無口な御曹司とテレパスなOLの騒がしくて幸せな食卓
伊矢祖レナ
第一章 無口なキミ
第1話 愛してオムライス
(いつになったら仕事覚えんだオイ!)
職場。
午後二時。
不自然なくらい音のしないオフィスに、無音の怒鳴り声が響く。
私は、つい返事をしかけて、すんでのところで口を閉ざした。
まだ私は怒鳴られていない。
身を縮める私に、砂漠の如き寂寞たる頭皮を晒した中年男が、訝しげな視線を送る。
怯えている。
そう思われているのだろう。
「……小町さんあのね。ここは作成日付じゃなくて、承認日付を入れてって言ってるでしょういつも」
男は怒りを抑えた声で指摘し、私はギュッと目を瞑って頷く。
いつも、と言われることに不満はある。
私がこんな新入社員のようなミスをやらかしたのは、今回が初めてだ。
多分、他の人間と勘違いしている。
というか、つい数ヶ月前にパワハラ騒動で飛ばされてきたこの不毛の地の主が、『いつも』などという言葉を使うべきではない。
しかし、私は甘んじて頭を下げる。
その方が早く済む、という計算からである。というのは自分への強がりである。
本当は、怖いからだ。
人を刺激するのが、どうしようもなく……怖い。
怖くて仕方がない。
なぜなら……
「今回はこっちで直しとくから。次からは頼むよ」
(チッ、このクソ忙しいときに……男にうつつ抜かしてっからミスすんだよ……ハァ……)
人が心の奥にしまい込んだ声が、私には聞こえるからだ。
◇
「はぁ……」
ため息が白く浮かぶ、夜十時。
スーパーのレジ袋を手に、帰路につく。
料理をする体力は、正直、ない。
なのに、わざわざ帰り道にスーパーに寄ってしまうのは、料理好きの習慣というか、性というか……
四年前、華の女子大生からしみったれた独身OLに身を落としてからというもの、私は料理をすることでストレスを解消していた。
友達もろくにいない、趣味も他にない私は、そうやって生きるしかなかった。
「寒……」
マフラーの中に首をすくめ、思わずつぶやく。
しみったれた独身OLにふさわしい、しみったれたアパートの階段を登る。
上司の男に叱られ、残業し、丸一日溜めたストレスを料理で解消する。
自分でも否定できないほど、しみったれた日常だ。
ポジティブな刺激もなく、身と心を削るだけの、終わりのないマラソンのような生活……
ため息がもう一度、空中に湯気のように浮かんで消え、我が足は我がしみったれた部屋のあるフロアをついに踏む。
そして、気づいた。
……誰かが、廊下で、うずくまっている。
それも、私の部屋の正面で。
夜十時である。
私はドキドキしながら目を瞠って、それが見間違いではないことを知る。
もっとドキドキする。
出待ちされるなど、身に覚えがない。
足音を極力立てないように、スルスルと数歩前に踏み出す。
見た目は、若い子だった。
そして、学校の制服を着ていた。
多分だけど、男子高校生だ。
それは、地べたに体育座りで膝に顔を埋めていて、まるで鍵を忘れて締め出されてしまって親の帰りを待つ子供のようだった。
怖すぎた。
このしみったれ独身OLの生活に、飛び込んでくるべき生物ではない。
部屋を間違いかもしれない。
私の思考は当然の結論に到達する。
私は恐怖心と善良さの狭間で揺れながら、なんとか足を励まして彼に近づいた。
そして、
「あの……キミ、大丈夫……?」
彼の顔が、初めて上がった。
黒いまっすぐな髪がふわっと舞い揺れて、その奥から黒曜石みたいな瞳が私を眺める。
「……青葉さん」
彼は私の名前を口にして、私は電撃を受けたように立ちすくむ。
今の時代、オートロックなしの築深アパートの表札に名前を乗せるようなセキュリティガバガバ人間など一人たりとも存在しない。
つまり、この子は、元々私を知っているのだ。
そして、多分、私も彼を知っている。
声も、身長も、雰囲気も、随分変わったけれど。
そのどこか蠱惑的な、母親譲りの瞳が私の記憶を刺激した。
私は恐る恐る頭に浮かぶ名前を口にした。
「もしかして……海斗くん?」
「……はい、海斗です……絢辻海斗」
体育座りの彼は、ほんの少しだけ、目を細めた。
「青葉お姉ちゃん」
私の口は半開きであった。
「懐かしい、その呼び方……」
それもそのはず。
彼と会うのは数年ぶり。
今後、人生で交わることもないと思っていたほど短い間の特殊な関係だったからだ。
「海斗くん、どうしてこんなところに……」
「あの……俺……実は……」
海斗くんは、一度口を閉ざして、黙り込む。
結構長く黙り込む。
「実は?」
「その……」
