第2話 癒してラグーソース(1)
今日は金曜日である。
麗しき、週末にして終末の響き。
大人になると『金』という漢字が二重の意味で好きになる。
目を覚ました私は、モーニングルーチンという名の地獄へ向かう準備をしながら、いつもより心が軽いのを感じていた。
楽しいお休みを過ごした後のような、活力に満ちた状態だ。
原因は、はしたないまでにわかっている。
昨日現れた、予想だにしない訪問者に決まってる。
唐突にやってきた昔馴染みの高校生、絢辻海斗くんは、オムライスを食べた後再びダイニングテーブルに額をつけ、寝落ちかけてしまった。
高校生が眠い盛りなのは痛いほど知っているけれど、友達の少ない私の家には、人を泊めるための布団がない。
私は慌てて起こして、彼を家に帰した。
夜道で心配だったけれど、彼は、
「青葉さんがひとりで戻るほうが……危ないと思います……」
とぐうの音も出ない一言を呟いて、のそのそと闇夜に消えてしまった。
それが、私の長年変化のなかった生活には、刺激的だったわけだ。
まるで、久しぶりに呼吸をしたみたいだった。
私は、新入社員の頃から変えていないダークスーツに着替え、パンプスの踵を合わせる。
誰もいない自室の電気を消す。
なんとなく、海斗くんの礼儀正しさを思いだした。
「……行ってきます」
私はいつも言わない挨拶を口にして、家を出た。
◇
(勘弁してくれよオイ……ッ!)
心の声が聞こえる。
また静かなオフィスに響いている。
私への怒りの言葉だ。
不毛の地の主人は、画面上の資料を見ては、前に棒立ちする私を見て、ため息をつく。
ここでまっすぐ見つめ返さなければ、また「気弱な奴」と評価が落ちるのはわかっている。
でも、顔を上げることは……恐怖だ。
激しい感情が声となって聞こえる私には、これからの予想がついてしまうから。
先に謝ってしまいたいくらいだ。
「……小町さんさ。ちょっと最近、気が緩んでるんじゃない?」
別に、この貧相な頭皮を持つ男――私の上司である課長――はそれほど悪い人間ではない。
確かに、彼がパワハラで飛ばされて私たちの課に来たときは、職場は騒然とした。
しかし、人事部による幾多のハラスメント防止講習にサッと湯通しされ、彼は生まれ変わったのだ。
「すいません……」
「謝るの早いって」
「あ……」
しまった。
先を読みすぎた。
私は後悔し、彼は耐えるように眉間を寄せる。
(まだなにが悪いかも言ってねぇのに。とりあえず謝りゃいいと思ってるよこの女)
そんな強い怒りを覚えても、我慢はできる。
実際に怒鳴ることも多くない。
令和の社会人としてコンプライアンスなる高尚な精神を身につけた彼は、もはや世間一般的には、仕事に熱いだけの良い上司なのだ。
だから、悪いのはその努力さえ貫いて声を聞きとってしまう私のほうだ。
誰も心まで聞かれているなんて思わないから、文句を言われる筋合いもない。
むしろ怒られるのは私だろう。
勝手に人の心をきいているのだから。
「とりあえず、修正箇所多すぎるから。後で文面にして送る」
「はい」
「頼むよ。期待してるんだから」
「はい……」
私は、からくり人形みたいにギギっと頭を上げ下げしてから、自分のデスクへ戻る。
すると、隣から椅子がぐっと近寄ってきた。
「な〜にが期待してるって感じっすよねぇ……!」
衝立の影に隠れて、課長に向けてあっかんべしておられる。
彼女、築山美玖は、私の二年下の後輩であった。
大変愛らしい容貌を持ち、フランクで愛されキャラな彼女は、新しく来た課長のことをことのほか嫌っている。
「あれ、講習で知った言葉まるまる使ってるだけっすよ。あーやだ。教科書通りにしか生きられない機械人間。考える脳がないんすよ」
「はは……聞こえないようにね……」
彼女が私を気に入ってくれてるのは嬉しい。
この物静かな課風の職場で、唯一快活で、毎朝元気に挨拶する彼女を癒しと呼ぶ人も多い。
ただ……
(チッ。ガチであのハゲ死ねよ……飛び降りて死ね……)
ただ、脳内での口が大層悪いので、その声をきくたびに私はへこんでしまった。
端的に言って、苦手なのだ。
彼女が。
声が聞こえるが故に……
彼女だけじゃない。
少し顔を上げればわかる。
静かなはずの職場は、私にしか聞こえないドロドロとした声で溢れていた。
しれっとした顔で倫理の欠如した想像を繰り広げる人。
ニコニコしながら殺意に満ち溢れている人。
一枚皮をめくれば、この世界は修羅の国だと、声のきこえる私は痛いほど知っていた。
一見優しそうな人や穏やかそうな人が、心のなかでなにを考えているのか。
知ったら、誰でもゾッとすることだろう。
私だってまっとうな社会人になれると、戦ってみた四年間だった。
戦ってみて、よくわかった。
私は、疲弊していた。
最近、ミスをしがちなのも、積もり積もった疲れのせいだと気づいている。
早く、一人になる時間が欲しい。
この呪詛渦巻く職場から、耳を塞いで逃げ出したい。
私が真に苦手なのは、築山さんではなく、社会そのもの。
本当の社会不適合者とは、私のことだ。
限界が近いのを、感じていた。
◇
なんとか今週も生き抜いた。
華金の思考は、そればかりである。
今日は、牛を煮込んでやると決めていた。
牛の野郎をじっくり執拗に煮込んで、トッロトロのグッデグデにしてやる。
それを見ながら、赤ワインを一杯やるのだ。
それが私の、密かで寂しい華金の楽しみかただった。
いつものようにスーパーの買い物袋を引っ提げながら、私が貧困アパートの階段を昇りきる。
すると、また制服姿の男子高校生が私の部屋の横に座り込んでいた。
デジャブか?
または、幻覚か?
「えっと、海斗くん?」
声をかけると、思春期の男子は私を黒い宝石のような瞳で見上げてくる。
どっちかというと、美人な母親によく似ている顔立ちだった。
そのなかに、わずかに残る幼さが、母性本能をくすぐってくる。
大人と子供の狭間を漂う、特別な美だ。
学校でも、きっとモテていることだろう。
「あ……こんばんは……青葉さん……」
(今日も綺麗だなぁ……)
「へっ!?」
不意に飛んできた褒め言葉に、私はつい反応してしまった。
綺麗……!?
い、いやいや。
きっと、なにか別のことに違いない。月とか。
こんな、疲れを化粧の上塗りで隠しているような死に顔OLを、男子高校生が綺麗なんて言うはずがない。
「どうかしましたか……?」
彼は、不思議そうに私を見つめている。
飼い主を待つ犬のようだ。
「ご、ごめんね。なんでもない……海斗くんこそ、どうしたの?」
「あの……その……」
ぐぅ。
デジャブか?
返事の代わりに腹が鳴いておる。
「えーっと……とりあえず、今日もご飯食べてく?」
彼は、申し訳なさそうに頬を染めて、頷いた。
――――――――――――――――――
「ラグー」とはフランス語やイタリア語で「煮込む」という意味です。
肉がごろっとしてるおしゃんなソース。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます