腐肉纏う涙獣②

 抹香の香りに包まれた廊下に、九里香と誠一以外の人間は存在していなかった。

 鼻孔に温もりを錯覚しながらも、九里香の足裏は酷く冷たかった。湿った汗が身体の隅々に貼り付いている。まるで冷たいシャワーでも浴びたようだが、心臓の底には棘が刺さったような不快感があった。


「珊瑚ちゃんとの生活は、どう?」


 そんな九里香が唾を二回飲み込んだ頃のことだった。

 重いステンレスの扉の前で、誠一がその軽い口を開いた。ほんの一年前、大学の研究室で交わしていた言葉の応酬。その一言を思い出そうと、九里香の脳の隙間が燻る。だが、彼はその口を閉じ、三回目の唾を飲み込んだ。


「雑談するために珊瑚を部屋に置いていったわけじゃないですよね、先輩」


 誠一の隣に足を伸ばす。真横から見る誠一の顔は、その背から滲み出ていた軽薄さを失っていた。


「つまんねー奴」


 乾いた笑みを浮かべる彼の隣で、九里香は「すみませんね」と口を尖らせて見せた。

 踵を軸に、誠一がステンレスの扉へ背を向けた。


「なあ、九里香ちゃん」


 そう言って、彼は扉に背を預けた。その頭上には遺体安置室の文字があった。

 九里香は「はい」とだけ返答を置いた。


「珊瑚ちゃんから、この町の怪異が産まれる仕組みを聞いたことはあるか」

「花嫁花婿のことだったら……多都川媛が、姿を与えるとだけ。そうして姿を与えられた生物達が人間を娶り、それを生贄として自分に捧げられたことにするとか」


 九里香の答えに、誠一は「そっか」とだけ零した。数秒、一人首を縦に振った後、彼は再び口を開いた。


「じゃあその『姿』は、人間と番う為の『身』は、何処から来る?」


 二人は揃って、斜め三〇度に首を傾げた。数秒の無言の後、長い息を吸い込んだのは、誠一だった。


「多都川の怪異は他のそれとは大きく異なる性質を持っている。本来、怪異とは認識の副産物。神とか幽霊とか……つまり、『少数派にとっての現実』と呼べる程度の『幻覚』に過ぎない。だが、多都川の花嫁達は違う。明確に『肉』を持つ。番う相手を選び襲い、娶る程度に『万人向けの現実』に寄っている」


 理解出来るか。

 と、誠一は置いた。九里香は口を開かないまま、一秒の無言を置いて、一度だけ首を縦に振った。


「幻でしかない存在を『人間と婚姻を結べる存在』と認識するためには、いくつかの要素が必要だ。それを何かしらで補ってこそ、あの花嫁達は存在が可能だ」

「その『何かしら』が、人間の死体である……というのが理屈ですね」


 九里香の返答に、誠一は「そういうこと」と柔らかに微笑んだ。

 対して当の九里香の額には、青い汗が伝っていた。理解しているかしていないかで言えば、理解はしていない。ただ、そういうものだ、と、その納得だけを飲み込んでいた。


「自分に捧げられた人間の一部を材料に人以外の存在へ人の肉を与える。そうして花嫁と花婿を作り続ける。そうして作り上げた自分の分身で人間を娶り、生贄とする……そういうサイクルなんだよ」

「いくらなんでも、死体を生きた人間とは思いませんよ。死体と結婚したいなど。それも、その一部などとは」

「死んでいるか生きているかを判断するのは、嗅覚と視覚くらいなもんだろ。なら、見せ方を変えれば良い。それくらいは怪異という幻覚にとっては十八番だ。なんなら、幻覚レベルであれば触覚だって再現は出来る。あとは『そこに人間に類するものがある』という『事実』が必要だ。人間であったモノが、動いている。それだけで人間の脳はそれを『人の姿をして生きるモノ』として認識出来る」


