カイコ

 自信に満ちた笑顔を見せる葵に、総一郎は気力を貰ったかのように微笑み返した。しかしすぐに真剣な顔になると、温室の方へと向かった。

 葵が後に付いていくと、燃え盛る温室の裏手に、昼間置いてあった椅子や踏み台がそのまま置かれていた。

「本当は分かっていたんですよ、葵さんが今夜来ることは」

「なんとなく、そんな気はしてました。だっていつもいつも、私の行動は先読みされてましたから」

 葵が笑って答えると、揺り椅子を炎の熱が届かないところまで移動し、総一郎は苦く笑った。

「できれば来ないでほしいと、ずっと思っていたんです。ですがきっと、こうなることは葵さんが来た時から決まっていたんでしょうね」

 ふうっと一つ息を吐くと、総一郎は自分が揺り椅子に座り、葵をもう一つの椅子に座らせた。それから両手の指を組んで膝に乗せると、しばらく考えてから、口を開いた。


「私が生まれたのは、古い養蚕ようさんの農家だったんです。子供の頃から弟と二人で、家の手伝いをしながら暮らしていましたから、カイコは大事な生き物でしたし、ちょっとした遊び相手でもありました。

 カイコのまゆと言うと大抵は白いものだと思われるんですが、私の家では金色の反物ができると言われる黄色い繭を作るカイコを育てていたんです。

 私自身は子供の頃から触れてきたものですから、それが当たり前だったんですが、その色は相当に珍しかったようですね。家も大きくて、二つある棟の一つをまるまる使ってカイコを育てていたんです。


 そんな家に生まれた長男ですから、私は当然のように家業をいで、養蚕をする道が決まっていました。ただ、だからと言ってそれに不満があったわけではないんです。

 子供の頃から病弱で右目を悪くして、戦争が始まった時も徴兵を免除されるような体でしたからね。それでも慣れた仕事ならできましたし、何より私にはカイコが可愛かったんです。

 不満を言っていたのは弟の方でした。弟は体も頑丈でしたし、とにかく負けん気が強くて、私の事を「病弱なのをいいことに家に縛り付けている」と言って、両親とたびたびめていたんです。

 ただそれには、原因が一つあったんですよ。


 私は小さいころ、外で虫と遊ぶのがとても好きだったんです。家にカイコはいますが、カイコ相手にあまり遊んでいると叱られますからね。成り行き上、外にいる虫たちが遊び相手だったんです。

 山には面白い虫がたくさんいますから、それを集めてきて母を仰天させることもままありました。顔の大きさくらいあるゲジなんか、ちょっと惚れ惚れするような生き物なんですけどね。

 ああいけない、話がそれました。子供の頃はそうやって外に出たがるのを、病気の心配と家の手伝いで止められることが多かったんです。弟はそれをいつも見ていたわけです。

 それである時、弟は私にいて来たんです。『兄ちゃんは家を出たいと思わないのか?』とね。


 私はその頃、たまたま少しだけ夢を持っていたんです。昆虫学者になりたい、とね。できるものならもっといろんな虫の事を知りたいと、勉強をしたいと思っていたんです。

 今思えば間の悪い話でした。真剣に私の心配をしている弟に、私はそれを話してしまったんです。

 昆虫学者になりたい、なんて本気で考える人間は、そもそも体が弱かろうが親が止めようが、自分のしたい研究に明け暮れていることでしょう。素直に家の手伝いなどせずに、一日中野山を駆け回って帰って来ないでしょう。

 なのに、その半端な気持ちを、まるで本心のように弟に話してしまったんです。素直な弟は、それを真に受けて両親と衝突するようになったんです。

 弟は大きくなるにつれて、ますます家業を悪く言うようになりました。珍しい繭を作るともてはやされて、両親はいい気になっているだけだと。私や弟の気持ちなど、まるで考えていないと。


