七章 田島花

35.存在の否定

 私はトイレで、カレンダーに向かい合っている。淡い緑色のキャラクターカレンダーには、小さく印がついていた。今月もその印をつけなければならなかった。しかし、本来つけるべきものがまだ来ていない。生理が止まっている。


 換気扇の隙間から冷気が忍びこんでくる。その音は猫が背中を丸めて威嚇する声に似ていた。自宅と夫が勤める病院はすぐ近くにあり、どちらも床暖房になっていた。私は長い間同じ姿勢でカレンダーを見つめていたため、足が痺れていた。そして床暖房で温かいはずの足元は冷えているように感じた。体全体の血の気が引いているのだ。それなのに、下腹部だけが熱を持っている。ただの生理不順ではないことは、直感的に分かっていた。おそらく、私のお腹に新しい命が宿ったのだ。問題は誰にこのことを最初に話すかである。いや、誰にではない。どちらに、だ。今日も夫は仕事で家にはいない。帰りも遅くなると言っていた。


 私は、まさか自分があの男を好きになるとは思っていなかった。男はいつまでも、どこまでも、「お兄ちゃん」なのだと思っていた。それなのに私は、あの「事故」の時、地吹雪の中で会った男を、一人の異性として見てしまった。つまりは、恋愛の対象としてとらえていた。愛おしいという気持ちが内側から湧き上がり、好きだという気持ちが抑えきれなかった。


 そして計算すればするほど、はやりお腹の子供の父親は男の方だった。夫の血液型はA型で、男の血液型もあの几帳面さから推測するには、おそらくA型だろう。だから、夫に夫の子供として報告することもできた。しかし私にはそれができなかった。だから私はホテルに向かったのだ。男のもう一度会って、ちゃんと話すつもりだ。男も子供の存在を知れば、私の気持ちに応えてくれる。私は何の根拠もなく、そう信じた。


 明美ママを殺した女の子供として男を恨んだことさえあったのに、それが一瞬にして愛情へと変わったことは、私自身にとっても驚きだった。何故か私は「お兄ちゃん」と再会する直前に見た、対向車線の除雪車を思い出していた。重くて締まった雪は人の命すらあっさりと奪う。都市部では時にロマンチックに語られる雪は、ここでは恐ろしい殺人犯であり邪魔者だ。それを自らの中にかき込んで砕き、上から排雪する除雪車は道を作る。今もカーテンを開ければ、数台の除雪車を眼下に見ることができるだろう。


 結局私は、男と再びホテルの一室で会うことにした。いつもの部屋のベッドで一人で座っていると、下腹部がじんわりと温かく感じる。不思議だ。まだどのような子供かもわからない未知の生き物に対して、私はもう母性を感じている。お腹の子供が、愛おしくてたまらないのだ。これが、母親になるということなのだろうか。私の母も、今の私と同じように、まだ見ぬ我が子へ想いを馳せて笑顔になったり、落ち着かなくなったりしたのだろうか。不安と喜びが大きな波のように押し寄せてくる。こんな感情を抱いたのは初めてだった。思い返してみれば、最近の私の食事量は増えていた。そして食への妙なこだわりが強くなった。産地にこだわってみたり、スパイスに凝ってみたりした。特にカレーが無性に食べたくなる。そのせいかいくら間食を取らないようにしていても体重は増えていた。二人分の体重になったのだから、当然と言えば当然だった。




 やがて、ドアをノックする音が聞こえた。ドアスコープで男を確認し、鍵とチェーンを外す。男は部屋に入って来るなり、私を気力の失せた目で見つめた。まるで人生を諦めたかのような瞳は、雪を降らせる曇天を彷彿とさせた。


「話って、何?」


 抑揚のない言葉が、私の体に満ちていた温かさを奪っていく。私の態度と表情がいつもと違っていたから、男は緊張と警戒の色をにじませている。私は一拍おいてからはっきり言った。


「赤ちゃんが、できたの」


 男の顔が見る見るうちに強張っていく。驚愕と失望。もしくは嫌悪と絶望。それらに男の顔は歪み、苦虫をかみつぶしたかのように言う。


「それって、もしかして俺の……?」


 私は大きく無言でうなずく。男はまるで不吉で珍しいものを見るように、私のお腹を見つめた。そして途方に暮れたかのように、深く溜息を吐く。


「話って、それか?」


 どさり、と音を立てて男は新雪のように真っ白なベッドに座った。姿見用の大きな鏡が男の苦悶に満ちた表情を映す。そのすぐ横に、私の後ろ姿も映っていた。男は大きく首を振った。そして何度か頭を抱えるようなそぶりを見せた。膝に肘をつけて、男は考え込んでいた。しばらくして男は泣きそうな顔で私に言った。


「結論から言うと、俺はその子を認知できない。ごめん」

「どうして? 私なら平気よ。離婚も覚悟の上だもの。私と『お兄ちゃん』が夫婦になれば、何の問題もないでしょう?」

「それじゃ駄目なんだよ!」


 男は本気で私に腹を立てているようだった。


「俺は明美さんも、実の母親も殺したんだぞ? 事故だってことになっていても、俺が二人を殺したも同然なんだ。俺は、殺人鬼なんだよ! その俺が、殺人鬼の俺が、子供を幸せにできるかよ⁉」


 私はお腹に震える両手をあてた。


「私は、絶対『お兄ちゃん』の子供を産むわ。中絶なんて、絶対しない!」

「それは、その子は、田嶋家の赤ちゃんだ」

「違うわ! 田辺家の赤ちゃんよ! 私と『お兄ちゃん』の子よ‼」

「いい加減やめてくれよ‼」


 私の声をかき消すように、男は叫んだ。部屋がしんと静まり返り、まるで水底に部屋ごと沈んでしまったかのようだ。それはグレーの絨毯が敷き詰められた床や、くすんだ緑色の壁紙のせいであったのかもしれない。しばらくの沈黙の後、男は問う。


「それとも、これがなのか?」


 ベッドに座り込んで頭を抱えていた男が、叫んだ。そしてふらふらと立ち上がり、私を死んだ魚のような目で見つめた。何も持っていない両手が、だらしなく伸びていた。


「君は、花じゃない」


 男ははっきりと言い切った。眉間に皺をよせて目を充血させた男は、やはり今にも泣きそうだった。私は一瞬声の出し方を忘れたかのように、言葉に詰まった。


「何、言ってるの?」


 私はついに『お兄ちゃん』が壊れてしまったのかと思い、恐怖を覚えた。無意識の内に私はお腹をかばう。そんな私の手を、男は凝視していた。


「確かに、君の名前は花なのかもしれない。でも、俺の知っている花じゃない」

「何それ。意味わかんない。私は花よ。田嶋花!」


 私は自分の心臓の上を叩きながら、泣きそうになった。この伝わらないもどかしさを、どう表現すればいいのだろう。私のつたない語彙では表現しきれない。


「そうだね。君は田嶋花だ。でも、旧姓は? 僕が知っているのは、向田花だ」


 悲しげに顔を歪めた男は、限りなく優しい声でそう告げた。


「そうよ。私の旧姓は向田よ。『お兄ちゃん』が知っていて当然でしょ?」



「死んでいるんだ」



私に聞こえるか聞こえないかという小さな声で、男は言った。




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