とりあえずのエピローグ

32 先生とわたし

 「釣りのインストラクター」佐田さんの指導のもとに、釣り糸をたらしたわたしたちは、それなりの魚とエビを釣り上げた。

 富来屋でさらに食材を足してもらい、揚げたての天ぷらを楽しんだわたしたちは帰路についたが……帰りの電車の中の記憶はない。

 徹夜だったこと、緊張しっぱなしであったこと、これで起きていられる方がおかしいのだ。

 それは布津先生も同じだったみたいだ。

 ゼミの連絡用SNSで布津先生の寝顔が流れてきた。疲労困憊で寝ているだけなのに、バラの花とか背景に書き込みたくなる決まり方である。

 「寝ているときですら、かっこいいから、一周回って不気味だよね。よだれくらい垂らしていてもいいのに」

 とは川上さんの評で、

 「その点、ふみぃはちゃんと人間ぽくてかわいい」

 とは、よだれを垂らして寝ているわたしの姿を撮影したエリちゃんの評である。

 わたしの寝顔については、川上さんとエリちゃんのスマホにだけ収まっていた。

 グループSNSに載せないでくれたことに武士の情け(?)を感じたものである。

 写真といえば、もう一つ事件があった。

 旅館を出る前に正面で記念写真を撮った。

 わたしのスマホでも撮ってもらったのだが、それが心霊写真であったのだ。

 にこやかに笑うわたしたちの横で、満面の笑みを浮かべる少し透けた子どもの姿。

 たぶん、ザシキノボウなのだろう。

 他の人のスマホで撮ってもらった集合写真には写らず、わたしのスマホで撮ってもらったときだけ姿をあらわしていた。

 心霊写真なんてのは怖いものでしかないと思ったが、彼(?)の笑顔で怖さは吹き飛んでしまった。

 良かったね、元に戻れて。

 わたしはスマホのなかのザシキノボウに語りかける。


 ◆◆◆


 合宿から帰った翌日、先生の私用アドレスからメールがきた。

 先日のお礼に食事でもどうかというお誘いだった。


 了承とお礼の意を伝えるだけの簡素なメールを書くのに一時間かける。

 さらにその下書きを一時間寝かせる。

 勇気をふりしぼる。時間があれば、食事前に映画を見たいと書き足した。

 全部消して、もう一度、簡素なメールを書くのに一時間、そこから迷って一時間。

 合計四時間以上かけて、先生へ送信する。


 先生からの返事はすぐに届いた。

 スマホの通知音に飛び上がり、文面を読む。

 そこで肝心のどのような映画を見るかについて、一切考えていなかったことに気がつく。

 これでは、ただ先生といる時間を少しでも長くしたい、デートしたいみたいな印象を与えてしまう。今からでも、この映画が見たかったのだということをアピールしないといけない。

 先生はどのような映画がやっているかをまとめてくれていたので、必死に考える。

 「ポムすけ、どうしよう? ねぇ、ポムだったら、どうする?」

 映画館未経験のポムは、わたしのことを不思議そうに見つめている。

 ホラー映画は……もちろん、なしだ。

 アクション大作、面白くても、なんか違う。だって、先生と一緒に見るのだし。

 恋愛映画、ああ恋愛映画とかあの人の横でどんな顔して見ればいいんだろう。

 単館上映でやっている芸術的な映画……万が一居眠りでもしたら……。わたしはよだれを垂らしてだらしなく眠る自分の写真を思い出してしまう。

 

 結局、開き直る。

 そうだ、そうだ。わたしは先生とデートをしたいのだ。

 だから、べたべたな恋愛映画を見る。

 それで恋愛映画みたくわたしたちが結ばれる夢を見る。

 夢を見るくらいいいじゃない。


 メールを送信。

 三八分後に通知音、待ち合わせ場所と時間が書いてある。

 エリちゃんに電話する。

 「明日、何もいわずにワンピース一緒に選んで」とお願いする。

 わたしはあまりスカートをはかない。デニムのパンツが好きで、だいたいはそれですませてしまう。食事に連れて行ってもらうときは、スカートをはいていたけど、同じものを着ていくわけにもいかない。

 この前、先生はワンピースが似合うといってくれた。

 あれは部屋着だったので、外に着ていけるようなものじゃない。

 となると、おしゃれなエリちゃんに聞くのが一番だ。

 「報告できるようになったら、報告すること」

 そういって、わたしの大事な友だちは助けてくれる。

 エリちゃんが選んでくれたのは、紺の長めのワンピース。

 「普段のふみぃのコーディネートの上に重ねる感じで一気に大人っぽくなるよ」

 わたしは何度も何度もお礼をいう。

 「相手は誰かなぁ、朗報楽しみに待ってるからね」

 エリちゃんがにんまりと笑う。


 ◆◆◆

 

