夫婦の間に隠し事は存在しない
烏川 ハル
夫婦の間に隠し事は存在しない
僕の部屋は散らかっていて、読みかけの本がベッドの横に置きっぱなしだったり、机の上にペンやノートが出しっぱなしだったり、適当なところに部屋着が投げ出してあったり。
対照的に、彼女の部屋はいつも綺麗だ。美しいまでに整理整頓されていて、訪れるたびに感動してしまうほど。
でもその日は、見慣れない物体がソファーの上に、これ見よがしに置かれていた。
小さな筒状の液晶ディスプレイ、通称『左目モニター』だ。
これを左目にあてがうと、そちら側の視界は当然のように、ディスプレイに映る映像で覆われる。その状態で右目も開いたままならば、左右の視界が異なった状態で行動できる。
一種の練習用アイテムだった。
僕の視線に気づいた彼女が、何気ない口調で声をかけてくる。
「それ、気になる? そろそろかと思って、用意してみたんだけど……」
「僕には必要ないね。生物系の研究者だから、仕事柄そういうのには慣れてるし」
反射的に、僕はそう返事してしまった。
接眼レンズが二つの双眼顕微鏡ではなく、一つしかないタイプ。しかも記録媒体に繋がっていない、アナログな顕微鏡を使う場合の話だ。
顕微鏡で見たものをノートに正しくスケッチするには、顕微鏡の右側にノートを置いて、左目で顕微鏡を覗き込みながら、同時に右目でノートを見なければならない。
つまり『左目モニター』みたいな器具に頼らずとも、日頃から両目を別々に使う訓練が出来ているわけで……。
「そのスケッチって、トレスみたいなものよね? 左右それぞれ別々のものを見ながら、重ね合わせるみたいな感じで……。だったら『左目モニター』の様式とは全く違うでしょう?」
鋭い指摘を口にしてから、彼女は首をブンブンと大きく横に振る。
「……っていうか、そういう問題じゃないの。ほら、私がこれ用意した意味よ。あなたにもわかるわよね? だけど、こういうのって普通、女じゃなく男の方から……」
「うん、ごめん」
僕は今、プロポーズを
いくら鈍感な僕でもその程度は理解できたので、慌てて続けた。
「結婚しよう。……いや、僕と結婚してください」
「はい! 喜んで!」
今の今まで微妙な表情だったのが嘘みたいに、満面の笑みを浮かべながら両手を広げて、彼女は僕に抱きついてくるのだった。
――――――――――――
古い文献によれば、昔の人々は結婚式で指輪を交換したという。
しかし
おそらくは実用性なんて
移植技術が発達した現代では、交換するのは指輪ではなく左の眼球。正確には、その左目を通して見る視界だ。
右の眼球で自分の目の前を見ると同時に、左では結婚相手が見ている世界を見続ける。そうやって視界を共有しながら暮らしていくのが、現代の「結婚」の定義になっていた。
昔の人々は結婚相手を騙したり裏切ったりもしたらしいが、それも今では起こり得ないのだ。視界さえ共有してしまえば、夫婦の間に隠し事は存在できなくなるのだから。
(「夫婦の間に隠し事は存在しない」完)
夫婦の間に隠し事は存在しない 烏川 ハル @haru_karasugawa
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