エピローグ

 今日も夜の八時半ちょうどに電話が鳴った。パジャマ姿の幼い花はすぐさまテレビを見るのを止めて、電源を切った。滑りやすいフローリングを走って、花は素早く受話器を手にした。


「戸田です」


 花ははきはきと大きな声で自分の名字を言う。


「花? 元気にしてた?」


 良い子にしてた? ではなく、元気にしてた? それが明美がいつも花に投げかける言葉だった。そんな母のことが花は大好きだった。現在、花に父親はいない。だから母親には嫌われたくなかった。花は今、母方の祖父母の家で暮らしている。母の「仕事場」からは電車か車で移動しなければならないほど遠い。


「元気だよ。ママは?」


 花はなるべく明るく元気のよい声を心がけている。明美もきっとそのことに気付いているのだろうが、言葉には出さない。花の幼いながらの努力を、無駄にしないためだ。花は明美が流産して泣き狂った日々を知っている。前は何故母が泣くのか分からなかったが、今の花になら分かる。だから、二度と母が泣かなくてもいいようにするためなら、「寂しい」とは言わないし、「会いたい」とも言わない。虚勢なら、いくらでも張ることができる。


「ママは今、とっても元気で幸せよ。花のおかげだね」

「花も!」

「今日から花と同じ名前の子が来るのよ」

「本当?」


 花は相変わらず明るい声を出していたが内心では、「もう一人の花」に怯えた。もしかしたら母は自分ではなく、もう一人の花ちゃんを気に入るかもしれない。そうしたら母は、自分のことはすっかり忘れてしまうかもしれない。その花ちゃんに、母親を盗られてしまうかもしれない。もう本当は自分はいらなくなってしまうのではないか。そう花は危惧した。


「向田花ちゃんっていって、花と同じ歳よ」

「そっか。分かった。ママ、お仕事頑張ってね。花もお爺ちゃんもお婆ちゃんも、皆ママの味方だから!」


 花は再び不安や寂しさ、嫉妬や怯えを隠す。もう母の泣き顔は見たくなかった。だからどんなことがあっても、花は母の味方をすると決めていた。

幼い私は、母に寂しさや怒りがあっても、それを消して外には出さなかった。そうしていれば、誰かが私を褒めてくれたからだ。だから私はいつも一人で、自分の子供より他の子供を優先する母への不満を抱えていなければならなかった。


 母は、私のことが好きではなかったのだろう。だから私を祖父母の家に預けて帰ってこないのだろう。私より、他の子の方が大事なのだろう。そう思っていた。

 

 この子を産む、その前までは。

 




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