第3話 癒してラグーソース(2)
冷蔵庫から取り出したるは、塩を振って一晩置いた牛スネ肉。
愛用しているお肉屋さんから買った、華金用の食材である。
私はニヤニヤしてしまう口を抑えつつ、ダイニングを覗き込む。
空腹の海斗くんには、間を繋ぐために、果物を摘んでもらっていた。
もそもそとみかんを剥いて食べているのは、どこか小動物を感じさせる。
寡黙な子だった。
言葉数だけではなく、心のなかもである。
精神の揺れ動きが少ない子なのだろう。
平日で消耗し切ったわたしには、それはありがたいことだった。
さて、本来はここから二時間じっくり弱火で煮る予定だったのだが、腹ペコ思春期さんがいるためにそう悠長にはしていられない。
よって、赤ワインは中止です。
中止でーす。
そのため、私は棚から久しぶりに圧力鍋を取り出した。
文明の利器によって、時短を図るのだ。
セロリの筋を取ったり、人参の皮を剥いたりと準備していると、もくもくと足音を立てて、男子高校生が顔を出した。
横から私の作業を覗き込んでくる。
近い。
「? テレビとか見てていいよ」
「いえ……その……なにか手伝おうかなって」
「あー。そうしたら、これやってもらおうかな」
私は適当に一口大に切った野菜をハンディーチョッパーに入れて渡す。
これも文明の利器だ。大変お世話になっている。
「これ……どうしたら……」
チョッパーを見たことがないらしかった。
不審げに触っている。
「そこのレバーを引っ張るだけで、みじんぎりにできるの。やってごらん」
彼は指示されたレバーに指をかけて引っ張り始めた。
中の刃が回り始めて、野菜の欠片を粉々にしていく。
(お、おぉ……!)
見た目は真顔だが、心は感動していた。
(おもしろすぎ)
何度も何度もレバーを引く。
野菜がソースになってしまう前に、私は彼の指を止めなければならなかった。
本当は粗みじん切りにしたかった粉みじん切りの野菜を鍋に入れ、ニンニクとオリーブオイルで加熱。
その間に、牛も焼く。
しっかり焼き色が付くまで焼いてから、鍋に移して、赤ワインを入れて中火にかけて煮込む。
これがソースの大元だ。
その間も、海斗くんは横から離れない。
そして距離が近い。
「……手際……いいですね」
ボソッ。
「あ、ありがとう」
なんだか、こそばゆくて落ち着かない。
人から褒められることなんか、ここ数年なかったことを思い出した。
年下の男の子に褒められて照れているのが気恥ずかしくて、私は調理に集中するフリをする。
とはいえ、あとは煮込むだけ。
トマトペースト、ブイヨン、ローズマリー、ローリエをポイポイと圧力鍋に突っ込んでいき、加圧。
これでほとんどの工程は終了だ。
空いたコンロでフェットチーネをぐらぐら茹で始めながら、私はようやく質問の時間を得たのに気づいてハッとした。
「ところでずっと聞きそびれてたんだけど……どうしてうちの前にいたの?」
問いかけの相手は、まだ固いパスタを涎を垂らさん勢いで凝視している。
声が聞こえていないのかと思ったけれど、彼はポツリと呟いた。
「俺、この近くで住んでるから……」
「え、そうだったの!? いつ引っ越してきたの?」
「最近……住んでるの、俺だけだけど……」
じっくりと、一つずつ情報を与えてくれる。
「すごいね。じゃあ、一人暮らしってこと?」
「うん……そうしたいって言ったら、お父さんが買ってくれた……」
買う。
借りるではなく。
私はビビりながら続きを尋ねる。
「……えっと、どこに住んでるのかな?」
「北口の一番大きいマンション……わかる……かな……」
えぇ、存じておりますとも。
あの光り輝くタワマンのことですね。
毎日、見下ろされながら通勤してますけど、あれですね。
私は挙動不審になった。
汗が吹き出し、視点が定まらず、足元がふらつく。
「わ、私の家、よくわかったね……」
逃げた。
眼前に聳える貧富の差から逃げ出した。
哀れな敗走兵と化した私に、無垢な勝者たる彼は小首を傾げて告げる。
「年賀状……」
「あぁ」
確かに、就職した年に一度、絢辻家に送っていた。
職業関係でお世話になった手前、絢辻家には就職したということと、全然別職種ですいませんという謝罪の一報を入れたのだ。
震えが止まらない。
それがこんなことになるなんて。
こんな上流階級な子に、自家製オムライスとか食べさせてよかったのかしら……
「す、すごいね……タワマンに一人暮らし……」
「だから、寂しくて」
ぽつりとこぼした言葉は、私に思わず固まった。
圧力鍋がシュルシュルと音を立てている。
パスタがたっぷりの湯の中で踊っている。
相変わらず、心の声は聞こえてこないけれど。
細かい事情は知らないけれど。
彼の思いは伝わった。
そんな気がした。
私の料理は趣味である。
私という人間は、社会不適合のしみったれである。
そんな中途半端な存在でも、彼が喜んでくれるのなら、嬉しい。
(まだ……かな……)
隣から切ない声が聞こえて、ぐぅぅ、と腹が鳴った。
少しだけ待たせ過ぎてしまったかもしれない。
「もう少しだけ待っててね」
私は、子供のような彼に微笑んで言った。
「きっと美味しく出来てるから」
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フェットチーネは、8mmくらいの平めん状の長いパスタです。
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