 ただ、それとあの火事が関係あるのかは私にも分かりません。いつものように風邪で寝込んでいた夕方に、カイコのいる棟から火の手が上がったんです。

 慌ててカイコの元に走った時、弟は『天罰だ』と言って笑っていました。なのでおそらく、弟が火をつけたのだろうと思ったのです。火元になるようなものは、その辺りには置いていませんでしたから。

 私はすぐにカイコを運び出そうと、家の中に飛び込んだんです。それでなくとも熱でフラフラしていましたから、そんな事をすればどうなるかは目に見えていましたがね。

 あの炎の中で、可愛いカイコが苦しんでいるのかと思うと、どうしようもなかったんです。一匹でも多く助けてやろうと、炎が高く上がっている二階まで行って、そこで煙に巻かれたんです。


 ……生きている間のことで、覚えているのはそこまでです。気が付いた時には、私はこの右半身を火傷した姿で温室の中に立っていました。

 温室にはお客が来る直前になると増える虫かごと、お客と関わりのある虫の名がつづられる手帳が机の上に置かれていました。もちろん、最初は分からなかったのですが、何度目かのお客が来た時に、そう気が付いたのです。

 そして、夜になればこうして燃え上がる。つまりこの温室は、あの日焼け死んだカイコたちの恨みが消えるまでなくならないのだと、そう思ったのです。私の軽はずみな言葉が原因で、死んでしまったのですから」


 総一郎はそこまで話すと、疲れたように深く揺り椅子にもたれ掛った。今にも泣きそうな目をしていた。

 葵はしばらく、なんと言葉をかけてよいのか分からなかった。おそらく総一郎は、自分の後悔のためにこの温室を作り上げてしまったのだと、そして今も悔いているために、ここから抜け出せないのだろうと、そんな気がしていた。

 けれど何十年と後悔を抱え、贖罪しょくざいを続けてきた彼に、そんな事を言っても余計に傷つけるだけだという気がした。


 ふとその時、ざぁあ、という雨音が聞こえてきた。

 今までは温室の中でしか聞いたことのない雨音が、天から降るように響いてきて、今も炎にあぶられる温室と、疲れ果てた総一郎を包むように広がっていった。

「えっ……?」

「どういうことだ、これは?」

 葵と総一郎は、揃って立ち上がっていた。聞き間違えるはずもない、温室の中だけでしか聞いたことのないあの雨音。それはカイコたちが桑の葉を一斉に食べているときの、あの音だ。

 総一郎の話で、葵もそれに気づいていた。だからあの音は、本当の雨音ではない。雨が降っているわけではないのだから、燃え盛る炎を消せるはずもない。

 なのに、温室の炎が徐々に小さくなっていっていく。まるで完全に炎を消し去ろうとするかのように、雨音はどんどん大きくなり、それにつれて炎はますます小さくなっていく。


「総一郎さん!」

 ふと葵が視線を戻すと、総一郎の体が透けていた。声を掛けられて初めて、自分の体を見た総一郎は、一瞬驚いたように目を見開いたものの、すぐに葵に向けて優しく笑った。

「私の願いは、彼らを苦しみから解き放つことだったんですよ。なのにまさか、彼らが私を救おうとしてくれるとは……」

「虫たちは誰も恨みませんよ、総一郎さん。同じ虫好きなら、それが分かるでしょ」

「それもそうですね。ありがとう、葵さん」

 総一郎はそう言うと、空を見上げた。そのまま彼は、空に吸い込まれるように消えていった。

 葵はそれを見届けると、流れてきた涙をこぶしで拭った。そのまましばらく空を見上げていると、雨音も徐々に小さくなっていって、ついに聞こえなくなった。

 やがて澄んだ空に一番星が見えたところで、葵は温室のあった場所を見まわした。

 しかしいつの間にか空き地からは、あの温室の影も形もなくなっていた。ただ草むらの隅に残った桑の木だけが、風にゆらゆらと葉を揺らしていた。

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