おれはひどく悲しくなった
太刀川るい
第1話
以下の文を読んで、その内容をもっとも適当に表している選択肢を選びなさい。
「ゴミをポイ捨てしている人がいた。私はとても悲しくなった」
①筆者の感情が変化した。
②モラルの無い人に虚しさを感じている。
③ゴミのポイ捨ては悪いことである。
④読者がゴミを捨てていることを非難している。
おれは、選挙のときなんかに使うプラスチック製のちゃちな鉛筆もどきを手にとると、少しの間考え込んだ。
丸ゴシック体で印刷された問題文はこれ以上無いぐらい簡潔で、どこにも逃げ場はない。ちらりと、目線を上げると、担当のカウンセラーと目があった。
「直感で答えて。考えなくていいから」
「②、ですか?」
恐る恐る答えると、カウンセラーの表情はぴくりともしない。どうも違ったらしい。カウンセラーは、少し間を開けると「なぜそれを?」と訊いた。
「なんとなく、これかなって」
「うーん、その考え方自体は悪くないです。でも、もう少し注意して読んでみてください。そこに、そんなことは書いてありますか?」
明らかに誘導するような口調のカウンセラーに、おれは小学校の頃の担任を思い出した。自分が絶対に正しいと心から信じ切っている善人だった。
おれは観念すると、答えた。
「……①」
「そうですね。その通りです。この文で言っていることって、実はそれだけの内容なんですよね。でも人間はそこから書いていない意図を汲み取ってしまう」
「でも、②も普通に考えたらこうなると思いますけれども」
無駄だと分かっていても、とりあえずは反論してみる。
「ええ、そうかもしれません。でもその内容は書いてない」
「②を読み取ることは間違いだということですか?」
「いいえ、読み取ることは自由です。でも書いてない」
「でも、ほとんど書いてあるようなものでしょう!」
「書いてありますか? どこに? 具体的にお願いします」
「……いいです」
おれは諦めた。
壁際の水槽のろ過器の音が静かに響く。カウンセラーは、息をふうっと吐くと、続けた。
「繰り返しになりますが、②を読み取ることは自由です。実際の所②である可能性は高いでしょうね。
――でもそれは確実ではない。例えば、モラルのない人自体に落胆しているのではなく、自分の土地に捨てられるのが嫌だったとか、そういう解釈も有りますよね」
「それこそ書いてないじゃないですか。勝手な前提だ」
「ええ、そうです。でもそれって②の選択肢も同じじゃないですか? 今の話と②の選択肢、どちらも本文には書いていない」
おれは口を閉じて視線をそらした。やっぱり言わなければよかった。
カウンセラーは、おれの頭の中を見透かすようにじっと見つめると、告げた。
「気分を害されたらすみませんが、大事なことなんです。そういった考えや感性は、役に立つこともある。例えば小説を読んだり詩を解釈するためには大事になってくるでしょう。でもそれは、芸術の鑑賞の話であって、国語の話じゃない」
おれは答えずにじっと床を見る。でも、それが国語だったんじゃないですか? という言葉を飲み込んで。
「……あなたの話は興味深いですよね。ある日気がつくと、世界が全く違っていた。元いた場所では……」
「いいでしょうその話は。おれがおかしかったんです」
苛立ちを声に出しながら俺はカウンセラーを遮った。しかし、彼女は意に介さず喋り続ける。
「いいえ、興味深いですよ。あなたが元いた場所では、②が正解だったと」
おれは沈黙で答える。
「この間の話の後、私の方でも調べてみたんですよ。確かに、あなたの言うような教育が行われている時代はありました。仮にそのまま教育が今まで続いていたら、あなたの言うように、②が正解になっていたのかもしれない。
でも、わたしたちはそれを選ばなかった。人間は行間を読み取る能力があります。でも、それは誤解や間違いを生み、トラブルの元になる。だから、私達はそれを訓練で克服する道を選んだ。つまり、文中に書いていないことは、決して読み取らないこと。読み取っても無視すること。感情を勝手な思いで類推しないこと。読み取って欲しい感情があるなら、それをきちんと伝えること。
それが最も円滑にコミュニケーションを取る方法だと、そう考えたから今社会はこうなっている」
「じゃあ、先生は、今おれが何を考えているのか、わからないっていうんですか?」
「いいえ、そういう話ではないですよね。なんとなくは解ります。
でも、勝手にそれを類推するのは、すごく失礼なことだと思いませんか?私の勝手な考えで他人の心を想像するのは、恥ずべき行為です。だから私は言うんです。わかってほしいなら、言いなさいと」
そういうと、カウンセラーは足を組み直した。
次回の約束をして、クリニックを出ると、駅で電車を待った。街も、道も、この駅も、何一つ変わっていない。変わったのは人だ。
ある日ふと気がつくと、もうそれは変わっていた。夢のなかでそこが夢だと気がつくように、突然に異変に気がついたのだ。いつから変わっていたのか、答えられないほど自然に全てが変わっていた。
隣のホームに電車が滑るように入ってきた。例えば……あんなふうに、違うホームの電車に間違えて乗り込んでしまったように……違う世界に迷い込んでしまったのだろうか。いや、これは考えすぎか。おれはおかしくなって、勝手に存在しない記憶を作りあげたのか。おかしいのはおれか、それとも世界か。
カウンセラーは言った。
「あなたの考えは間違っているわけではない。ただ、今の社会がそれを選ばなかっただけ」
ホームに電車が入ってくる。ドアが空いて、おれは足を踏み入れる。
おれはひどく悲しくなった。
おれはひどく悲しくなった 太刀川るい @R_tachigawa
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