中編
『……はい、もしもし。急になんだよ?』
不機嫌そうな声が耳元で聞こえて、はっとする。
『おい、聞いてんのか? お前だよな?』
直前まで飛んでいた記憶が一気に戻る。新鮮な空気を吸うために外へ出て、今夜もドアノブにかかっていたお菓子と「僕が守りますからね」と書かれた便せんが入ったレジ袋を回収して部屋に戻った直後、兄に無意識に電話したんだった。
「……ああ、久しぶり」
『久しぶりじゃねーよ、まったく。電話したのそっちからだろ』
「あのさ、体から出た血ってほっとくとどうなるんだっけ?」
『は?』
一瞬の沈黙。
『いきなり何の話だよ、気持ちわりーな』
「ちょっと、気になっちゃって」
変なやつ、と兄が電話の向こうで舌打ちした。
「ほっといたら蒸発したりするんだっけ」
『しないよ、水じゃねーんだから。血はほっといたらついたところにこびりつくんだよ。あと、空気に触れたらヘモグロビンが酸化して変色する。中学の理科で習っただろ、ヘモグロビン』
「ああ、そんなのあったね」
血液に含まれるこの成分は、酸化による変色を起こすため、血液の色を黒とか緑にするらしい。
「そっか、じゃあ私のがおかしいんだ」
『……お前さ、さっきから本当に何の話してんだよ。悪いけど、オレも忙しいんだよ』
「そうだよね、ごめん。またね」
逃げるように電話を切る。どうでもいいことで兄を振り回してしまった。そうだよね、普通の人間はこぼれた血を放っておいたりなんかしない。すぐに拭いて何もなかったことにする。
頭が足りない私はしなかった。だから、彼女は血を舐めに来た。
「美味しかった?」
「うあああ」
女が大きく口を開けてうなる。尖った歯がある口の中で糸を引いた、鮮血の混ざった唾液。
出来損ないの私の血は美味しかったのかも。床に飛び散った血は、彼女がすごい勢いで味わってくれたことの証なんだ、絶対そうだ。
その日から彼女は私の同居人になった。狭いお風呂場の真ん中が彼女の居場所。彼女が来た夜に身体(髪?)を洗ってあげたら、死体の匂いの代わりにシャンプーの良い匂いがするようになって、血とか汚れが落ちて一時的には綺麗になった。元の顔立ちははっきりしていて、目も二重の別嬪だ。メイクしてあげるとさらに可愛くなるかもしれない。首元についている傷跡だけは痛々しくて、目もあてられないけど。
エリーちゃんに、毎日手首を切って血をあげるのが私の日課になった。血をあげていると貧血になってくるから、食べる量も自然に増えた。お昼ご飯は下山さんのありがたいお話を聞くことも多くて食べられないことも多いけど、夜はたくさん食べる。
「美味しい」という言葉を覚えたのか、彼女は「ぼいぢ、ぼいぢ」と言いながら私の血を飲むようになった。私の掌に舌をつけて、ぴちゃぴちゃぴちゃって。飼い主の掌からミルクを舐める子犬とか子猫みたいでたまらなくかわいい。
ペットとか飼ったことないけど、きっとご飯を食べる姿はこんなにかわいいんだろうな。私は何の役にも立たない底辺の人間だけど、彼女にこうして血をあげるために生きなければいけないと思ったら、生きる気力みたいなのが湧いてくる。
時間が経っても変色しない不思議な私の血は、洗面器の中に残って、エリーちゃんがつかるお風呂になった。洗面器はエリーちゃんへあげることにして、私が使うのは明日あたり百均で買ってこよう。別になくたって平気だし。
血のお風呂って言えば、村娘たちの生き血を飲んでた中世ヨーロッパの貴族、エリザベート・バートリー。そうだ、この子の名前はエリーにしよう。名無しだった私の同居人の名前はその日から「エリー」になった。
唯一困ったのは、最初に切った左手首をずっと切っていたら傷跡がぶくぶくと膨らんで気持ち悪いことになってきたこと。途中から右手首を切ることにしたけど、ここもダメになったら今度は足を切ればいいんだろうか。
その日はなぜか下山さんが出社しなかった。ひどく怒られることなく一日過ごせたけど、違和感は最後まで抜けなかった。書類のミスもなかったし、他の上司から言葉の指摘をされることもない穏やかな一日。
帰ってきたら風呂場が空っぽだった。換気用のために開けておいた窓の窓枠に茶色い髪の毛が何本かへばりついていただけで、髪の毛の主はいない。エリーちゃんがいなくなるぐらいなら空気の入れ替えとか優先すべきじゃなかったのに。
どうして、どうして、朝はいたのに。
三日前からプルーン入りのドリンクを毎日飲んで鉄分補給をしていたから、これならたくさん血をあげられるかなあ、と楽しみにしていたのに。
「ねえ、どこ」
玄関のドアを勢いよく開けたら、うわっと声がした。あの子の声じゃない。
「……びっくりしたあ」
二〇三号室前で引きつった笑いを浮かべていたのは、スーツ姿の保坂さんだった。
「すみません、け、怪我とかなさってませんか」
「僕は、全然大丈夫です。あ、あの」
部屋に戻ろうとすると、保坂さんは私を呼び止めた。こんなとこで話をしてる暇なんてないのに。
「何、ですか?」
「この部屋、何て言うか、気持ち悪くないですか?」
なぜか保坂さんは、声を潜めて周りをきょろきょろと見た。誰かの視線を気にしてるみたい。
「気持ち悪い?」
「もしかして、お部屋借りるときお聞きになってないんですか?」
何の話をしたいんだかさっぱりわからなかった。
「……あー、そうですか。僕が言っちゃってもいいのかな。この部屋、過去に殺人事件があったんですよ」
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