みなとみらいで会いましょう

パラダイス農家

第1話 エクストラ・デイズ

 モビーディックでコーヒーを売っているという話をすると、「常連客と恋が芽生えたりしないの?」とよく尋ねられる。

 質問自体は別になんとも思わない。ドラマや小説でよくあるベタな出会いを夢見る人は意外と多いことに感心するだけ。週5で9時18時。平日400杯、休日ならその3倍はカップをビバレッジで満たしているのだから、よほど毎日来るような客でないと、顔などところてん式に頭の中から消えている。だから正直に「ない」と答えると、「なんだか夢がないんだね」とがっかりされて話は終わる。

 勝手に期待する方が悪い。

 文句のひとつも言いたくなるが、ちょっとした何かを——それこそエスプレッソにエスプーマミルクを乗せたクリーミーなラテのように、甘く淡い恋を夢見る気持ちはわからなくもない。


 「いらっしゃいませ」を「今日もありがとう」と言える関係。

 「トゥーゴークラシコホットエクストラショットバニララテ」を「いつもの」と言える関係。

 それはきっと、日々を豊かにするエクストラな幸せだ。

 残念ながら私には、縁遠いことだろうけれど。


 *

   みなとみらいで会いましょう

 *


「今日から12月です。お客様もたくさんお見えになる期間ですので、みんな頑張って。それと月末のシフト希望は早めに出してください」


 集めたスタッフクルー達への伝達事項とともに、慌ただしい朝が始まった。

 カウンター内の機材と、冷蔵庫内の在庫の確認。内容物の賞味期限を念のため調べ、天井からぶら下がったペンダントライトの埃から、トイレやゴミ箱の中に至るまで店内を隅々まで掃き清める。それが終わればようやくひと息。試飲を兼ねた、まかないのブレンドコーヒーで、異常がないかを全員でチェックする。

 色味、匂い、味。本日も異常なし。

 安堵して、マネージャーにのみ許されたアイヴォリーのエプロンの紐を強く縛って、仕事スイッチを入れる。これがモーニングルーティーン。


 横浜の大型ショッピングモール、アンビエンスみなとみらい。

 エントランス入ってすぐの一等地に、高垣たかがきたまきがマネージャーを務めるコーヒーチェーン・モビーディックがある。

 今や自動販売機ですら気軽にコーヒーが飲める時代。それでもモビーディックから客足が途絶えないのは、こだわりぬいた材料と客を迎えるホスピタリティ、そして白い鯨モビーディックのロゴ入りタンブラーを持ち歩く、自分らしさを求めているから。


 平凡な日常にふと香る、ちょっと多めエクストラな幸せ。

 それがモビーディック・アンビエンスみなとみらい店マネージャー・高垣環の理想。開店時間を静かに待って、開始とともに笑顔で告げた。


「おはようございます。ご注文はお決まりですか?」


 *


 午前9時の開店直後は、一般客よりも入館証や社員証を提げたご近所さんがやってくる。大半のテナントより1時間ほど早く開店するモビーディックでの一杯が、彼ら彼女らのルーティーンだ。

 大事な出勤前のひとときを邪魔してはならない。

 右のレジから左の受け渡しカウンターへ、手早く客捌いていたそんな時。まるで環がカウンターに戻ったタイミングを見計らうように、客がレジ前にやってくる。


「おはようございます。ご注文はお決まりですか?」

「……ホットエクストラバニララテショットトゥーゴー」


 気を張らない自然な笑顔で対応した環は、消え入りそうな早口で呟かれた不思議な呪文を耳にした。

 それは不思議な女性客だった。

 濡れたカラスのように輝くダークグレージュのロングヘア。顔の北半球を巨大なサングラスで、南半球をマスクで。さらに真っ黒なトレンチコートといかにも呪文を唱える魔女めいた風貌。だが、彼女が唱えたのは呪文と言えども呪文コーリング、つまり注文オーダーだ。

