第2話 葉村初奈とは言いません

「ホットエクストラバニララテショットトゥーゴー……あ、クラシコ」

「かしこまりました。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「…………」

「偽名でも構いませんよ。紙カップに書いておく、合言葉のようなものですから」

「……ま、魔女で……」


 日々何百回と繰り返されるカウンターでのやりとりをここまで済ませてようやく、高垣環はおぼろげにだが思い出した。

 そういえば昨日来たお客さんにも、魔女がどうとか言ったような気がする。なぜあの時は「魔女」なんて失礼なことを言ったのだろう。


「魔女なんですか?」

「…………あ、はい……!」


 だめだ、さっぱり思い出せない。

 無言でこくこくと頷いている客は、サングラスとマスクで顔を覆っている。住んでいる三ツ沢なら不審者だが、ここは街並みの美意識が街行く人々にまで感染したみなとみらいのショッピングモールだ。顔を隠す人なんてそう珍しくもない。


「では出来上がりましたらお呼びします。受け取り口の前に並んでお待ちください」


 結局、環の印象に残ったのは、この女性が魔女らしくもないペールピンクのダッフルコートを着ている自称魔女ということだけ。最近の魔女は、お伽話の黒づくめなイメージとはずいぶん違ってる、なんてくだらないことを考えつつエスプレッソマシンのスチームを吹かせる。

 ホット、クラシコ、カフェラテ。正規のレシピにエスプレッソをエクストラショットして、バニラで甘さを足す。紙カップには「魔女」と漢字で書いた。


「お待たせしました。お熱いのでお気をつけてくださいね。お砂糖ミルク等はあちらのコンディメンドバーをご自由にお使いください」

「え……?」

「何かございましたか?」


 尋ねてみても、顔を隠した自称魔女は黙ったままだ。首を左右に振って「魔女」と書かれたカップを受け取り歩き去って行く。なんとも朝らしくもない気落ちしたものだったが——


「すみません注文いいですか?」

「もちろんです。お待たせいたしました」


 ——そんなことは気に留める暇もない。

 客を捌き、店員を捌き、本部ともやり取りをする直営店の店舗マネージャーには、去り行く客よりも考えなければならないことが山ほどある。

 それは土日の連勤から月曜休を挟み、火曜日の朝がきても同じこと。


「……えっと、ホットクラシコ、エクストラバニララテショットトゥーゴー」

「かしこまりました。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」

「う……、うい…………」

「う……?」

「…………ま、魔女で……」


 環はやはり、自称魔女にビバレッジを作っていた。

 呪文の間違い方も「魔女」という呼び名も少なからず覚えはあったけれど、似たような呪文失敗は数えればキリがないし、理由など気にもならない。大事なのは注文通りにビバレッジを手早くビルドすること。紙カップに「魔女」と書き、エスプレッソマシンを動かす。


「お待たせしました。お熱いのでお気をつけてくださいね。お砂糖ミルク等はあちらのコンディメンドバーをご自由にお使いください」

「……魔女…………」

「ええ、そうお伺いしましたので。何かございましたか?」


 サングラスとマスクで顔を隠した女性客は、ふるふると首を横に振って、とぼとぼと茶色のコートをまとってモビーディックを後にした。

 後ろ姿など覚えがないし、去り行く茶色いコートの背中など見もしない。気にも留めないから、接客した記憶などところてん式に頭の中から消えている。


 モビーディックでコーヒーを売っているという話をすると、「常連客と恋が芽生えたりしないの?」とよく尋ねられる。


 そんな質問に環が「ない」と返すのは、モビーディックに出会いがないからじゃない。

 出会いはすぐ近くに転がっているのに、最初から期待などしていないから。

 だから高垣環の日常には出会いがなく、ただただ何も起こらない。


 @


 確かに名札を見るって前の日記には書いた!

 書いたけど……名札すら! 名札すら直視できない〜!

 「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」って!

 お伺いしたくてたまらないのはこっちなんですけど!


 なんで名札って胸元についてるの? 法律で決まってるの!?

 目のやり場に困る! 胸ばっか見てる女って思われたらどうすんの!

 そんな女として認知されたくないんだってえ〜!

 ただでさえ魔女なんて言われて第一印象悪いんだからさあ!

 

 それもこれも全部、占いなんてもの信じたせい!

 ピンク、青、茶色って着てったのに全然関係進んでない!

 なにがラッキーカラーだよ!? 昨日なんて休みだったし!

 やっぱ最初の黒づくめで行った方が……


 ……いやいやいやいや、黒づくめとか明らかに強すぎる!

 黒着ていいのはカッコいい女か、葬式の時だけだって!


 え、待って……魔女ってそういうこと……?

 黒い服着てたからだと思ったけど、強くてカッコいい女ってこと!?

 それなら全然アリ! 蛙化起こされないように必死で……


 うあああああああああ、違う! そうだ! 絶対そうだ!


 どう考えたって真逆じゃん!

 葬式みたいに陰鬱な女ってことじゃん!

 なんでちょっと期待した!?

 なんで強くてカッコいいと思われてればいいな、とか微塵でも思った!?

 根暗で陰キャなのバレてるって!

 キョドるの隠せないのバレたって!

 必死でキラキラ感演出してるの鼻で笑われてるんだ!


 いやいや、あの人は鼻で笑わない! てか人じゃない天使!

 だってあんなカッコいい女の人、見たことない……。


 せめて名前だけでも知れたら……。

 だから名札を見れたら済むんだけど、名札は胸元で……!

