たとえば高度な数式の答えを演算せずに導き出せる頭脳。その力は正しく天からの使いと呼ぶに値するものであり、それでいて人間に近しい見た目をしていることから彼らは『半天使』と名付けられました。


半天使を畏れ怯える人間がいれば、これ幸いとばかりに利用しようと目論む人間もいました。とはいえ、多くの存在は人間に協力的な半天使、そして半天使を隣人として接する姿に触発されたのでしょう。彼らは長く友好的な関係を築くことができていました。……ただし、一部の例外を除いて。




 半天使の蓮浦はすうら あおいはその例外の一人でした。『第八地区』と呼ばれる街の外れにある洋館にひとり住まう彼には『全能』という祝福を与えられていました。彼が酸化した鉛に触れれば光沢を帯びた美しい金になりますし、指を鳴らすだけで物が意図通りに動きます。つまるところ、できてしまうのです。このことから彼は他者との繋がりに必要性を見出せず、街の誰とも関わろうとしませんでした。


未知とは得てして恐怖を呼ぶもの。街との結びつきを拒んだ葵への畏れが流布するのにそう時間はかかりませんでした。凍てつくような紅い眼にもはやかみに近しい祝福の力。誰が呼んだか、『緋眼の半天』。格好つけた異名は瞬く間に拡がっていき、いつしかその半天使の名前が蓮浦葵であることを覚えている人間は誰もいなくなりました。 


 さて、話し相手のいない彼にとっての娯楽は二つあります。それはただ広いだけの庭園を手入れすること、それから人が紡ぐ物語を窓の外から眺めることです。北風が吹きなおなお冷え込んだ今日もまた彼は草花に水を与えていました。分厚いローブのフードを被れば凍みることはないですが、指先で触れたガーデンテーブルはじわじわと熱を奪っていきます。葵は神聖不可侵である孤独な城に座っており、ザクロ色をした急勾配なその瞳が魔術によって寸分違わず指示通りに動く如雨露を淡々と映していました。


如雨露が彼の元に戻る頃にはもう陽が高く昇り屋根の下に影を作っていました。葵は自分のいるガゼボへと戻ってきた如雨露を点検しようと重い腰を上げ、次いで触れようとしたその瞬間、玄関につけていたドアベルが鳴ったのです。彼は目を見開いてしばらく固まっていましたが、数少ない来客に心当たりがあるのを思い出しました。分厚いフードをいっそう深く被りなおし、音の鳴る方向へと足を踏み出しました。


 心当たり、とは毎回♃の日に事前に代金を払った消耗品を届けに来る雑貨屋の人間でした。♃の日だけは一人の時間は減るのですが、さりとて彼らの間には必要最低限の会話しかありません。そもそも怯える人間と寡黙な半天使の間に談笑が生まれるのならそれはきっと奇跡でしょう。葵は今回も普段通り事務的に済ませようと庭園の出口から玄関先に出てきました。


ところがそこに立っていたのはいつもの店員ではなかったのです。普段の店員は背を丸めて俯き話す人間でした。けれども玄関先の彼女は落ち着いた赤色の髪を高く結っており、目を輝かせながら扉を見上げています。とてもではないが前の店員が雰囲気を変えたようには思えない出で立ちでした。


「雑貨屋」


「へいなんでっしゃろ?!」


元気も威勢も意気も良い返事が厳粛な庭園に響きました。葵が一言“落ち着け”と言い放つも却って怖がらせたようで、彼女は更に背を丸めて縮こまってしまいました。菖蒲色の双眸は右往左往し、安心感を得ようとするべく己の片腕に縋っています。自分に怯えるその姿は彼にとって見慣れたものでした。


「品は」


彼はいつも通りに気遣いも忖度も心さえもない尋ね方をしました。


「こちらになりますです……」


あやめは支離滅裂で変に上がった声と共におそるおそる脇にあった袋を差し出しました。葵が無言で袋を開けてひとつひとつの状態を確かめていると、変に裏返った声で呼びかけられました。声を絞り出した彼女の眉は八の字に下がっているものの、先ほどよりかは落ち着いているように見えます。が、葵に