 これはモビーディック最大の売り。好みに合わせてビバレッジをカスタマイズすることができるというもの。自宅のような気楽さでコーヒーのあるひと時を愉しんでもらいたいなんて創業者の理念が形作った結晶なのだが、それゆえ時々事故が起こる。


「かしこまりました。お持ち帰り、バニラシロップ追加の温かいラテでよろしいでしょうか」


 サングラスにマスク姿の女性は、呪文が通じて嬉しかったのか、しばし固まったかと思うと黙ってこくこくと頷いている。

 一方で、呪文を食らった環はしばし悩む。

 理解できなかった訳ではない。注文したかったであろうビバレッジは、ある程度は目星がついているのだが確証が持てないのだ。

 なぜなら彼女の唱えた呪文は見事なまでに間違えている。


「では少々聞き取れなかったもので、サイズをお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 おそらく正しい呪文は「トゥーゴー、ホットエクストラショットバニララテ」。

 ホットのカフェラテをベースに、エスプレッソを1ショット追加。そこへバニラシロップを加えて苦さと甘さを引き立てる、にがあまなカフェラテ。それをお持ち帰り。

 追加を指定するエクストラの位置や、各呪文の語順。ついでにサイズ指定も抜けている不完全な呪文だ。

 ただ、呪文の間違いはままあること。

 新米魔法使いが覚えた呪文を唱えたがるように、「コンセンサス」や「アグリー」と合意も了承も取る立場にない社会人一年生がビジネス用語を使いたがるように、モビーディックのカスタム呪文にも抗いがたい魅力がある。


「こちら期間限定のクリスマスカップなんです。デザインが違って可愛いんですよ」


 魔女はぴくりと固まってしまったので、すぐさま環は助け舟を出す。

 モビーディックが売っているのはコーヒーとおもてなしだ。呪文を間違えたことを諭して客に恥をかかせるなど言語道断。だからそれとなく気を逸らさせて、レジ横の見本カップを直接選ばせてサイズを決める。

 巨大なサングラスと、黒のマスク。

 表情がさっぱり伺えない彼女は、両手をわなわなと振るわせながら二番目に大きいサイズ——クラシコを掴んでいた。クリスマスカラーの紙カップに這った白く細い指先には、指輪の代わりに絆創膏が巻かれている。


「では、こちらのサイズで承りますね」


 紙カップを預かった彼女の両手は、カップを掴んだままの姿で時が止まったかのように固まっていた。まるで砂遊びで作った泥団子を自慢するかのような。「頑張って作ったね」と声をかけられるのを待っているような。

 それが不思議と可愛らしくて、大人の女性を前に子どもをあやすような柔らかい声をかけそうになる。発揮する予定もない母性めいた感情は、社会性でどうにか押し留めた。


「お名前はいかがいたしましょう?」


 尋ねると彼女は俯いた。イヤホンでもしているのか、あるいは聴こえなかったのか。


「偽名でも構いませんよ。紙カップに書いておく、合言葉のようなものですから」


 個人情報を悪用する訳じゃないと説明しても、女性は何も答えない。代わりに真っ黒なトレンチコートの胸元を押さえているばかりで、返答を待ってみても気まずい沈黙が流れるだけ。しかもついぞ胸元を押さえていた手をだらりと垂らし、何かに落胆したように大きく肩で息を吐く。


 彼女は謎だ。

 どこで覚えたかわからない間違いだらけの呪文を使い、上から下まで黒一色。顔を隠し、冷たく細い絆創膏まみれの指先と、挙げ句に挙動不審。

 ただ、不思議とネガティブな気持ちは湧いてこない。覚えたての呪文を使って、モビーディックで注文してみたかったのだ。顔も声も隠していようと、彼女の気持ちは手に取るようにわかる。


