37.苦しい

「ねえ、あなた。大事な話があるの」


 震えた声で、私は夫に話しかけた。下腹部に沿えた私の手を、夫は凝視している。私は意味ありげに微笑し、頬を赤く染めた。そして下腹部をゆっくりと愛撫しながら、目を閉じてうなずいた。


「まさか……」


 夫は読もうとしていた新聞を無造作にテーブルの上に置き、まどろんでいた目を大きく見開いた。そして、ゆっくりと息をのむ。夫の口角はもう既に上がっていた。私も別な意味で息をのんだ。


「赤ちゃんが、出来たみたい」


 言った。言ってしまった。私の頬を涙が伝う。心の中で何度も夫に謝った。しかし私に残された道は、もう一つしかなかった。「お兄ちゃん」に言われた通りにすることが、赤ちゃんの一番の幸せだと願うしか、なかった。そう思って私は涙を禁じえなかった。その涙を夫はうれし涙と勘違いをして、大喜びで私を抱きしめた。タバコを吸わない夫の肩からはほのかに柔軟剤の香りがした。夫の体温で温められた私は、これが幸せというものであると感じていた。


「ありがとう、花。僕もこれで父親だな」


 夫の声は今までに聞いたことがないくらい高いトーンになっていた。まさに喜びを爆発させている。興奮が抑えきれないといった様子だ。いつものように冷静に話す夫の姿は、どこにもなかった。


「田嶋さん、苦しいです」

「名前は二人で決めような。それより、性別が先か? それもそうか」


夫は私の訴えを無視して、私を強く抱きしめ続けた。思い出したかのように何かをささやいて、また抱きしめた。この繰り返しだった。


(ごめんなさい)


私は心の中で繰り返した。正直に言えば、私は初めて夫を恐れた。夫は医師の持つ慧眼で、すぐに子供が自分の子供ではないと言って、私を断罪するかもしれないと思ったのだ。そしてそうした場合、私は一生をかけて夫に贖罪していこうと決めていた。それに加え、私が母親になってもいいのかという想いもあった。不安定で自傷してしまうような自分に、子供を預けてしまってもいいのかと、戸惑っていた。

それでも私の帰る場所はここにある。全てが偽りだったとしても私はきっと、もう許されている。


 その後、田辺隆一はあの時話していた通り、再び警察に呼び出された。死んだ母親の体内から、睡眠薬の成分が検出されたらしい。薬の管理をしていたのは隆一で、母親一人では薬が飲めなかったことが決め手となったらしい。隆一は「酔い止めの代わりだった」と答えているという。そして殺意に関しては、全てに「分からない」と答えているらしい。自分に殺意や怨恨があったのか、もうなかったのか、それすらも分からない、と。


 実のところ、私も分からなくなってしまった。こんなに喜んでいる夫が、もしも真実を知ってしまったら、私とその子供を夫はどうするのだろうか。その時、私は具体的にどうすればいいのか。今でも不安や恐怖からは逃れられない。ただ、今は幸せかと問われれば――。



「そうかもしれない」




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