「なんだ」


と睨むような視線を向けられるとすぐに目を逸らしてしまいました。それでも彼女は小さな口を動かし、何かを伝えようとしています。葵は手を止めて彼女の音が言葉として紡がれるのを待っていました。


「……」それはくぐもった声であり、何を話しているのかさっぱりわかりませんでした。彼女は頭を小さく横に振ると前述よりも声量を上げ、「その、お花、好きだったりします……?」と問いかけてきました。


「ああ」


葵の肯定を聞くやいなや彼女の瞳が夜空に浮かぶ星のように輝きました。


「私も好きなんですよ!」


今日一番の大声が澄んだ空気を揺らし葵の肩を大きく跳ねさせました。


「あ、すみません、つい」


彼女は物言いこそ冷静に距離を測っているようですが、両手はくっついたり離れたりとどうにも落ち着きがありません。静やかな葉ずれが二人の間を繋いでいました。そうして一分もない短い沈黙が続いた末に、庭園の奥から手に収まる大きさの剪定鋏がふわふわとやってきました。電気や魔力で自動的に動く機能がない古典的な鋏からは年代を感じさせますが、刃は錆一つなく空を映していました。


「時間があるなら見て回るといい。それで気に入ったのがあるなら持ち帰れるようにもしよう」葵はここまで言うと口をつぐみ、ローブを翻しました。「どうせここで咲いても持て余すだけだからな」


彼女に背を向けて自嘲気味にそう吐き捨てられたものは宙に溶け、緊張の一間が滲んでいきます。小さな呼吸がひとつ、庭園の内を通っていきました。


「ありがとうございます!」


辺りに元気な少女の声が響き渡りました。先ほどの緊張はどこへやら、彼女は目が痛くなるほど明るい笑顔を見せていました。踏み出した一歩の先では花を起点に話がどんどん弾んでいきます。彼女が一方的に話しかけている形でしたが、お互いにとってそう悪い時間ではありませんでした。




 荷物を背負いアプローチを歩んでいた雑貨屋が門扉の下で止まり、くるりと回って葵のほうに顔を向けました。彼女が大切そうに持っていたユリの花弁は光沢を帯び、20度弱に傾いた日を受けてピンク色にキラキラ光っていました。


「また来ますね、えっと……緋眼の半天さん!」


葵は戸惑いがちに呼ばれたその通称に対して眉を顰め、ほんの少しの敵意を込めて彼女を睨みました。ですが最初と違い彼女が怯えることはありません。葵は瞳に宿る諦念を伏せました。


「その滑稽極まりない呼び方をやめろ、雑貨屋」


「だってそれ以外の名前知らないんですもん。あと私は漂木ひるぎあやめっていう立派な名前があります」


あやめは口を尖らせてそう言い返しました。なんとも子供じみた言い方ですが本人も葵も気に留めることはありません。秒針が一周する程度の停滞のなかで、冴えた風が頬を撫でました。未だに庭園に残り天より降る友を待つ雪が距離を図る彼らを見守っていました。そうして続いていた停滞を破ったのは葵の嘆息でした。開かれた紅蓮の瞳は真っ直ぐ彼女を見つめていました。


「蓮浦葵」緊張感のない顔で首を傾げる彼女の姿を見て鬱屈そうに目線を落として「私の名前だ」と付け足しました。


彼女は一度俯きなにかを呟いてからばっと顔をあげ、大きく息を吸い込んでから目一杯の笑顔を浮かべました。


「はい──葵さん!」


彼女がそう言って背を向けたとき、ひときわ強い風が吹いて葵の分厚いフードが落ちました。喜怒哀楽をなにひとつ感じさせないその顔は、心持ち目尻が下がっているように見えました。




 また星が巡り、次の♃の日。軽やかなドアベルが彼女の訪れを告げました。アプローチには山茶花が咲き誇り、あやめもマフラーに耳当て付きの帽子と前回よりも更に着込んでいる様子でした。葵が重い扉を開けた瞬間に館内に快活な声が響き渡りました。