 そんなことが、出来る筈もない。

 九里香がその言葉を口にしようとしたとき、誠一は小さく舌を打った。九里香が背を縮める。押し黙った彼の頭を叩くように、誠一は静かに溜息を吐いた。


「それが出来るから多都川媛は『神』と呼ばれる。神という言葉が、現実へ介入する手段を持った怪異の別称であるとするなら、の話だが」


 そうして、誠一は目を伏せた。彼は吐いた息を肺に戻すように、再び酸素がその口に集まった。


「そして、それがわかっていれば、人間側からそこに介入も可能だ。特定の死体を使わせることだって出来る」


 淡々と語る誠一は、伏せていた目を上げた。九里香が目を丸くしているのを確認すると、彼は僅かに唇を舌で濡らした。


「まあ、交渉次第だがな」


 交渉。

 そう反芻した九里香に応答するように、誠一は僅かに頷いて見せた。


「なんで夜咲家が栄えたと思う。その血筋に特異性が無ければ、自分達を神にするなんて思想だけで、『教団』などと呼ばれるような存在になれはしない」


 血筋。特異性。

 その二つの破片を、脳に巡らせる。九里香の額の裏側に、一つの言葉が浮かんだ。


「……夜咲家には『怪異と意思疎通する』能力がある?」


 そう先に口にしたのは、九里香だった。

 僅かに満足を得たらしい。誠一の目元が僅かに下がっていた。


「元々は大陸から渡ってきたシャーマンの血筋らしい。要するに、『精霊』だの『自然霊』の類いと対話するという触れ込みの人種だな。それが山伏信仰だの密教だの要素を取り入れて、組織化したっつー説が強い。あとは自分達を信仰対象にしていく過程で、色々化け物みたいになっていったみたいだな。双子が産まれる確率が高いとか、男も女も皆同じ顔をしているとか……」


 語り尽くそうとする誠一は、ハッと、己の口元に指を置いた。彼は再び長い溜息を吐くと、「すまん」と軽やかな笑みを浮かべた。そうして、彼は体重を背骨に戻した。寄りかかっていたステンレスの扉に、手をかける。


「そろそろ結論を言おう。己が神の子を得ようという『遺児』はその能力を持っている夜咲家の人間だ」


 扉を隔てた向こう側。冷えた壁には、正方形の扉が十数枚整列していた。それらは駅の中にあるロッカールームにも似ていた。

 鏡のようなその表面に顔を映す。二人は鏡面越しに視線を合わせた。


「そいつは、うちから死体を二つ盗んだ。一つは夜咲家の男の死体。お前のために用意していた最後のストック」


 そう言って、誠一が扉の一つを開いた。引き出された銀色のストレッチャーには、血の一滴も無かった。


「神の外戚になろうという試みのアプローチだろう。直接自分達と同じ血筋の人間の肉を神の分身に宛がう方が、より夜咲家の目的には沿っている」


 鼻でほくそ笑む誠一の横顔へ、九里香は視線を向けた。一直線に並んだ視線へ乗せるように、九里香は息を吐いた。


「もう一つは」


 九里香のその問いに、誠一は迷い無く口を開いた。


「玉依一華イツカ


 瞬間、九里香の脳に一つの名前が浮かんだ。汗が額と背に浮き出る。滲み出たそれが、粒となると、一筋、背筋を撫でた。


「二五年前、この町から夜咲家に拉致された少女の名だ」


 そんな九里香を置いて、誠一は続けた。息が短くなっていく九里香の肩を叩く。彼は一秒、無言で九里香の黒真珠の瞳を見つめた。九里香の肺が縮んでは膨らむを繰り返す。その反復が一秒から三秒に伸びた頃、再び誠一は口を開いた。


「そして二〇年前、一人この町に戻った時、彼女の腹は臨月だった」


 九里香の脳裏に、一人の少女の姿が浮かぶ。同時に、彼の耳に蘇ったのは、彼を「クリカ」と呼ぶ少女の声。


「玉依珊瑚を産んだ母親。そして、夜咲家の下で


 重ねられていく言葉の重みは、九里香の鼓膜を震わせる。否、震えていたのは、彼の眼球と神経であった。首を横に振る彼の顔を、誠一が掴んだ。


「九里香。お前の。神と番うことを求められたお前の――――」


 誠一の息が、九里香の顔を撫でる。ステンレスの冷たさが、彼の背と頭蓋を冷やした。


「お前の世話役だった娘。お前が惚れた、あの女だ」

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現代異類「破婚」譚 棺之夜幟 @yotaka_storys

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