夏休みの終わりに
すっかり真っ暗になってから帰宅した葵を、祖父と姉は心配顔で待っていた。
「せめて明日の朝に行けばよかったでしょ」と姉には叱られたが、祖父は葵が飛び出す前に総一郎の写真を見ていたからだろう、茶の間に葵を呼んで「何があったんだ」と
葵は、どこまで信じてもらえるか分からない、と思いながらも、この夏にあったこと、総一郎と会ったということを話した。
そんな葵に、祖父は疑問を挟むでもなくじっと話を聞いてから、机の上に広げたままだったアルバムに視線を落とした。
「そうか……。この辺りで温室を探して道を尋ねてくる人は時々いるんだが、そこに
そう言うと、祖父はすっと目を細めた。
「おじいちゃん、温室のこと知ってたんですか?」
「ああ。あの場所に温室なんかなかったんだが、尋ねてくる人の言う場所が必ずあの近辺だからな。誰かいるとしたらたぶん伯父さんだろうと、よくお前のひい爺さんが言っておったんだ」
それから祖父は、曾祖父が話していたということを教えてくれた。
総一郎は自分が「昆虫学者になりたい」と言ったことが、弟の反抗の原因だと思っていたが、実際はそうではなかったらしい。
そもそも体の弱い総一郎は、たびたび養蚕の仕事の途中で具合を悪くしていたのだ。にもかかわらず両親は、家業を継がせるためだと言って総一郎を駆り出すばかりしていて、弟はそれに対して一番怒っていたらしい。
火災のあった頃も、埃っぽい場所で長年作業していたせいか、総一郎は肺を病んで寝込んでいたのだという。
「それも寒い寝床に放置されておったから、医者が気の毒がってな。最後の夜は医者が着せかけた白衣を着ていたらしい」
そう言われて、葵は総一郎の姿を思い出した。いつも着物の上から、羽織のように着ていたあの白衣。
それを葵は、昆虫学者になりたかったという願いの名残なのだろうと思ったが、実際は亡くなった時に着ていたものそのままだったのだ。
「それにその頃は、近所で不審火がたびたびあったらしくてな。どうやら火をつけて回っているやつがいたらしい」
最初は総一郎の言う通り、火をつけたのは弟だと疑われたそうだ。燃え盛る火の前で、消火もしようとせず「天罰だ」と言っているのを、家の人間だけでなく近所の人間も聞いていたし、それ以前から両親に反抗していたわけだから、これは当然の成り行きだった。
しかしその後に放火犯が捕まって、総一郎たちの家の放火も自分がやったと白状して、誤解は解けたらしい。
「それじゃ、本当に総一郎さんは何も悪くなかったんですね」
葵は最後に微笑んだ総一郎の顔を思い出した。葵に全てを打ち明けて、最後はカイコたちに背中を押されて、やっと呪いから解放された総一郎。
しかし彼が縛られるべきものは、本当は何もなかったのだ。もっと早く、誰かがそれを伝えることはできなかったのか、と葵は思った。総一郎が哀れでならなかった。
けれどそれ以上に、あの場所に総一郎が留まっていなければ、葵の背を押してくれる人もいなかったのだと思うと、まるでこの夏の出来事は運命だったような気もしていた。
「最後に弟の孫に会えて、伯父さんも喜んでいるはずだ。毎日饅頭をくれたんだろう? 甘いものは伯父さんの好物だったそうだからな」
「そうだったんだ。……そうだったんだ」
アルバムの中で右目を眇めた総一郎の顔に視線を落としたまま、葵は深く深く息を吸った。
葵の胸の中で、総一郎への思いがぐるぐると渦巻いて、体の奥からじんわりと熱が込み上げてきた。
「ありがとう、総一郎さん」
震えそうになる声でそう言った葵の背中を、祖父はそっと撫でさすり、葵が落ち着くまでそばに座っていた。
「ここがおばあちゃんの部屋よ。ほら、マスクがずれてる。ちゃんとつけて」
祖父の家から自宅に戻ってきて二日。母は車に残って、葵と椿は祖母の入院している病院に来ていた。
葵が祖母の見舞いに行きたいといったあの日、姉の椿も本当は祖母を見舞いたいのだと、両親に話していたらしい。
黙って回復を待っていたら、きっと最後まで何の話もできないまま、祖母とは永遠に会えなくなる。それを不安に思っていたのは、姉も同じだったのだ。
葵は言われた通り、マスクを鼻の上までずり上げて直した。それを確認した姉は、こんこんと病室の扉をノックすると、そっと扉を開けた。
祖母は横になったままテレビを見ていた。葵たちが部屋に入ると、やっと気配に気づいたのか、ゆっくりと首を動かしてこちらを向いた。
「おばあちゃん、会いに来たよ」
祖母の顔が目に入ると同時に、葵はそう声をかけた。
祖母は大きく目を見開いた。二人が来ることなど、まるで予想していなかった顔だった。けれど驚きが去ると、目尻に皺を寄せながら、とてもとても嬉しそうに笑った。
むしばなし(アドベントカレンダー企画) しらす @toki_t
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