「葵さん、お荷物です!あと仕事はこれで終わりなんでお話しましょ!」


それを真正面から受けてしまった葵は鬱陶しそうに左下に視線を向け、様々な文句を吐息に混ぜて吐き出し、それからこう言いました。


「長話か?」


その言葉を聞いたあやめは目を見開き口を開けたまま固まっていました。ぴくりとも動かないあやめと無表情で威圧感のある葵の間には形容しがたい居心地の悪さが広がっていました。


「嫌なら大人しく帰りますけど……」


先ほどの勢いはどこへやら、ややひきつった笑顔でそう言ったあやめ。葵は彼女の落差に対する戸惑いから目を伏せて荷物に魔術をかけ、踵を返しました。荷物は彼に続くように洋館に入り、やがて抜かして裏口の方向へと去っていきます。その軌道が正しいことを確認した彼はあやめに向かって言い放ちました。


「入れ。凍えるぞ」


無愛想な物言いですが、その声色に灰汁はなく、むしろこれまでに比べれば親しみすら覚えるような声でした。


「え、あ、はい!」


葵の答えはあやめにとって予想外のものだったのでしょう。彼女は反射的に頭のてっぺんから吊られたように背筋を伸ばし元気よく返事しました。葵は彼女が洋館に足を踏み入れたことを確認すると指を鳴らすことで扉を閉め、冷めきった暖炉の薪に火を灯しました。


「すごい……これ、ぜんぶ魔術ですよね?」


「珍しいか」


「いや、魔術そのものを見かける機会は多いんですけど、ここまで大規模なものってそうそうないので」


繋がりを拒んだ葵にとってこうして誰かの目に触れられ、褒められるのは初めての経験でした。彼は三種の語彙を使い切っては振り出しに戻りを繰り返すあやめの賛辞に機械的な相槌を打っていました。空を泳ぐポットは暖炉の上に座り、ひとたび半天使の眼差しを向けられたティーキャディーはふよふよとテーブルに向っていきました。葵はいつもこうして紅茶を淹れているわけではありません。ポットの水を百度付近で取り上げるのは魔術を使うほうが手間ですし、カップや茶葉を移動させる必要もありません。それでも今日の彼はただ、なんとなく、そうしたかったのです。




 それからもあやめは配達に来るたびに話しかけ、ふと気づけば配達なんて建前なしに訪れるようになりました。これに対して葵は帰ってほしいとも、もう来てほしくないとも言いませんでした。なにせ、半天使は嘘を口にするとその身に宿す祝福を失ってしまうのですから。ですが彼女が毎日来るようになってから五回目の冬が来た頃、彼はひとつの決心をしました。葵は眉間にしわを寄せ唸りながら葵の蔵書に目を通していた彼女に声を掛けました。


「なあ」


彼の呼びかけにあやめは顔を上げ、首を傾げて応えました。予め用意した言葉は喉につかえて静寂を呼びます。それどころか今の葵は正しい息の吸い方さえもわからなくなってしまっていました。しかしそれも瞬きと共に区切りをつけ、強く問いただすように言葉を紡いでいきます。


「君が何度もここに来るのは同情か?それとも私の理解者にでもなったつもりか?」


葵が投げつけたのは率直な疑問でした。その攻撃的な口ぶりに反して、視点があやめを捉えることはありません。相反した重苦しさを纏う彼に彼女はきょとんと首を傾げ、それから目をつむってこう返しました。


「そんなんじゃないですよ。ふつーに葵さんといるのが楽しいから来てるんです」


肺の底から深い深いため息が響きました。


「……なら、猶更なおさらだ」それは己が絶対に正しいと確信しているような物言いでした。彼は未だ残る躊躇を飲み込み続けます。「ここに来る頻度を落とすといい」


たとえ心中の割合がどうであれ、それは間違いなく本心の一つでした。不満のこもった彼女の視線が深く突き刺さり痛覚を刺激してきました。


「なんで今更」


子供のようないじけ方でしたが、葵にはそれをまだ可愛らしいものだと一周する余裕はありませんでした。


「今更というほどの時間は経っていないだろう?……人間には寿命、というものがありそれが尽きると魂が消滅すると小耳に挟んだ。それがたった数百年なのか数千年に渡るのかまでは聞き及んでいない。だが、いずれにせよこんな場所で浪費するのは莫迦バカのすることだ」


