下
私は今、主人が紹介してくれた産婦人科の専門病院にいる。真冬あの日から時は経ち、秋もだいぶ深まってきている。外では秋の虫のコーラスが聞こえる。残暑が厳しいと言っていて、時々見舞いに訪れる夫は汗をかきながらやってくるが、この病院は常に一定の室温に保たれている。
毎日快適に過ごしていることが、後ろめたい気分になることさえあるくらいだ。夫は見舞いの度に私のお腹を見て笑顔を見せ、「ここの病院なら僕がいなくても安心だから」と、この病院を高く評価していた。お腹はもう既に大きくなって、重くなっていた。そのおかげで肩こりも腰痛もひどかった。赤ちゃんの性別はまだ分かっていない。今は簡単に性別が分かるので医師に勧められたのだが、私たち夫婦はそれを見ないことにした。それは生まれてから分かった方が、楽しみが増えるからだと、夫は言った。いつもは合理的な判断を下す夫が、急にそんなことを言いだすので、私は驚きと同時に夫のことがかわいらしく思えた。
私の女の勘では男の子なのだが、夫が言うように産んでからの楽しみの一つとして取っておく。つわりはひどくなかったが、炊きたてのご飯だけは湯気と臭いが駄目だった。陣痛や胸の張り具合はひどい方だと言われた。
産婦人科に入院して普段通りの生活を送っていたある日、私は突然破水した。初めてのことに私は軽くパニックを起こした。破水したらすぐに生まれると思ったのだ。気付けばナースコールを握りしめていた。激痛が全身を貫く。痛みをこらえるために声がもれ、呼吸が荒くなって、空気が上手く吸えない。まるで水に溺れたかのようだ。額には油汗がにじんで、濡れた髪の毛が大量に皮膚にくっついていた。
「息、楽にして。吸って、吐いて」
看護婦と助産師の方に手伝ってもらって、ようやく呼吸ができるようになった。ストレッチャーに乗せられて、分娩室に入る。薄暗くて少し肌寒かったが、そんなことを気にしている余裕はない。大きく肩で呼吸をしながら、その合間に獣の唸り声のような声が出る。子宮の出口が内側から圧迫されて、今にも股が裂けそうだ。私は薄い掛布団を強く握りしめ、叫び声を何度も上げた。汗は玉のようになって次々と流れた。もうこのまま私は死んでしまうのではないか、と思った時、医師が叫んだ。
「赤ちゃん頑張ってるよ! もう少しだから頑張れ!」
(そうだ。今私は一人で苦しんでいるわけではない。何を勘違いしているんだ)
そう思って、もう一度大きく力んだ。すると股の間から何かがズルリと抜け落ちて、失神しそうなくらいだった痛みが、嘘のように消えた。目じりに涙が浮かび、呼吸は荒いままだ。私は、これで子供を授かったのだ、と思った。しかし、分娩室には音がなかった。誰もが緊張して、私も急に不安になる。もしかして赤ちゃんは、生きて生まれてこなかったのだろうか。母と同じように、流産してしまったのか。
長かったのか短かったのか分からない沈黙を破ったのは、大きな泣き声だった。その声は、世界に朝を告げるファンファーレのように四角い部屋に響き渡った。分娩室は安堵と幸福に満ちた空気に包まれていた。私は鳴き声を聞いた瞬間に号泣していた。
(生きてる!)
そう思った私は、やはり自分の気持ちを形容することができなかった。看護婦さんは「元気な男の子ですよ」と言って、生まれたばかりの子供を私の胸の上に乗せてくれた。私の胸の上でばたつかせているその小さな手足は、確かに私のお腹の内側から蹴ったり叩いたりしていたものだ。ずしりとした重い体の中からは、小さいながら力強い鼓動が私の心臓にまで届いた。この小さな命は、もう自分の鼓動で生きてるのだ。
(ああ、何て重いのだろう。これが命の重さか)
「会えて良かった。おめでとう」
私は泣きながら、そっと壊れそうな赤ん坊の頭を愛撫した。まだ汚れが取り除かれていなかったし、しわくちゃだったし、お世辞にもかわいいとは言えない。しかしそれが何故かとてつもなく尊いものだと思えたし、たまらなく愛おしかった。御来光のようにこんなに神々しく輝いているものは、他に見つからなかった。私は私を生んでくれた母に感謝し、母が私を生んだ時の母の気持ちや、流産してしまった時の母の気持ちが、この子のおかげで理解できる気がした。この小さくて大きな奇跡には、父親が本当は誰であろうが関係ないのかもしれない。この命の誕生は、世界から祝福されているのだから。
母は生まれて来たばかりの子供の幸せを願う。でも赤ちゃんは、親を選ぶことはできない。だから私のママは「カッコウの巣」の母親になったのだ。子供たちが本当の親を選び、あるべきところへ帰って行けるように。
「ありがとう」
私を母親にしてくれて。私のところに生まれて来てくれて。そして、私に母親の気持ちを教えてくれて、本当にありがとう。
<了>
『カッコウの巣』 夷也荊 @imatakei
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