後編
保坂さんの話は長かったので、右の耳から左の耳へほとんどすり抜けて行った。
何年か前、二〇四に住んでいた女性が風呂場で首を完全に切られた状態で殺されていただの、それ以来ここは格安で貸し出されてる事故物件だの。
「はあ」とか「へえ」とかでやり過ごした。こんなどうでもいい話を聞いている暇なんてないのに。
「それで、犯人はもう捕まってるんですけどね? 殺された女性の元恋人の男だったんだそうです。振られた逆恨みとかで。ニュースとかにもなったし有名だと思ってたんですけど、大家さんとか不動産屋さんからそういう話、聞いてないですか?」
「聞いてないです」
「そうなんですかあ。事故物件への告知義務は一回きりって本当なんですね」
後で調べたことによると、住民の死があった住居「事故物件」は、次に住む住人へ過去に悲劇があったことを管理者が伝える「告知義務」があるのだそうだ。しかし、それは事件や事故が起きた後に初めて住む住民にしか伝えられない。だから私は何も教えられないまま、住んでいた。家賃が他より安い理由など深く考えることなく。知ってたところでこの部屋を退去しようとは思わなかったと思うけど。
「たまにあなたの部屋から変な声が聞こえてくるんですよ。ああ、とかうう、とか。昨日の夜も聞こえました」
壁が薄いからか、あの子の声が漏れていたみたいだ。くそ、安普請のアパートめ。
「そうですか、それはすみません」
「ああっ、責めてるとかそういうわけじゃなくてっ。その、変なものとか聞いたり、見たりしたことないんですか?」
「ない、ですけど」
あんたは二〇四号室の住民じゃないから怖く感じるだけなんだよ。人の生活にどうこう口出しするな。
「問題なく暮らせています。大丈夫です」
「いや、そんなはずは、前の人は半年足らずで出て行ったのにっ」
「お仕事とか私生活で事情があったんじゃないですか」
「……確かに。あはは、そうですよね。何でそんな考え思いつかなかったんだろうな、僕。ああ、そうだ。これ」
保坂さんは手に提げていてレジ袋を差し出す。
「初めて直接渡せましたね、良かったです」
中身は昨日とフレーバーが違うチョコ菓子と折りたたまれた便せん。
「あ、手紙は僕がいないとこで読んでほしいな。素直な気持ち書いちゃったから恥ずかしいんですよね」
照れたように笑う保坂さん。
「あれ、どうしました? もしかして、そのお菓子お嫌いでした? 前食べてらしたからすっかり好物なのかと思ったんですけど」
「あなただったんですか、この袋」
「そうですよ。――あのう、昨日の手紙読んでいただけました? 二〇四は何が起きてもおかしくないので、何かあったら僕を頼ってほしいなーって思ってああいう風に書いちゃったんですけど」
「気持ち悪いです」
「えっ?」
「私の部屋より、あんたの方がよっぽど気持ち悪いよ」
動きを止めた保坂さんの背後から、何かがこっちに向かって飛んでくるのが見えた。触手のような長いものを風にたなびかせながら。
「お帰りいっ」
アパートの廊下の欄干越しに目が合う。邪魔な保坂さんを押しのけて、空中へと手を伸ばす。
「会いたかったよ! エリーちゃん」
エリーちゃんと初めてご対面した保坂さんはぐああああああ、とものすごい悲鳴をあげながらアパートの階段を駆け下りて行った。しょうがないか。
引き寄せたエリーちゃんの口元は新鮮な血で真っ赤。
おかしい。
それ、私の血じゃないよね?
