36.事実

 その言葉はまるで突然降ってきた硬質な物質のように、私の無防備な頭を打った。そして妙に間延びしていた。


「向田花は、十八歳の時に、明美さんの後を追って自殺しているんだ」


 今度は私に言い聞かせるように、男はゆっくりと息を吐く。そしていつの間にか強い光を瞳に宿して、私に迫った。男の中で何かが変わったのだ。不確定要素が確信に。そしてその確信が決意に。男は深く息を吸った。


「君の旧姓は戸田だね?」


 私の呼吸は一瞬止まり、目が大きく見開かれる。高い音で、耳鳴りがした。まるで耳が次の言葉を受け入れるのを拒否しているかのようだ。


「戸田花。それが君の本当の名前だね?」

「な、何を言って……?」

「明美さんの一人娘が、君だよね?」

「明美ママは、流産してるから『カッコウの巣』を……」


 私の声は震えて、重要な部分で裏返り、最後まで言葉を紡ぐことができなかった。その言葉を引き継ぐかのように、男は続けた。


「俺たちのことが憎かったんだろ? そうだよな。大切な一人娘だったのに、母親は他の子供にばかり気にしていて、自分は置いてけぼりだもんな。しかも、流産をきっかけに昼夜問わず働き始めて、君には目もくれないんだから」


 私の体から力が抜け、心に蜘蛛の巣状にひびが入る。廃車にした「事故」の時の車のフロントガラスを思い出す。ここはあの現場ではないのに、白いベッドに真っ赤な血が浸み込んでいくという錯覚が起こった。


「俺と花は、明美さんを君から取り上げていたんだ。まさに、カッコウのヒナみたいに。そして俺は文字通り、君から永遠に母親を奪った女の息子だ。本当は俺じゃなく、君が復讐者だったんだな」


 今度は私が頭を抱える番だった。


「本当に、申し訳ございませんでした」


 男は私に向かって床の上で土下座した。もう何も戻っては来ないのだ。花は男の土下座を見てそう思った。死んだ人は生き返らない。壊れたものは元通りには直らない。失ったものも、消えたものも、もうこの手には戻らない。つかの間の安息も、偽りの幸せも、全ては夢幻。愛した記憶でさえ白昼夢だった。


「謝らないでよ‼」


 私は泣きながら叫んでいた。まさか、全て見抜かれていたなんて。いつからこの男は私の正体に気付いていただろう。今考えれば男は出会った瞬間に私が「妹」でないと、分かったのかもしれない。そして私を受け入れたのは結局、それが私の復讐だと思ったからだ。男は初めから私の復讐を受け入れたのであって、けして私そのものを受け入れたのではなかった。


「どうしてあなただったの? どうしてあなたみたいな善人が……、私からママを奪った人の子供なのよ⁈ 『妹』の花さんまで失って、憔悴しきっていて、疲れ果てていて、そんな人が、どうして私の復讐対象だったのよ⁉ よりによって、この子の父親があなただなんて‼」


 子供のように泣く私の手を、男は優しく包み込んだ。他人をひき殺しておいて、謝罪の言葉も口にしなかった。そんな女の息子ともなれば、きっと不躾で軽い男だと思っていた。その息子は、明美のことも忘れて飄々と生きているに違いない。そう思えばこそ、恨むことができた。それなのに、実際に出会った男はまるで世間にあふれる不幸を一身に背負って、今にも自殺してしまいそうなくらい脆弱に見えた。それは母を亡くしたばかりの私と重なって見えた。


「君は優しい、いい子だ。だからお願いだ。その子は、田嶋さんと一緒に、彼との子供として育ててほしい」


 私は男の顔をすがるように見上げたが、男の瞳の中の強い光に負けて、横に振ろうと思っていた首を縦に振った。私は何度も何度も、うなずくことしかできなかった。悔し涙とも取れる涙が、何度も私の頬を伝った。心のどこかで、こうなることは分かっていた気がする。ただ私は「お兄ちゃん」に甘えたかったのだ。他の誰でもなく、「お兄ちゃん」に退路を断ってほしかった。


「たぶん、俺はもう一度警察に厄介になると思う。だから君とも、もう会えないよ。この子の母親に犯罪者の知り合いがいるなんて、教育上よくないからね。さようなら。そして、本当にごめん」


 「お兄ちゃん」は私の前から姿を消した。私はまた、大切な人を永遠に失ったのだ。


 ベッドの横の大きな鏡には、まだ幼い頃の私と「お兄ちゃん」が映っている気がした。


 男は眉間に深い皺を刻んだまま私を見つめ、部屋を出て行った。静かな部屋にドアが閉まる音だけがやけに大きく響いた。





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