エリーちゃん

暇崎ルア

前編

 人間はX染色体とY染色体の二つの組み合わせからしかできない単純な生物だ。それでも多種多様な奴らが生まれる。これぞ生命の神秘。

 たまにバグが起きて残念ながら、私みたいな出来損ないだって生まれてくる。

「なんでこんなこともできないんだよ。お前今何歳だ?」

 今日の午後、作成した書類で「誠に」を「真に」と誤変換して提出した私に上司の下山さんが怒鳴った言葉。

 こんなんじゃ、下山さんのネクタイを彩る金色のサックスのネクタイピンを投げつけられてもしょうがない。ピンの先端が当たった右の頬は、どうしてだか退勤した後もずっとずきずきと痛んだ。

「お前ほど無教養なやつ見たことないよ、俺は」

 敬語の使い方が正しくなかったから。

「何でお前みたいなのろまが雇われたんだろうな? うちの会社に」

 作業のペースが遅かったから。

「親もお前みたいな馬鹿なんだろうな」

 これは何で怒られたんだっけ。忘れてしまった。でも、私は何か下山さんの気に引っかかるような何かをしたんだ。馬鹿でのろまで使えない私は何をしたのかすら忘れてしまった。こんなだから怒られるんだ。

 退勤時間の十七時を大いに過ぎた二十一時に帰宅する。仕事が進まなければ残業をするのは当たり前だ。

 築十五年のアパートの二〇四号室の丸いドアノブにレジ袋が引っかかっていた。中身は有名なチョコ菓子と「愛しています」と几帳面そうな字が一言書かれただけの赤い薔薇柄の便せん。月三万円という格安物件の代償なのか、おかしな住人も近くにはいるようだ。

 玄関を合鍵で開けて「ただいま」と言ってみても誰もいない。一人暮らしなんだから当然だ。しいんとした暗闇の中、リビングまで続く暗い廊下が伸びているだけ。

 冷蔵庫にあった残り物のご飯は温めても冷蔵庫の匂いがとれなかったし、昨日買ったばかりでちゃんと冷蔵していたオクラのサラダは一口かじったら傷んでいた。でくの坊が美味しいご飯にありつけるわけない。

 掃除をした翌日からまた新しいカビが巣食い始めるような風呂場の浴槽に浸かっているとき、いいことを思いついた。

 手首にカミソリの刃を刺せばいいんだ。

 出来損ないの私を作っているのは血。少しでもそれが身体の外から出て行けば、私だってまともになれるかもしれない。

 洗面所からカミソリの替え刃を取ってきて、左手首の脈に沿って刃の角を当てて、すうっと縦になぞってみる。鋭い痛みと一緒に、血管を隠している皮膚が裂けた。ぼたぼたぼた。白い洗面器が真っ赤な鮮血を受け止めてくれた。

 血が流れ続ける手首を指でぐっと押してみた。うまくいった。血がどんどん出ていって、洗面器一杯に血が溜まっていく。トマトスープみたい。もっと悪い血が出て行きますように。

 貧弱な私の身体は貧血気味になったのか、軽く眩暈がし始める。

 ふらつく視界が、上から落ちてきた何かを捉えた。

 濡れた床にふわりと落ちたもの。一本の長い茶色い髪の毛。おかしいなあ、私の髪はショートなのに。色だって染めたことないよ。

 見上げた真上の換気扇から、誰かの目がじっとこっちを見ていた。

「うわあっ」

 情けない声が風呂場の天井に反響する。隙間から覗かれていたんだ。

 そもそも素っ裸で何やってたんだろ。

 恥ずかしくなって浴室を出た。血が止まらない傷口に包帯を巻いて寝た。


 身体から悪い血を出しても、私は何も変わらなかった。変わるわけがない。昨日の私がどうかしてたんだ。

 朝包帯を取り換えた手首の傷を抱えながら、仕事に就く。そして、犯した過ちを今日も増やした。

「お前はまともな文章を書くことすらできないのか。よくここまで生きてこれたな。義務教育はちゃんと受けてきたのか? そこいらの中学生の作文の方が読みやすいんじゃないか?」

 ふはっ、と下山さんが鼻で笑った。

『ミーティングは来週、六月十三日・火曜日の朝十一時からとのことです』というわかりづらいメールを送り、下山さんを勘違いさせて六月六日の今日、会議室に無駄足を踏ませてしまった私が全部悪い。

 同期も他の上司も昼休みに入って人がいなくなったオフィスの中で私と下山さんだけが残り「反省タイム」に突入だ。私と入れ替わりで彼の休憩時間になるまでの一時間を使って。本当にありがたい先輩だ。

「いいか、お前の直すべきところを教えてやる。全部メモして改善するんだぞ」

 わかりました、ありがとうございます、と笑顔で返すことができたから下山さんは満足そうだった。そして「私がどれだけ使えないのか」「私の存在がどれだけ下山さんを不快にさせているのか」を丁寧に説明してもらい、一言一句丁寧にノートに書きこんだ。私は馬鹿、のろま、今変わらないといつまで経っても再利用すらできないゴミ屑。本当にその通り、消えてなくなってしまいたい。

 その日の夕方は七時までの残業で帰ることができた。けど、アパートの玄関を開けたら変な匂いがしたから足が止まる。

「こんばんは」

 二〇五号室前で同年代の男性が、ドアに鍵をかけるところだった。

 保坂さん。仕事帰りの部屋前や、休日に近所の公園のベンチでお菓子をかじりながらぼーっとしていたときとかに何度か会っただけの隣人。コンビニにでも行くのか、トレーナーとジーンズというラフな格好をしている。

「お仕事帰りですか、お疲れ様です」

「おつかれさまです」

「お一人暮らし、ですよね。大変じゃないですか?」

「まあ、なんとか」

 鼻の神経に集中していたから、生返事になった。

「何か困ったことあれば、いつでもおっしゃってくださいね。僕で良ければ、相談に乗るので」

 最後までにこやかなまま、保坂さんは去っていった。

 生ごみは昨日出したから、絶対にありえない。昨日傷んでたオクラのサラダはとっくに生ゴミとして朝に出した。何だろう。

 手を洗おうとした洗面所で強い匂いが漂っていることに気づく。

 開きかけたドアの隙間から除く、茶色っぽい何か。

 浴室の床に点々とついた真っ赤な雫たち。

 一気に開けると、鉄の匂いがむわあっと鼻をつく。匂いの元はここだ。

「ああ、おああ」

 それは、ぎょろりとした目で私を見上げていた。春頃になって発情した近所の猫がこんな声で鳴いてたなあ。

 血の溜まった白い洗面器を陣取っていたのは、私の倍はありそうな長い茶髪の女の首だった。海中に漂う海藻みたいに、髪が風呂場の床を覆っている。

 臭い。小学生の頃よく遊んでた公園の大きな木にある日、ロープでぶら下がってた男の人からしたのと同じ匂いに加えて、血の生臭い匂いが混ざってる。

「何してんの」

「あああ」

 女はぴちゃぴちゃと音を出しながら血まみれの唇を黒ずんだ舌で舐めた。

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