「んー、だとしたら私はバカなままかもしれないですね」


とりとめのない言葉で埋め立てられた本音の行方を知ってか知らずか、珍しく意地悪な笑みで誤魔化されました。長い髪を纏めた雀蘭のリボンが彼女の身振りに合わせて揺れていました。


「そうか」


葵は真意を問おうとする言葉をそのまま飲み込んでしまいました。本当のところ、葵はあやめの時間が浪費されることについては特に気に留めてはいなかったのです。なにしろ当時の彼は窓の外にいる日常の一コマから切り抜かれた“人間”しか知らず、ゆえにその前後に続く行間が何百年もあると思っていたのですから。ただ、彼はこれまでずっと屋敷の中でひとり生きていました。それが一番の幸福だと思い込んでいました。故に、誰かを必要とし、誰かに必要とされる自分の存在そのものがこれまで築いた四百年すべてを否定しているようで許せなかったのです。




 そんなやり取りを交わしてから二年。葵とあやめは共に朝の食事を摂り夜星を眺めるのがすっかり当たり前になっていました。それはこれといった熱がなければ冷もなく、されど満たされた心地になれる穏やかな時間でした。


例えばとある日の会話はこう。

「じゃじゃーん!葵さんに似合いそうな懐中時計です!受け取ってください!」

「要らん。己で使え」

「それが厳かすぎて私には似合わないんです。受け取らないなら捨てるしか……」

「…………受け取るから、そんな顔をするな」


また別の日はこんなことを。

「装飾品に興味はあるか?」

「これまたいきなりな質問ですね。なにかの勧誘ですか?」

「からかうな。ただの気分だ」


そのまた別の日にはこんなことを。

「その、なんだ、この間の礼だ」「不要なら捨てるが?」

「ありがとう!葵の気持ちはすごく嬉しい!でも宝石そのものをプレゼント、って珍しいですね」

「透明度が高くシラーが滑らかに動く良品だ。装飾品に加工すればなおのこと価値があがるだろう」

「なぜ笑う」

「ふふ、教えません」


──すべて取るに足らないやり取りでした。なんの価値も意義もない幸せな時間でした。




 それは葵と彼女と会ってから十五年ほどの月日が経ったころのことでした。その日の屋敷はいつもよりも静かで、耳を凝らせば自分の心音が聞こえてくるようでした。一日のすべきことを終えていた葵はひとり窓辺で鈍色の空を眺めていました。時針が指すのは三時前。もうすぐ彼女が帰ってくる時間です。ふと視線を降ろすと整備の甘い道路を彩る積雪の端に小さな足跡が刻まれていました。その足跡をたどった先には白いフードを被った淑女と茶髪の半天使が並んで歩いていました。雲間から覗く太陽が二人を照らしていました。葵が彼らを観察していると、何気なく顔を上げた茶髪と目が合った気がしました。きっと気のせいだ。そう考えた葵は彼らの行く末を見守っていました。二人は屋敷の正門で立ち止まると抱擁を交わしました。それと同時に淑女のフードが落ちました。露になった白が混じりの赤髪は、間違いなく葵の待ち人だったのです。


 彼女と一緒にいた顔も知らない誰かの存在は自分にとっての大切を認め始めた葵の考えに暗い翳を落としました。人と共に過ごし、彼らを愛し愛される藍色のニンバスの半天使。自分と同じ種族でありながら自分とは真逆の在り方をしている彼に葵は“あやめには赤茶髪の彼の方がずっと似合う”と思ってしまったのです。階段を下っていく毎に彼女が離れていくかもしれない恐怖が指数関数的に広がっていきます。