「では、こうしましょう」


 だから環はサインペンで、紙カップにマーキングする。

 これが、環と彼女を繋ぐ合言葉。


「『魔女さん』とお呼びします」

「ま、じょ……?」

「はい。この三角帽の女の子が目印です。ヘタですけど」


 普段なら絶対こんな接客はしないだろう。

 客をあだ名で呼び、挙げ句にあだ名にちなんだ魔女のイラストを添えるなんて、本部の人間に知られたら白い目で見られるに違いない。

 それでもこうして書いたのは、彼女に——魔女に喜んでほしかったから。

 モビーディック初来店にして、呪文で注文を試すなんてとても勇敢な大冒険だ。そんな新しいことに挑戦した魔女が、ささやかなご褒美を得られるように。さらにはエクストラな幸せに包まれてくれたらいい。


「今日は素敵な呪文を見せてもらいましたから」

「…………」


 やっとの思いで絞り出せたのは、喉の奥を詰まらせた声にもならないような声。「はい」だか「うん」だか「キモ」だったか環にはわからない——むしろスベッたみたいで微妙に恥ずかしい——ので、手早く会計を済ませて注文通りにビルドした。

 受け渡しエリアには、借りてきた猫のように今か今かと魔女がカフェラテを待っている。店内の状況を目で伺うたびに魔女のサングラスと視線が合うのは、本当に初めてだからなのだろう。目の前にいてくれるから、コーヒーを待つ客の列に「お待ちの魔女さん」なんて呼びかけずに済んだのは幸いだ。

 今日の教訓。客に変なあだ名はつけない方が吉。


「お熱いのでお気をつけてくださいね。お砂糖ミルク等はあちらのコンディメンドバーをご自由にお使いください」


 注文のラテを手渡した瞬間、指先が触れ合った。冬の朝に晒され冷たいけれど、心配は要らない。きっとラテの温もりが魔女を包んでくれる。

 魔女はカップをやはり両手で受け取って逃げるように店を出るも、思い出したように振り返って会釈した。遠目に見ると足元のブーティーまで黒揃えでまったく妥協のない彼女は、モール内のどこかへ消えていった。


「魔女というより、黒ウサギか……?」


 呪文を使うから魔女だと思ったけれど、どことなく小動物のように警戒心も強い。

 不思議な客もいたものだと環は思ったものの、客はひっきりなしに現れる。その日の営業が終わる頃には、黒づくめの女性のことなどすっかり忘れていたのだった。


 @


 無理もう死にたい! 絶対、変な女だって思われた!

 なんで上下全部カバンまで黒にした!? ラッキーカラーが黒だったからって黒づくめにする必要絶対なかった! だから魔女とか言われたし! あれ絶対変なやつって思われたから魔女でしょ最悪! 滅べ占いなんて!

 うあああ、恥ず!

 注文だって練習したのに噛んだし、あれ絶対、注文間違えたのわかった上で気遣ってくれてるし! てか名前聞かれてそれどころじゃなかった! コートの上からでも分かるくらい心臓爆発しかけてたし! あの人に初奈ういなとか呼ばれたら絶対死ぬ! 隠しても絶対バレるくらい顔に出る……!


 てか今気づいたけど、「魔女」でもいいってことは、名前なんてホントになんでもよかったってこと?

 じゃあこれからこの先ずっと、あの人にとって私ってずっと魔女!?

 ええ、イヤすぎ! そういう呪いとかじゃない方がいい!

 普通に喋りたい、考えを知りたい! せめて名前を知りたい……!


 明日からどうしよう。完全にキモ客だと思われたでしょこれ。

 もういっそ笑われたり拒絶された方がまだよかった!

 いや、あの人は人を笑ったりしない! 天使だから!

 

 でも、やっと。見てるだけの私じゃなくなった。

 紙カップに魔女の絵描いてもらえたのは勇気出して踏み出したから。

 だからカフェラテも美味しかったし、今日は一日ずっと嬉しかった。

 この紙カップ、絶対捨てない。絶対大事に取っておく!

 

 うん、今日は大きな一歩を踏み出せたからいい日。

 明日の目標は……あの人の名札を見る! おやすみ

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