33.父親の存在

 悩んだまま一週間が過ぎ、俺はようやく電車で父が入院している病院に向かった。インターネットで病院を調べ、わざと平日の面会時間外に着くように病院へと向かう。新幹線は始発だったので、指定席ではなく自由席を選んだ。青い座席の窓側に、一人で座る。流れる風景を見ながら、随分遠くまで来たものだと思う。冬だというのに雪がない。最初の年には冬に雪が降らないという話は半信半疑だったが、本当に雪がない冬を体験して驚いたのを覚えている。

 

 そしてやはり故郷の父のことを考える。父は俺を「カッコウの巣」に連れて行ってくれた。つまり父は俺の恩人だ。「本当にいい子なんです」と繰り返す父に、初対面の明美さんは苦笑していた。「でも、こいつの母親も俺もいつも家にいてやれなくて……」と父は続けた。恥ずかしそうに顔を赤くして、申し訳なさそうに顔を歪めながら、父は明美さんに何度も頭を下げてくれた。そして父のおかげで俺は「カッコウの巣」に入ることができた。それから中学三年の冬に父から五百円玉を貰ったのだ。「欲しいものがあるのか?」とか「何に使うんだ?」とか無粋なことはきかずに、黙って父は俺の手に五百円玉を握らせてくれた。今思えば、父は俺に全幅の信頼を示してくれたのだと分かる。俺がお金を初めて親にせがむのだから、きっといいことに使ってくれるに違いないと、思ってくれたのだ。その時のごつごつとして温かい父の手を、今でも鮮明に思い出すことができた。常に何かを強く握って仕事を行う、働き者の手だ。俺も雪かきをしていた頃は、手にまめができてそれが潰れてを繰り返していたから、手のひらが硬くなったことがある。だが、父の手とは比べ物にならない。今では俺の手はすっかり怠け者の手だ。


 実家に行くには途中で在来線に乗り換えなければならなかったが、病院の最寄駅には新幹線が停まる。徐々に高い建物がなくなり、雪が見えてきた。そこでようやく俺は郷愁のようなものを感じたのだ。雪がちらちらと降っていた。まるで明美さんが亡くなった時のように、雪が降る。だから俺は雪が嫌いだ。しばらくすると雪の量が一段と増した。駅前の小便小僧の銅像に雪が積もって、銅像が頭を重たそうにしている。そして低い建物群も雪に埋もれている。唯一の高い建物である病院だけが、雪原の中にそびえたっている。病院としては見慣れない淡いピンクの外壁と茶色の屋根がモノトーンの世界の中で、存在感を示している。俺は当然、実家には帰らず、父の容態を確認したらすぐに東京に帰るつもりだった。もしものことを考えて、病院の近くのビジネスホテルを二日分予約した。


 ナースステーションに事情を詳しく説明すると、看護師はしぶしぶといった様子で俺を父の病室まで案内してくれた。県内で五本の指に入るくらいの大きな病院だった。父の名前を言った時の看護士たちの様子から、父が本当に余命わずかなのだと察せられた。


 病室のスライドドアを開けると、俺の知らない男がベッドに横たわっていた。毛という毛が抜け落ち、骨と皮だけの体は、まるで生きている骨格標本の作りかけのようだ。見覚えのあるパジャマを着ていたが、サイズを間違えていると思うほど、生地に余裕があった。よく日に焼けていた肌は血管が青く浮き出るほど白かった。あのごつごつとしていた手は、女性のものと見間違うほどに滑らかになっていた。


「父さん?」


 俺がそう声をかけると、男は目を覚まして起き上がった。

 

「おお、隆一か! よく来たなぁ」


 俺の知らない男は、俺の名前を親しげに呼ぶ。年老いたその男の声は、確かに耳朶に馴染んだ父の声だった。しかしその声にもう生き生きとした覇気のようなものはない。


「元気だったか? 今日は大学はどうした?」


 俺は完全に言葉を失っていた。確かに男の糸のように細い目には、懐かしさを感じた。しかしそれ以外に、元気だった頃の父の面影はどこにもなかった。たった三年の年月が、こんなにも残酷に人間を変えてしまうものなのかと、愕然とする。流木のように細くて白い腕に、点滴の針が痛々しい。俺は折りたたみ椅子に腰かけ、男と向き合った。


「父さんな、治療を止めて家に帰ることにしたんだ」


 開口一番に飛び出した父の一言に、俺は固まって。しまった。


「え?」


 そう言われてみれば癌と聞いて想像していた仰々しい器械は父の周囲にはなく、閑散としているほどだ。唯一、何かの点滴袋が父の腕につながっている。文系一筋の俺には何の薬なのか、もしくは何のためのものなのかは分からなかった。


「家で、母さんと最後の時を過ごそうと思ってる」

「どうして?」


 乾いた唇が震えた。言葉を探してやっと出た声は、やはり震えた疑問符だった。

 

「母さんは最近、鬱っぽくて、呆けてきちゃったみたいなんだよ」


 穏やかな父の言葉に、窓の外の木々のざわめきが重なった。鳥たちが雪空の下で囀っている。まるで父が最期の時を迎えようとしていることが、嘘のようだ。


「あいつのことなんて、どうだっていいだろ⁉ あいつは明美さんを殺しただけじゃなく、父さんも裏切っていたんだぞ⁉ しかも、何でそんな大事なこと、勝手に決めてんだよ⁉ 俺には何の相談もなかったじゃないか! 俺の意見も聞かず、勝手に生きるの止めるだなんて冗談じゃねぇよ! 自分のことだけを考えてくれよ、頼むから‼」


 俺は自分の感情をどこに持っていけばいいのか分からず、大声で叫んでいた。父は笑って、ようやく生え始めた髪の毛をなでる。


「お前に相談しなかったことは悪かった。すまない。でもこれは父さんが自分の意志で決めたことなんだ。だから、最後のわがままだと思ってきいてくれ」

「そんなの、ズルいよ。尊厳死かよ?」

「ああ」


父は溜息を吐くように言った。


「あんな奴のために、最期を決めるだなんて……!」

「何だ。そんなことを気にしていたのか。全部、知っていたよ」

「え?」

「あいつが不倫していたことだよ」

「じゃあ、何で? 離婚とか別居とか考えなかったのかよ?」

「お前がいたからな」

「何だよ、それ。わけわかんねぇよ」


 俺の声は相変わらず震えていた。これが怒りなのか、失望なのか、動揺なのか、はたまた泣きたかったのか、それともそれらすべてであるのかは、分からなかった。


「なあ、隆一。一つ頼んでもいいか?」

「何?」

「母さんを許してやってくれ」


 父は、ベッドの上で頭を下げた。


「父さんは、本当にそれでいいのか? あいつのせいで、俺たちの人生は……!」


 父は、数枚の便箋を俺に手渡した。それは、母の懺悔文だった。その便箋の最後は遺書であり、俺がもし間違って母を殺してしまっても罪には問わないでほしい、という嘆願書でもあった。俺の体は震えた。それは今度こそ、怒りによるものだった。ここに母がいなくて良かったと、後になってから思った。もしここに母がいたらきっと俺は、怒りという感情に任せて母を殺そうとしただろう。そしてそれは失敗に終わっていたに違いない。ここは病院だし、父もいる。俺が母に手をかけようとする寸前で、第三者に止められてしまうか、止められなくても母はすぐに治療を受けて助かってしまうだろう。

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