……こんなに無口な子だったかしら。
私が自分の記憶を疑い始めたそのとき、人気のない夜の廊下に、
ぐぅぅぅ。
となにかを絞るような音が響いた。
目の前の男の子の顔が、腹を押さえてみるみる赤くなっている。
どうやら、胃のほうが雄弁なようだ。
「晩御飯まだなら、作ってあげるけど」
「え」
彼の顔が、一瞬輝く。
声が聞こえなくても、嬉しがっているのは一目瞭然だ。
「それに、寒いでしょ。なか入って」
「あ……ありがとうございます……」
彼は少し遠慮するそぶりを見せながらも、私の後についてきた。
私は、もうずっと私より背が高くなった存在を背中に感じながら、ドアの鍵を開ける。
そして、ふと思い至った。
男の子を家にあげるのは、これが初めてだな。
意識してるわけじゃないけど……昨日、掃除しておいてよかった。
◇
もう十年も前になるか。
当時、華のSJK(高校二年生女子)だった私は、憧れていた職に就くために、絢辻家にお世話になっていたことがあった。
遠い親戚の知り合いの知り合いという、要するにただの他人の私に本当に親身にしてくれた、ありがたい家である。
諸事情あって、今となっては夢破れ、無関係な仕事で消耗しているのが大変申し訳ないけれど。
そして、そこの御曹司が、彼、絢辻海斗くんだった。
当時は六、七歳だったと記憶している。
「ずっと外で待ってたの?」
私はキッチンでエプロンを巻きながら、居間の海斗くんに声をかける。
海斗くんは借りてきた猫みたいに椅子に座ってじっとしている。
彼は口を動かさずに、首だけ動かして肯定した。
「寒かったでしょ」
首肯する。
そして、
ぐぅ。
音が部屋にも鳴り響いた。
まるで、無口な彼の代わりに、胃が要求してくるみたいだ。
私はチーフに急かされる下っ端シェフみたいに、晩御飯作りに取り掛かることにした。
まずは、下ごしらえ。
ボウルに白くて綺麗な卵を割ってほぐす。
黄身と白身が、とろとろと黄色い液体となって馴染んでいく。
今日の献立は、オムライス。
疲れたときには、どうしてもあの、ふわとろで優しくて甘しょっぱい味が欲しくなるのだ。
お米は硬めに炊いたものがあるので、それにふきんを被せて水気を飛ばしておく。
オムライスは卵よりもお米が命だと私は思っている。
溶かしたバターで玉ねぎを透明になるまで炒めたら、いい感じに切っておいた鶏肉とマッシュルームを追加して、さらにバター!
正直、懐事情から言ってとっても贅沢だけど、自炊くらい贅沢がしたいのである。
それが趣味というものだ。
ケチャップで味をつけたあと、塩胡椒をしたライスを投入して、手早く炒め合わせたら、チキンライスの完成。
景気付けにカンカンと鍋を鳴らして、お客様の様子を見る。
ぐぅぅぅぅ。
彼はダイニングテーブルに額をつけて倒れていた。
(いい匂いすぎる……死にそう……)
初めて、彼の心の声が聞こえてきた。
基本的に、声はその人が強い感情に満たされたときにのみ聞こえてくる。
怒りとか、恨みとか、苦しみとかのネガティブな感情は、その最たる例だ。
だから、彼は今、苦しんでいるわけだ。
餓死させる前に、完成させなければ。
私は温めておいた別のフライパンに卵液を一気に流し込む。
ジュワッとバターの跳ねる音が弾ける。
菜箸で混ぜ合わせつつ、卵の底に膜ができるのを確認。
手前を折って、奥を返して、手際よく閉じていく。
撫でたくなるほど綺麗な、卵肌のオムレツが鉄板の上に現れた。
これができるようになるまでに、何度ぐずついたスクランブルエッグもどきを召喚したことか……
チキンライスの上に乗せて、自分の分もサクッと作る。
赤い山の上に、二つの麗しい黄色い果実。
魅惑の光景だ。
お皿を持って、私がダイニングへ顔を出した途端、海斗くんは顔を上げた。
気配を察知したのが、まるで犬のようで思わず微笑んでしまう。
「ごめんね、待たせて。どうぞ」
彼の前に皿を置くと、
(すごい。お店みたい……)
彼は、キラキラと目を輝かせて、鎮座した卵を期待げに見つめた。
「ありがとう……ございます……これ、今から割るんですよね……?」
そう。
私はまだ、丸いクッションのようなオムレツに、切れ目を入れていないのだ。
「その通りです」
私はウェイターよろしく恭しく告げ、一緒に持ってきたナイフで、彼のオムレツに縦に切り目を入れていく。
湯気と共に、とろとろの卵が溢れ出て、お米の山を覆った。
これこれ。
この瞬間がオムライスの醍醐味です。
私が、海斗くんがどう反応するのか楽しみにしていると、
(はぁぅん……!♡ しゅっごいですわ〜!♡)
……ん?