「出て行ってくれないか」


「もう、帰ってきたばっかなんですけどー?どうしてそんなこと言うんです?」


あやめは肩に乗っていた雪をはたき落とし、真剣な葵に言い放った葵に対して緩み切った表情で笑っていました。


「それは」


君のためである、と己を誤魔化すことができたならどれほどよかったでしょうか。────でも、彼に与えられた祝福は自己欺瞞さえも見抜いてしまいました。確かにあやめを拒むのは彼女の幸せを願ってのことではあります。けれども、それ以上に、己が傷つくことがこわくて、こわくて、しかたなかったのです。


「私がお前を嫌いになったからだ!」


直後、葵の頭に重い鐘の音が響きました。彼にはこの音にひとつだけ心当たりがありました。それは古くに神と半天使の間で交わされた約束が破られ、与えられた祝福が反転して呪いとなる時に鳴ると言われる『神の栄光アンジェラスの鐘』。


交わされた約束がなにかもわからず、その音は本人にしか聞こえない、そんなフォークロアにすらなれない眉唾物の噂話です。……ですが、実際にニンバスの色が反転し祝福を失った半天使は皆一様に“鐘の音が鳴った”と言うのです。嫌な予感がした葵は彼女に知られないよう横目で窓に映る自分の後頭部の上に輝くニンバスを確認しました。


──本来、葵のニンバスは混じり気のない清らかな白色でした。しかし今、その色は夜闇のように黒く淀んでいます。あの与太話が真実だとするのなら、葵が宿していた祝福『全能』は失われたのでしょう。だとしても葵に後悔はありません。


「うそつき。わざわざ強い呼び方までしちゃって、まるで『緋眼の半天』みたいですよ」


見せかけの敵意をぶつける葵に対して目の前の彼女はなにひとつ気にする素振りなくそう言いました。思えば、嘘が下手なのではなく、彼女が過ちを犯したときにニンバスの色が反転することを知っていたのでしょう。葵は心なし嬉しそうにしている彼女にひとつ戸惑いをこぼしました。


「君という人は……」


彼は呆れかえって物も言えない、といった様子で瞼を落としました。静寂のなかで彼に歩み寄るあやめの靴音だけが響いています。やがて、彼女は手を伸ばせば届いてしまいそうな距離で立ち止まりました。近くて遠い二人の間に流れる沈黙は呼吸音さえも拾えてしまうことでしょう。次に停滞を破ったのはあやめでした。


「捨てられる、とか思っちゃっいました?そんなあなたに朗報です」


「私はずっと傍にいますよ」


それは、とてもまぶしい言葉でした。


「あなたが嫌がっても、誰かを傷つけることがあっても」


それは、とてもあたたかい言葉でした。


「どこか遠くに逃げようとしたって」


そしてそれは、


「私は絶対に離れないって決めてるの」


とてもくるしい言葉しゅくふくだったのです。




 数多くの季節が巡り、また庭園が白く染まる時がやってきました。輝かしい白髪の老婦人と影のようなニンバスの半天使は静かに穏やかな時の流れを共有していました。外は吹雪き、冷たい風が窓を揺らしていました。


「私が全能のままであれば、君の老いを止められたのだろうか」


パチパチと薪が燃える音にかき消されてしまいそうなほど小さな呟きでしたが、彼らの関係はそれを聞き逃すほど短いものではありませんでした。


「そうかもしれないわね。もしそうなら…………いえ、なんでもないわ。そもそも、私はこうして老いていくことも悪くないと思ってるのよ。だって──」


あやめはそこまで言って口をつぐみ、本から視線を上げました。視力の落ちた菖蒲色の双眸は確かに葵を見つめています。永遠に等しい一呼吸の末に彼女はこう続けました。


「あなたと過ごした時間がこうして体に刻まれてるんだもの」


冗談かもしれません。慰めかもしれません。それでも、彼はその一言にどれほど救われたことでしょうか。しかしながら、“ありがとう”の一言を愚かな強がりが許しません。ゆったりとした沈黙を暖炉の音が彩っていました。