「それ、誰の血なの」
腕を上げて長い茶髪がまとわりついた口元を指で拭うと、知らない誰かのぬるぬるした血で指が汚れた。嫌だ、何なのこれ。気持ち悪い、汚らわしい。
「うっ、うぷうっ」
エリーちゃんはえずくような声を上げ始めた。そうだよ、吐き出しちゃえ。私以外の血なんて飲むからだ。
「うえっ」
重くて硬い金属音とともにエリーちゃんが廊下の床に吐き出したもの。
赤黒い液体で汚れた、金色の小さなサックスの飾り。
ネクタイピンの細い先端が、沈みかけた夕日を受けてきらめいた。
血が大好きなエリーちゃんの口に、下品な人間の持ち物は合わない。
「マジか、エリーちゃん」
私以外の血を口にしたことは許せないけど、どうしてかな。エリーちゃんのことが過去最高に愛おしい。
あなたは私のスーパーヒーロー、いや、スーパーヒロインだよ。
「ねえねえっ、どんな味がしたの? あのゴミ上司の血」
癖のある縮れた髪を何度も撫でると、んんふふうと嬉しそうな声を聞かせてくれた。
「そっかあ、美味しかったんだ。そうなんだね」
脳みその中身はゴミみたいな味かもしれないけど、血はそれなりに美味しいのかもしれない。
「よかったねえ」
エリーちゃんはいい子だ。本当にいい子。
下山さんの死亡は「東京都H市男性失血死事件」としてテレビやネットを賑わせている。事件から一日経った土曜日の朝の現在もSNSで「全身失血死体」がトレンド入りしているぐらいだ。
下山さんは昨日の午前八時から九時ごろ、H市内の路上の血だまりのなかで死体として発見された。それじゃ出社なんてできるわけがない。司法解剖の結果、下山さんの死体は全身の血液の八割が失われた状態だったことがわかったという。犯人は捜査中だが、現場からは指紋や凶器などが一切残っていないので難航しているらしい。
当たり前だ。エリーちゃんには手なんてないんだから。
「そういえばさ、どうやってエリーちゃんは下山さんを見つけたの?」
風呂場のエリーちゃんに呼びかける。
「うううう?」
エリーちゃんはいつも通り血まみれの口をもごもごさせただけ。
「……理由なんてないのか」
エリーちゃんにはわかるのかもしれない。私が忌み嫌う人間は誰なのか、今どこにいるのか。
毎日与え続けていた血を通して、エリーちゃんの中に私の「憎しみ」や「恨み」が植えこまれていったんだ。強引に理由をつけるならそれしかない。
違うかもしれないけど、結局はそれだってどうでもいいことだ。
「だけど、エリーちゃんは本当にいい子だねえ」
保坂さんの体内から出てきたレバーのような血の塊を咀嚼するのに忙しいエリーちゃんを眺めていると、切羽詰まってひっくり返った下山さんの声が蘇ってくる。
『出てこいっ! 早く、出てこいよっ!』
もうあの声を二度と聞くこともない。
朝の八時から、保坂さんはインターホンを壊さんばかりの勢いで三度も鳴らして、私を起こした。土曜日の朝をもっと有効に使えば良いものを。つまらない人だ。
だから、ああなって当然だったんだ。
『僕からのプレゼントを気持ち悪いなんて言いやがって! ふざけるなよっ、このアマ!』
第一声は最低すぎてもはや笑えてくるレベルだった。
チェーンをかけて開けていなければ、冗談抜きで殺されていたかしれない。逆上した保坂さんはドアから振動がびりびり伝わってくるほど何度も蹴ってきた。
『生首の化け物を育ててるんだろうっ? 他の階の人にも大家さんにも言いふらしてやるからなっ、あんたは異常者だって!』
出すべきものを出すなら話は別だとかその男が言い始めたとき、チェーンを外して勢いよくドアを開けてやったのは痛快だった。突然開いたドアに額をぶつけた保坂さんを、私の後ろで構えてたエリーちゃんが喉元へ食らいつきに行ってくれた。エリーちゃんは「私の憎しみ」をちゃんとわかっているから。「私の憎しみ」はエリーちゃんの大好物だ。
成人男性の太い首だろうと関係ない。エリーちゃんはぶちりぶちりと保坂さんの首を食いちぎった。廊下に飛び散った血だってエリーちゃんが綺麗に舐めとった後に私がきちんと掃除したから、何がここで起きたかなんて誰にもわからない。
体内から血を搾り取られた後の隣人の残りかすは、入れるのに少し苦労したけど無事にゴミ袋の中。少し歩くとこの辺には山があるし、後で捨てに行けばいいだろう。二〇五住人不在に関しては、まあなんとかなる。
エリーちゃんが満足できればそれでいいんだ。
生き物はお腹がすいたら食事をする。エリーちゃんは、口にするものが私とはほんのちょっと違うだけ。それだけの話。
「ぢい、ぢい」
「うんうん、美味しいか」
私の血だけを飲む子だと思っていたのに、他の男のものも飲むようになるなんて寂しいし妬ましい。でも、この子が喜ぶなら止めようとは思わない。
それに、私の周りから邪魔者はいなくなる。
「ぐむう、ん、まあ」
「今もしかして『うまあ』って言ったの? エリーちゃん? すごいじゃん!」
無邪気に血を舐める生首がどこまでも愛おしい。
なんたって、エリーちゃんは私が生んだんだから。私の醜い憎しみが生み出して、出来損ないの血が育てあげた怪物。
私だけの怪物。
「あんまり外には行かないでね、エリーちゃん。危ないから」
「……ぎいい」
エリーちゃんは血がぬらつく口で笑った。
エリーちゃん 暇崎ルア @kashiwagi612
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