今、なにか聞こえたな。
物理的には、無音だけど。
心の声が届いた気がする。
……いや、さすがに聞き間違いか。
私は、上の空になりながら、自分のオムライスも開く。
すると、隣で再び謎の声がする。
(ふぁあ……何度見ても、うちゅくちいですわね……たまらない……ご開帳isらびゅですわ……)
彼の対面に座る。
密かに首を傾げる。
今や、オムライスのことが頭に入らない。
え、海斗くんが言ってる……?
眉を寄せながら、男子高校生の姿を眺める。
濃紺ブレザーの制服を身にまとう彼は、高校生にしては落ち着き払っていた。
クールで、年齢以上に成熟していて、寡黙。
大人の男の雰囲気だ。
長いまつ毛、突き出た喉仏、ほっそりとして長い指には、どこか色気さえ漂っている。
そんな彼が、ご開帳isらびゅですわ?
「……食べて……いいですか」
「わっ! も、もちろん! 召し上がれ」
「……いただきます」
今どき手を合わせていただきますと言う、真剣な表情の海斗くん。
なんて礼儀正しい子だろう。
そんな子が、ご開帳isらびゅですわ?
私は、混乱して、頭を軽く叩いてみてから、一旦すべてを無かったことにしようとした。
そうだ、そもそもこの力だって、よくわからないものなのだ。
彼が言っていないはずのものが聞こえていても、おかしくはない。
スプーンを取った彼を凝視しながら思う私の前で、彼は、私のふわとろ特製オムライスを口に運んだ。
その刹那――
(ひゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん……ッ!!!!!!♡♡♡♡♡♡♡♡)
私の脳内に流れ込んできたのは、男の嬌声だった。
(はわわわわわわわわっ!!!???)
そして鳴き声。
(び、美味ですわ〜‼)
辛うじて意味の通る言葉が聞こえてくる。
そこから、言葉の奔流は止まらなかった。
(な、なんですのこれ⁉ こんな完璧なオムライス、食べたことないですわ! も、もう一口……)
声に合わせるように、彼が厳かに口にスプーンを運ぶ。
(はわわわわんっ!!!♡♡♡♡)
私は静かに我が眉間を摘む。
疑う余地がない。
これは彼由来の声だ。
海斗くんが、はわわわん言うているのだ。
困惑する私の前で、彼は仏頂面のまま黙々と食事をしている。
皿に当たるスプーンの音だけが響く、静かな食卓だった。
見た目上は。
(あぁ……オムライス……甘くとろける卵が塩気のあるチキンライスに絡んで、舌を至福の境地へ誘っていく……これはまさに食べる宝石ですわ……)
食レポまで始めたよこの子。
ていうかなんでお嬢様言葉なの……
(ほら、画面の前のみなさん見てくださいまし⁉ このきめ細かな表面、そしてトロトロな魅惑の中身! ギャップの差で大変なことになっちゃってますわよ⁉)
キミだよ。
ギャップで大変なことになっちゃってるのは。
(これがギャップ萌えってやつですの⁉ オムライスたん萌えですわ! 一生推しますわ! 言いたいことがあるんだよ! やっぱりオムたんかわいいよ!好き好き大好きやっぱ好き!)
彼は真顔であった。
終始表情を変えない男子高校生が、オムライスの山を黙々と崩し続けながら、脳みそのなかでは、ガチ恋口上を叫び続けているのである。
それは恐ろしいほど狂気的な静けさだった。
オムたんに向けた「ア、イ、シ、テ、ル!」のコールがひと段落したあと、私はおずおず声をかけた。
「海斗くん……お、おいしい?」
すると、彼は少しだけ恥ずかしそうに私を上目遣いに見ると、
「あ、はい……おいしいです……」
そう告げて、再び食事に戻った。
(本当においしいですわ……やっぱりお姉ちゃんに会いに来てよかったですわね……しゅき……)
無口で、恥ずかしがりで、脳内では饒舌。
そんな男子高校生との静かでうるさい日常が、私のしみったれた生活に少しのスパイスを添えようとしていた。
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