「そうか」


しばらくして、愛想のない返事があたたかな部屋に溶けていきました。




 いくつもの春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て。葵は自力で歩くこともできなくなっていたあやめを抱えてアングレカムの咲く庭園を歩いていました。空は水彩で塗ったように澄み、頬を撫でる風はひんやりと季節を教えてくれました。


「ごめんなさいね、最後まで私の我儘に付き合わせてしまって」


そう言って見上げる顔はかさかさになりしわが寄っていて、初めに会った頃とはずいぶんと変わって見えました。しかし、初めに受けた輝きの印象は変わらずそこに宿っています。


「……半天使にとって50年は刹那に等しい。故に大したことではない」


浅い吸気の淵で紡がれた言葉はひどく屈折した気遣いでした。もはや引き返すことができないところまできてしまった意地が本音を伝えようとする喉を締めていたのです。


「ふふ、それはそれで悲しいわ」


一呼吸。静かで落ち着く時間がさらさらと流れていきました。




「ねえ、もうひとつだけ我儘を言ってもいいかしら」


「なんだ」


呼吸の音が庭園に凍みていきました。体内で騒がしく鳴る心の音が彼女を抱えた指先から伝わってしまわないか心配で心配で、それでも彼には彼女を見つめて続きを待つことしかできませんでした。


「──もっと色んなものを見て頂戴。そうすれば、あなたはもっと素敵な半天使ひとになれるから」


その言葉を最後に頬に添えられていた手がそっと落ちていきました。


「……あやめ」


涙袋が熱くて痛くて。それでもようやく呼べたその名は返事などなく虚空へと消えていきました。彼は虚しいことだと自覚しながらも紅蓮の瞳を閉じ、多くのしわが刻まれた彼女の骸に弔いの花をぽつりぽつりと手向けていきます。


あの日、君の勇気で私の世界が彩られたこと。


君の言葉で何度も救われたこと。


君と過ごした日々が紛れもなく楽しいものであったこと。


「私が我儘を叶える前に死んでどうする。──―─本当に、一生バカなままだったな」


いくら寒の雨が降り注けど、その肌を潤すことはありません。平等に降り注ぐ冬晴れが物言わぬ彼女の指輪を青白く輝かせていました。




 かつて第八地区と名付けられていた街が『スコーピオ』と呼ばれるようになって幾歳月。ソドムにはいつの間にか“企業”という概念が生まれ、その頂点に立つ大企業『ジェリコグループ』が都市全体を支配するようになっていた。灰色の膠灰こうかいが赤褐色の煉瓦に取って代わり、街を行き交う人々はどこか急いた様子だ。夜道を照らすのが硝子の中に灯された小さな炎だけだったあの頃の面影はいまやどこにもない。輝きを失った太陽で動くことのない盤面を彩られた懐中時計だけが私が同じ場所で生き続けていることの証明だった。


……とある女性との別離を経てから千年弱。またあの空っぽな洋館で一人に過ごそうとしたが、彼女から与えられた光がそれを許さなかった。まずは近隣の交流から始め、次第に様々な地区へ旅をし。そうした過程の中で、私はとある組織を立ち上げた。


その名も『半天使保護協会』。人間と半天使の仲を取り持ち、新しく現れた半天使を保護する組織だ。立ち上げた理由は単純明快。誰かと関わる機会が増えればきっと、彼女の言う“綺麗なもの”がさらに多く見つかると考えたからだ。


「会長、一昨日に現出した半天使との面談が控えてます。窓辺で変にカッコつけてないで動いてください」


「はいはい、今行きますよ」


私は懐中時計の盤面を閉じ、彼に微笑みを向けた。かつての私は大切なものを失うことが怖くて、大切なものを認めるのが怖かった。…だが、築いたものがもたらす温もりは喪失がもたらす暗闇さえ埋めてくれる。それを彼女が教えてくれた。ゆえに、今の私は半天使保護協会の維持を最優先にしている。なにかを失くした時に嘆くのではなく、過ぎ去った楽しかったと思えるように。


君のような“素敵なひと”になれるように。

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はんてんの身にて君想う 稲子帰依 @inagokie

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