夜の温室へ
葵は日暮れの山道をひたすらに走った。
温室のあるあの草原は、歩いて行くと二十分近くかかる場所だ。太陽が完全に山の陰に入って見えなくなれば、辺りは真っ暗になってしまう。それまでにたどり着きたかった。
「毎日遊んでいた友達に、もう家に帰るって伝えるのを忘れてたの。連絡先も知らないし、今から言いに行ってくる」
そう言って居間から出ていく葵を、祖父は慌てて追って来た。しかし祖父と一緒では、きっとあの温室にはたどり着けない。なんとなくだがそんな気がして、葵は祖父を振り切って出てきた。
車で追ってくるかもしれないと思ったが、そんな様子はなく、葵は何度も転びそうになりながら走った。
一分おきに傾いていくような日の光を追いかけるように、坂道を一歩一歩と駆け上がる。
ようやく視界が開けて、あの空き地にたどり着いたと分かった。走り疲れた葵は、せき込みながら一度立ち止まった。息が切れて苦しかったが、温室まではすぐそこだ。
しかし、なんとか顔を上げて一歩踏み出したところで、葵は再び立ち止まった。
煌々と明るい光が、空き地の奥、温室の方で灯っている。まるで夜のグラウンドのライトのように、空き地全体に広がるその光の元。それは炎だった。
「まさか……」
温室全体が赤々と燃えあがっている光景に、葵は立ちすくんだ。昼間掃除したばかりだというのに、何もかもが焼けてしまっている。
「葵さん、ダメじゃないですか、こんな時間に」
突然背後から声がして、葵はびくりと飛び上がりながら振り返った。いつの間にか、片目の男がそこに立っていた。
「
「おや、やはり私の名前をお聞きになったんですね。なら、私が何者なのかも分かっているでしょう。こんな時間にここに来るものじゃないですよ」
そう言うと、総一郎は葵の肩に手を乗せ、ぐいっと後ろに下がらせようとした。葵は
「総一郎さん、私、明日には帰るんです。だからもう、明日からここには来られません。次にここに来るのが、いつになるかも分かりません。だから話してほしいんです」
葵は総一郎の右腕を掴んで、追い出されないように踏ん張りながら必死にそう言った。片目だけの総一郎と視線が絡み合うと、その目がすうっと伏せられた。
「話してほしいとは、何をですか?」
「もちろん、ここであった事を、です。分かってるんですよね、総一郎さん。あなた自身も、虫との
葵が言い切ると、総一郎の手からするっと力が抜けた。そのままふらふらと、頭を抱えながらしゃがみ込むと、総一郎はだめだと言うように首を横に振った。
「葵さん、分かっていますか? そんな事をすれば、あなた自身が私の役目を負うしかなくなる。あの温室にずっと囚われて、生も死もなく、聞かされるのは虫との因果を負った人々の話ばかり。夜になれば焼け落ちて、安息を得ることもできないこの場所から、離れることもできない。いつ解放されるかも分からない呪いを、ずっと受け続けるしかなくなるんですよ」
可愛い子孫に、そんな呪いをかけるわけにはいかない。そう厳しい声を出す総一郎に、しかし葵は首を横に振った。
「そんなことは無いはずです。少し前の私なら、そうだったかも知れませんけど」
「どうしてそんな事が言い切れるんですか」
「虫かごの声たちが教えてくれたからです。本当は虫たちは、誰も呪ってなんかいないって。因果を感じているのは人間だけで、彼らはただ生きて、死んでいっただけなんだって」
葵はそう語ってから、ふと今までになく晴れやかな気持ちでいる自分に気が付いた。
人を愛させてほしいと願ったあの人は、自分で虫を殺してすらいなかった。
顔が痛いと言ったあの人は、
神様の声を聞いて来たというあの人は、たまたま蛾の多い時期に立った噂に振り回されただけだった。
子供がいなくなるのを止めてほしいと言った老夫婦は、孫を導いているという虫を見てもいない。
九死に一生を得るような体験を繰り返したあの人は、自分の不注意にも気が付かない人だった。
ゴキブリの夢を見ていたあの人は、ただ恐れから夢を見ていただけだ。
セミの呪いで妹が同じ目に遭ったといったあの人は、妹と違ってもともと虫を怖がっていた。
みんな、自分や周りの誰かに起きた出来事を、虫のせいにして自ら呪いにかかっていた。ここで話を聞いてもらえれば解けるという呪いは、自分で自分にかけた呪いだけだ。
だから、友達ともう一度会いたいというあの少年の願いは、最初から果たせなかったのだ。
「私はなんの呪いにもかかっていません。虫を嫌いになったあの出来事も、今の私を縛るものではなくなっています。総一郎さんが解放してくれたんですよ。ですから今度は、私の番です」
「葵さん……」
にこりと笑って言う葵を見上げて、総一郎はようやく立ち上がった。
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