 はあ、だめだあ! またループしてるう!


 こうなれば……まずは名前を知ってもらうしかない……。

 名乗る時は自分からって、昔なんかで聞いたことあるし!


 決めた! 絶対名乗る!

 葉村初奈です! 葉村初奈です! 葉村初奈です!

 葉村初奈をよろしくお願いいたします!


 *


「おはようございます。ご注文はお決まりですか?」


 アンビエンスみなとみらいに朝が来る。そして数時間早く、モビーディックの白い鯨のネオンサインが、ひと気もまばらなモールの磨かれた床を泳ぎ始める。

 訪れる客はまるで巨大な鯨の餌だ。

 冷えた体を温めてくれるコーヒーの香りに、あるいはルーティーンに突き動かされ、自然と店内に飲み込まれていく。壁をぶち抜いた開放的なデザインの店内は来るものを拒まず去るものを追わない。

 それは店舗マネージャーを務める、環の考え方にも近いもの。


「……ホットクラシコ……エクストラバニララテショット、トゥーゴー」

「かしこまりました。お名前をお伺いしてもよろしいですか?」


 もう百万遍は繰り返し、これからも百万遍は言っていくであろうマニュアル対応をして、空のクラシコサイズのカップにサインペンを近づける。

 そして改めて客の姿を見た。真っ黒なトレンチコートの肩に、よく手入れされたダークグレージュの艶めくロングヘアが溶けている。ただ表情は伺えない。サングラスとマスクで覆っていて、彼女がどこを見ているかもわからない。

 それでも、受ける印象には覚えがあった。

 つい最近、先週。こんな格好をした客を相手にしたような気がする。その時に受けた印象はなんだっただろう。頭を捻った環は、とうとう思い出す。


「……あの! 名前、ですけど……初奈——」

「あ、そうだ。魔女」

「はえ……!?」


 ここ3、4日。ほんのり感じる違和感があった。

 そう、上から下まで黒づくめだったから魔女。そんな単純な理由でカップに魔女の絵を描いたことを思い出した。途端独り言が出てしまって、環は慌てて平謝りする。


「失礼しました。以前、そう名乗った素敵なお客様がいらしたことをふと思い出してしまって」

「あっ、えっ……あっ…………!?」

「それで、お名前はいかがしましょう? 偽名でも——」


 マニュアル通りに尋ねるより早く、何か言いかけた女性客は言葉を返す。


「ま、魔女で……お願いします!」


 口調はやけに強かった。これまでのぼそぼそとした語り口が急に大声になる様は、間違えて音量ボリュームをマックスまで上げてしまったスマホのよう。

 そして、ずっと俯いていた顔を上げている。濃い色のサングラスのせいで視線はまったく辿れないが、きっと黒のガラス越しに目が合っている。


「かしこまりました。では出来上がりましたらお呼びします。受け取り口の前に並んでお待ちください」


 そうして、あとは流れ作業だ。エスプレッソマシンを動かし、エクストラショットのバニラシロップ入りカフェラテを受け渡しテーブルに置く。コンディメントバー——マドラーに紙ナプキン、あるいはカスタム用の砂糖やミルク、スパイスなどを無償提供している棚——への誘導を終えると、女性客は紙カップを持って環を見つめていた。


「何かございましたか?」


 問いかけると、黒づくめの自称魔女は少し俯いて、消え入りそうな声でぼそりと告げる。


「……ありがとう」

「ええ、ご利用ありがとうございます。よい一日になりますように」


 そうマニュアル通りに返すと、自称魔女は振り向きざまに脱兎のごとく走り去った。そう言えば前も、魔女の後に黒ウサギがどうのと思ったような。


「……似たような人がいるなあ」


 いや、他人の空似だろう。空似かどうかも怪しいくらい、以前に相手をしたときのことを覚えていない。

 だってもし、先ほどの客と以前の魔女が同一人物なら、「それ私です」のひと言くらい言うはずだから。それがなかったということは、たまたま同じようなファッションセンスの人だったということ。自分が知らないだけで、流行っているファッションなのかもしれない。いやきっとそうなのだろう。

 そう結論づけて、環は仕事に戻る。

 そして当然のように、先ほどのやりとりも記憶の片隅に追いやられていく。

 意識すらしていない人間との交流は、ほとんど記憶になど残らないのだから。


 @


 ラッキーカラー通り黒着てって正解!

 あの人に認知してもらえた!

 あの時の魔女って絶対分かってくれた!!

 しかも初めて目合わせれた!!!

 顔良すぎてヤバい! 顔面兵器!

 世の女みんな絶対あの顔好きだって!

 

 名前は……覚えてもらえなかったけど、いい!

 今は魔女でいい! てか魔女がいい!

 あの人の記憶に残ってた!

 「素敵」って思ってくれてた!

 ちょっと照れ笑いするのが可愛かった!!!

 今日はお酒飲んじゃお! 買ってた生ハムも食べちゃお!

 最の高!


 明日はどうしようかな。

 そろそろ試してみちゃいますかあ?


 「いつもの」


 うわああああああヤバい! カッコよすぎる!


 呪文で注文するのもカッコいいけど!

 ホットクラシコエクストラバニララテショットトゥーゴーじゃなくて!

 「いつもの」って言ってみたい! まだ早いかな!?


 でもまずは……うん。あの人の名前を聞く!

 もう名札なんて見ない! 今の初奈なら直接聞ける!

 がんばる!

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