第62話 銀の髪、シャンプーの香り


 オレは、彼女の姿を前にして、しばらく固まってしまった。

 彼女も、気づいていないのか、俯いたままでいる。


 彼女は、オレのことを覚えているからここへ来たのだろうか。

 それとも……単なる偶然か……

 

 オレは深く息を吸って……名前を呼んだ。


「……燐」


 オレの声に、彼女はゆっくりと顔を上げる。

 オレの顔をまじまじと見つめる。


 やがて、確認するように彼女の口が開いた。


「純くん……」


 電撃が走ったかのようだった。


 燐は、躊躇なくオレの懐に飛び込んできた。


 慌てて抱き止める。

 きちんと重さと感触がある。夢ではないと実感する。

 

 しかし、驚きのほうが先に立っていた。

 状況が理解できない。


「燐……! オ、オレのこと覚えてるのか……⁉︎︎」

「うん、全部覚えてる。遅くなってごめん。今までずっと寝てたからさ……」

「寝てた……?」


 オレが問うと、燐のつぶらな瞳がオレを見上げた。


「アタシね、こっちの世界に戻ってから、すぐに親に連絡したの。それで、迎えを待ってたら眠くなって……それからずっと目を覚まさなかったみたい。一年呪われてたから、反動だったのかも。わかんないけど」

「そう、か……」


 オレは、全身から力が抜け、思わず地面に座り込んでしまった。

 

 燐と、普通に会話をしている……

 望んでいたことが叶いすぎていて、心はまだ信じることを怖がっていた。

 指先が冷えて、震えている。


「ただ……なんで覚えてるんだ? オレの記憶を消すのが女王の条件だったろ」

「それも、一応だけど心当たりはあって……」


 燐がそう言って、燐は小さな鞄を漁り始める。

 そのときようやく、オレは彼女の外見上の変化に気づけた。


 ホームレス当時、悲惨なほど傷んでいた髪は、今はずっと落ち着いて艶めいていた。

 生傷の絶えなかった肌も、今は清潔で滑らかだ。

 服だって、靴だって、鞄だって、汚れていない。


 この姿を、数ヶ月前のオレはどれほど望んだか……


「でも、確信持てないから純くんに見てほしいなって……純くんなら、なにか知ってるかもしれないから……」

「オレが知ってる……?」

「うん。元々は純くんのだからね……」


 オレの脳内に疑問が浮かぶ。

 記憶を探るが、なにも思い出せない。


「あ、あった。これ……」


 ようやく燐が出してきた物を目にして――オレは呆然とした。

 

 鞄から出てきたそれは、キーホルダーには長く、ストラップには短い、中途半端な長さの紐がつけられた、小さな涙型のカプセルだった。


 いつか灯里がプレゼントしてくれた、忘れな草のお守りだ。


「ほら、ここ見て。なかのお花、焦げてるの」


 燐が、カプセルを指し示す。

 言われて中を覗くと、確かに留められていたはずの青い花たちが、消し炭になっていた。


「それに、アタシもなんとなく、このお花から変な感じがしてて」

「それって、妖精の力的な……」

「多分……純くん、なにか知らない? これがなにか、特殊な力があるとか……」


 オレは衝撃を受けながら、その小物についてショップ店員が話していたセールストークを思い返した。

 

 ――こちら、ヨーロッパの教会で作られた魔除けのお守りでしてぇ。

 ――誰かからかけられた呪いとか、人をそそのかす悪魔とか、そういった悪いモノを跳ね返すおまじないがかかってるんですよぉ、はいー。


「純くん?」

「……灯里になんか買ってやらないとな」

「え?」

「いや、なんでもない」


 オレは立ち上がると、ようやく燐にほほえみかけることができた。

 ようやく、実感が湧いてきた。

 

 そうか。

 やったのか。

 燐は、オレを忘れなかった。そして、これからも忘れない。


 涙が出そうだった。

 夢以上に幸せな現実だった。


 が、みるみる高揚していくオレの心とは対照的に、燐の表情は曇っていった。

 途端に、オレも不安に陥ってしまう。

 まさか、まだなにか問題が……?


「り、燐? どうした……?」

「その、純くん……」


 心が締め付けられるように痛くなってくる。

 固唾を飲んで燐の次の返事を待つ。


 燐は、結んでいた口をゆっくりと開いた。

 

「その……アタシ、もうホームレスじゃないんだけど、いいかな……」

「……は?」


 質問の意図が読み取れない。

 困惑していると、燐がおずおずと説明を付け足した。


「その……純くんは、今までアタシのことをホームレスだから気にしてくれてたわけでさ。こうやって普通の生活送っちゃってたら、純くん関わってくれないんじゃないかなァ……って」


 オレは、開いた口が塞がらなかった。


「な……なにバカなことを……」

「だ、だってさ! 純くんにはもう、アタシが実は内気な人間だってバレちゃってるわけじゃん⁉︎ しかも、これからはアタシのすること全部覚えられちゃうわけだから、前みたいにグイグイいけないし! 絵しか描いてこなかった逃げてばっかの人間だって知られちゃってるし、灯里っちもいるし……アタシ、もう純くんに見てもらえる自信が……」

「……なんだそりゃ」


 オレが鼻で笑ってしまう。

 そして、思わず燐を抱き寄せていた。


「ふぇっ……⁉︎」


 胸元から、燐の戸惑う声が聞こえる。

 気にせず、強く抱き締める。


 細い銀の髪からは、シャンプーの清潔な香りがした。

 それで、彼女の苦しみが本当に終わったのだと理解する。


「今まではさ」


 オレは、燐の頭に向けて声をかける。


「普通の学生がしないことばっかしてきたから。これからは、普通の学生がやることばっかしよう」

「……例えば?」

「都会に遊びに行ったり、カラオケ行ったり、カフェ行ったりさ。一年我慢してきたこと、なんでも付き合ってやるから」

「……うん」

「それで、燐がやることは全部オレが覚えるよ。楽しかったことも、悲しかったことも、笑ったことも、泣いたことも、全部覚えてる。燐しか知らない記憶なんて、作らせないよ」

「うん……」

 

 返事と共に、腕の中からくぐもった嗚咽が聞こえ始める。

 

 オレもつられて泣けてきた。

 気づくと、喜びが涙となって、止まらなくなっていた。

 オレたちは二人して、抱き合いながら泣き続けた。


 ……どのくらいそうしていただろう。


「はぁ、だめだ。嬉し泣きはこれでおしまい……!」


 燐は明るく言って、オレの腕からゆっくりと離れた。

 大きな瞳からこぼれ落ちる涙を、腕でこする。

 オレも倣って目頭を拭った。

 

 そうだ。これは嬉し泣き。

 これからいくらだって流せる。

 

 燐は涙を全て振り払うと、改まったようにオレを呼んだ。


「ねぇ、純くん」

「ん?」

「これから、なにしよっか?」


 彼女の照れ隠しのような笑顔に、オレは目を細める。

 ワクワクするようなことが沢山起こる、そんな予感を心に感じていた。


 ようやく、ここから始まるんだ。

 オレと燐の、新しい日常が――


「ゆっくり決めよう。時間はたくさんあるから」


 快活に笑った彼女の瞳から、また一つ嬉し涙がはらりと落ちた。



 ― END —



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【カクヨムコン応募につき、一旦完結します!】


本作品はカクヨムコン応募作です。

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激かわホームレスの田村さんを助けたら、なぜか俺に懐いてベタベタしてくる件 〜臭いのでまずはお風呂に入れます。ちょ、裸で出てこないで!〜 伊矢祖レナ @kemonama

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