 待ち合わせ場所に現れた先生はカジュアルな服装だった。

 紺のジャケット、白いTシャツ、デニムにブーツ、こういう姿の先生は初めて見た。

 ものすごくおしゃれとかいうわけではないのかもしれないけれど、素材が素材だ。

 周囲の視線を集めている。

 わたしも固まってしまう。

 固まっているわたしに先生が手をふる。

 視線がわたしを刺す。わたしは下をうつむいてしまう。

 「似合っていますね」

 先生のことばに、今度は舞い上がる。

 どうにもこうにもふわふわとしてしまって、わたしは季節外れのたんぽぽの綿毛のように先生のまわりを飛んでいる。

 

 すべてがこんな感じだった。わたしは夢の中でふわふわと飛ぶ綿毛だ。

 

 「誰かと映画を見るなんて、本当に久しぶりです。楽しいものですね」

 先生のことばは、社交辞令ではないと思う。

 わたしはスクリーンそっちのけで先生の顔をちらちらと見ていたからだ。とても素敵な笑顔だった。

 そのせいで、映画の内容はまったく頭に入らなかった。

 

 食事の味もわからなかった。

 「アンサンブル・プル・トゥージュールずっといっしょ」、どきりとする名前のビストロ、何度か連れてきてくれた先生のお気に入りのお店。

 正直なところ、自分が何を頼んだのかすら、よくおぼえていない。


 ふわふわした綿毛が地面に降り立ったのは、食後のコーヒーのときだ。


 「前、ラピスラズリが誕生石って言ってましたよね」

 わたしの大事な青いブローチを見つめながら、先生がいう。

 「調べたら、九月と十二月と二つの説があるらしいですね」

 先生が少し口ごもる。

 「プレゼントでもいただけるんですか」

 わたしは少しだけ茶化すように答える。

 「そうですよ、だから、あなたの誕生日を知りたいのです」

 ストレートな返答にわたしは真っ赤になる。

 「九月一五日です」

 誕生日は合宿の前に過ぎていた。

 先生が天井を仰ぎ見る。

 「少し遅れてしまいましたね。でもね、来年はちゃんと当日に渡せるように頑張りますね」

 先生はそう言うと、綺麗にラッピングされた箱をテーブルの上に出す。

 「開けてもいいですか」

 小声で許可を求める。心臓の鼓動が聞こえていたらどうしよう。

 中にあるのはネックレスだった。大切なブローチと同じ色のトップのついたきれいなネックレス。

 わたしは、期待している。待ち望んでいる。

 「来年もくださるんですか。どうして、ですか」

 それでもぬか喜びにならないように静かに問う。弟子にプレゼントとかいう可能性だってあるのだ。

 期待しているけど期待してはいけない。待ち望んでいるけど、待ち望んではいけない。

 先生が困った顔をする。

 「理由は……そうですね、喜ぶ顔が見たい……いや、格好つけてもしょうがないですね」

 先生は深呼吸をする。赤みがかった瞳がじっとわたしを見つめる。

 「僕はね、今、あなたを口説こうとしているのですよ。あなたのそばであなたの笑顔を見ていたいのです」

 息ができない。

 絶対に真っ赤になっている。顔全体がものすごく熱い。

 わたしはうつむいてしまう。

 沈黙がおとずれる。いいたいことはたくさんあるのだけど、何もいいだせない。

 沈黙、沈黙、沈黙、破れない沈黙の壁を破ろうと試みたのは先生だった。

 先生が口を開く。

 「ごめんなさい。僕が一人で浮かれ……」

 「はいっ! ください! 来年も再来年も五年後も十年後も三〇年後も五〇年後もずっとプレゼントください。クリスマスもホワイトデーもプレゼントください。なにも理由がなくてもプレゼントください、毎日のプレゼントは先生の笑顔で許してあげます」

 先生のことばをさえぎって、一気にまくしたてる。

 先生はふっと息をついてから微笑む。

 「君は欲張りですね」

 わたしは舌を出して、アカンベーしてやる。

 

 ◆◆◆


 「少し歩きませんか」

 近所まで送ってくれた先生がS公園を指し示す

 先生の手に初めて触れた場所。

 今日のわたしたちはまだお互いの手に触れてもいない。


 「名というのは、とても大事な意味を持ちます。呪術的にも縛るものです」

 しばらく無言で歩いた後、先生が講義のときのような口調で話しはじめる。

 わたしは彼の素敵な横顔を見る。

 先生が立ち止まる。

 ひんやりとした長い指がわたしの指にからみつく。

 「先程、君に欲張りといいましたね。実は僕も同じなのです。僕はね、独占欲も強いし、嫉妬深い男なのですよ。だからね……」

 先生がわたしに顔を寄せる。

 頬と頬がこすれて、とても熱い。

 「特別な人にはちゃんと名前で呼んでほしいのです」

 トキフミと呼んでください。

 彼が耳元でささやく。


 第一部了

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イカイザンカイ 黒石廉 @kuroishiren

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