34.デパートに向かう
「何だよ、これ! これだって、あの女が勝手に書いたわがままだろ⁈」
俺は、自分は母親と違うのだと思ってきた。母は人を殺してもその罪を償うことをしなかったが、自分は自分の犯した罪を認めて償って生きていくのだと。父はまだ頭を下げ続けていた。頭が腹につくほど、深く、深く。
「やめろよ! やめてくれよ‼」
俺はついに感情が抑えきれなくなっていた。父のベッドに便箋を叩きつけ、泣きながら病室を出た。そして、父のネームプレートが掲げられた壁にもたれかかり、そのままずるずると壁伝いに座り込んで頭を抱えて泣いた。声を殺して、鼻水をすすって、目を強く閉じて。視界が黒く塗りつぶされる。父が母よりも早く死んでしまうとは、思ってもみなかった。人はいつか死ぬ。そして親は子供より早く死ぬ。何かの事件や事故、病気でない限り、それは決まっていることだ。
しかし何故、明美さんの次が父でなければならないのだ。一緒に「カッコウの巣」の面接を受けてくれた優しい父。いつも穏やかで、母の不義を知ってもなお母を愛した父。何故、という疑問だけが怒りを伴って頭の中に渦巻く。そして最後に「俺のせいか?」という疑問に行きついた。俺が疫病神的な存在だったというのなら、全ての疑問が解消される気がした。俺は生まれてくるべきではなかったのか。俺が明美さんの代わりに死ねばよかったのか。殺人犯になる前に死んだ方が良いのだろうか。
病院を後にしても、感情の整理がつかなかった。俺は予約してあったビジネスホテルに二日間缶詰めになり、泣き明かして、大学に戻った。俺が四年になる前に、父が亡くなったという報せを受けたが、自分の中でそれは消化できなかった。嘘だと思っていた。どこかで父はまだ生きていると思っていた。だから、葬式にも出なかった。薄情な息子だと言われても仕方がないと思った。
俺は学部四年になると早々に卒業論文を提出し、三年の末に始めた就職活動も終えて一番先に内定が出た会社に入社した。こんな俺を雇ってくれる企業があるなら、この際もうどこでも良かった。大手の印刷会社だったため、新入社員も多く採用されていた。俺は全てを忘れようと、がむしゃらに働いた。去って行った仲間や友人。母への憎悪。父の死。全てをなかったことにして、考える暇を自分で無くした。しかし、それを邪魔したのもやはり母だった。会社に慣れ始めた頃、父方の親戚から母が倒れたという報せを受けた。親戚の話によれば、母はもう長くは生きられないのだという。だから俺は、母にせめて死の間際に呪いの言葉をかけてやろうと帰省した。もしかしたら、母の口から直接謝罪の言葉を聞きたかったのかもしれない。
しかし、それは真っ赤な嘘だった。どうやら母の介護をめぐって、親戚同士で諍いが起こっていたらしい。つまりは介護の押し付けあいだ。その状況を聞いて親戚一同から説得された俺は、会社を辞めて地元に戻って母の介護を始めることになった。
帰郷して、実家に戻って初めて介護が必要な母を見た時の気持ちは、正直言葉にできなかった。あれだけ憎んでいた女の姿はなく、呆けた老婆には哀愁さえ感じたのだ。これが歳をとるということなのか、と衝撃を受けた。その衝撃は自分の中で燠のように燻っていた怒りを、吹き飛ばすほどの威力だった。白髪を無造作にまとめた老婆の背中は、柳のように曲がり、どんよりとした目には、もはや何も映っていないようだった。俺は、動揺していたのだと思う。
これが明美さんを殺した殺人犯だとは、到底思えなかったのだ。たった四年の歳月が、母をここまで変えたのだ。それは父の最期の姿よりもある意味では、信じられなかった。信じたくなかった。母はもっとふてぶてしくて、邪悪な存在であるべきだった。それなのにずっと俺が抱き続けてきた俺の中の母のイメージとは、大きくかけ離れすぎている。筋肉が削げ落ちた体は筋張っていて、手足の血管が青く、太く浮き出ていた。ぼさぼさで艶のない真っ白な髪。半開きの口から垂れる涎。あちこちに深く刻まれた皺。その中でも最も深く刻まれていたのは、眉間に入った三本の皺だった。まるでその皺は、切り傷を負ったかのようだった。今まで、母は何を一人で思って生活してきたのだろう。何に対して苦悶すれば、あんなに深い皺が刻まれるのだろう。一人ではもう自力で歩くことさえできない。何という弱弱しい存在なのだ。何という無力さ。何という無害さ。俺は、この人を殺すことはできない。そう直感した時、俺の大学生活はなんだったのかと思った。
恨んで憎んだ日々の感情や、明美さんを失った悲しみを誰にぶつけたらいいのだろうか。そう思って、俺は自嘲する。結局母に俺は甘えていたのだ。母と言う憎むべき対象がいたから、俺は生きてこられたのだ。そうでなかったら、おれは恨みに負けてどこかで自殺していたに違いない。もはや知人もおらず、憎しみだけしか傍らに置けないのであれば、自分を解放し、心の平穏を取り戻すには自らの手で自分に幕を引くしかなかったのだ。かつて名前を与えた虚像と実像は、いつでも簡単に立場が入れ替わるものだったのだ。
予想はしていたが、慣れない介護を一人で行うのは現実的に厳しいものだった。施設に預けようにもこの高齢社会で空きがなく、やっと空きを見つけたと思った所は高額だった。そんな時、ある施設から紹介されたのがケアマネージャーの林という男だった。林が何かと役場に掛け合って、介護認定をしてもらうことができ、刈屋木工という介護用品のレンタルや販売を行う店を紹介してもらうことができた。介護認定を受けるとその認定の度合いによって介護用品のレンタルや購入は割安になるが、その反面介護認定が重くなれば、デイサービスなどの施設の利用費は高くなるということも、林に教わった。
俺は母がデイサービスやヘルパーの日にハローワークに通い、今のスーパーのデリカに採用されるなど、目まぐるしく生活は変化した。今思えば、週に三回しか出勤できない男をよく採用してくれるところがあったものだ。しかも、母の介護の様子を心配した店長が店への「協力」も免除してくれた。
しかし、それも今日で終わりだ。
俺は仏壇にしまってあった便箋を、茶の間のテーブルの上に置いた。母はもう、俺のことは覚えていないし、父が死んだことも忘れている。
「さあ、出かけるよ」
俺はこの日、パートを休んで母と一緒にデパートに行く。俺と母のような生活を送る人にとっては、縁がないような高級デパートだ。母を後部座席に乗せ、俺が運転する。俺が母への憎悪をこの時まだ持っていたかと言うと、難しいところだ。帰郷した時に対面した老いた母の姿は、病院のベッドの上の父を彷彿とさせた。だが、全く母を恨んでいなかったと言えば嘘になる。
「お前、私を殺す気か!」
いつものように、母の妄言が後部座席から響いてきた。
「そうかもしれない」
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