スナップ

上雲楽

映画館に行こう

新島が迎えに来るのを知っていたから、目覚まし時計が鳴る三十分前に布団から出て、インスタントコーヒーのためにお湯を沸かそうとする夢が複数回繰り返されて、日光の強まりがカーテンの隙間から認識できるように客観的な時間が経過したころ、佐原は習慣的にスマホの画面を開き、新島からの十二件のメッセージと四件の不在着信があるのを確認して、メガネをかけることもせず慌てて玄関へ駆け、アパートの鍵を開けると、勝手にドアが開かれ、新島が立っているのがわかった。

「誘ったくせに遅刻するな」

新島はドアが開くか開かないかと同時に叫び、佐原の目よりも先に股間に目を向け、

「信じらんない」

と握りこぶしを作り、佐原は

「だって窮屈だと眠れないんだもん」

へっへっへっと笑いながら部屋の奥へ尻を振るように戻り、下着を身につける。新島は佐原の生活習慣に文句を言いながら、いつものように戸棚からインスタントコーヒーとマグカップを取り出す。

「前のコーヒー、もうなくなったの。カフェイン取りすぎじゃない。だから寝坊する」

新島は食パンを二枚、トースターにセットし、電気ケトルに水を入れ、フライパンも取り出した。

「時間ないからいいよ」

佐原が腕を上に挙げて伸びをする。

「朝一の回はもう間に合わないから昼過ぎの回にする。もう、だからランチがてら合流にしよう、って言ったのに」

新島はハムに火を通し、卵を落としてフライパンに蓋をすると、冷蔵庫に身体を寄りかけ、腕を組み佐原を見ている。

「ごめんごめん。お昼は奢るから」

佐原は笑顔のままキッチンに近づくと新島が尻を叩いた。そのままインスタントコーヒーを淹れ、マグカップを本が積まれたベッド脇のサイドテーブルに置いた。新島はフライパンの蓋のガラス越しに目玉焼きを見つめている。

 どれくらい余裕あるかな、と佐原はベッドに寝転がって、映画館のサイトを開いた。現在八時五十五分。九時二十分からの回はもう間に合わないから次は十二時十分の回になる。

「けっきょくどういう映画なの」

新島が目玉焼きの乗ったトーストをサイドテーブルに置いて、ベッドに座って佐原の尻を揉みながらスマホを覗き込み尋ねた。

「B級SF。たぶん面白くないと思うんだけど」

「つまんないなら他見ようよ」

「でも見届けるのがファン心理というか」

「それに自分が付き合わされてもな」

新島はため息を吐いてペチペチと尻を叩き、トーストにかじりついた。佐原が、でもまだ面白いもの撮る可能性あるし、今回のプロデューサーはヒットしたときと同じタッグだし、などと嬉しそうに語り出すので、新島は興味なさそうにふーんと相槌を打ってコーヒーをすする。

「どこか行きたいところあった?」

佐原が不安げな顔をして聞いてくるので、こんな聞き方するなんて自分に甘えすぎる、と新島は思ったが、少し考えるふりをして、

「駅前に新しくできたパン屋。映画館の近くの」

と言ってあげると、佐原は、

「じゃあ、ランチはそこだね」

と尻を掻いた。トーストをコーヒーで流し込み、トイレに行くと、新島は佐原の枕の臭いが気になって、洗濯まで自分がしないといけないのかもしれない、と少しイライラした。枕を顔に近づけようとすると、トイレが流れる音が聞こえて、手を離した。

「早く着替えて。さっさと出るよ」

「パン食べたばかりなのに?」

「混雑は嫌いだから」

「どっちにしろ日曜日だと思うけどなあ」

新島が何か口にしようとすると、佐原はわかったわかったと言って、ダラダラと歯を磨き出す。新島はクローゼットを開けて今日着る服を出してやりたい気持ちになったが、我慢した。この前出かけるときは、服を選ぶのに二十分近く待たされた。が、それは佐原のコーディネートに文句をつけたのが発端だったことは自覚していたので、今日は何も口に出さないぞ、と誓ったが、玄関先で待たされたせいでまだイライラしていて、我慢できないかもしれない。

 佐原が寝癖を直し始めたころ、新島はトーストを食べ終え、マグカップと皿を洗い出した。それからすぐに佐原は洗面所から出てきた。着替え始めても、何も言わないぞ、と言い聞かせながら皿を洗っていると、佐原は部屋の隅に積んでいる、洗い終えて畳んでいない服の山から適当に青いシャツと黒いパンツを発掘し、身につけた。その格好に新島は満足なわけではなかったが、二人はすぐにアパートを出た。

 肌寒く、佐原は少し薄着だったことを後悔しかけたことは、早歩きの新島を追いかけて息が切れるうちに忘れていた。

「駅まで八百メートル。走れば本当は三分あれば着くんだけど」

新島はいつも小走りだから、もう少しのんびりしていればいいのにと思うが、寝坊した身でそれを言えばまた怒鳴られることはわかっていたので、黙ってついていった。

 駅はそれなりに人がいて、新島はやはりそれなりに嫌だったのだが、電車で席に座るのは簡単だった。

「映画館って三駅先だったよね」

と横に座った佐原に話しかける。息を乱しながら頷き、少し汗ばんでいるので、だらしがなく嫌だったが、少しやり過ぎたかな、と新島はそれ以上何も言わなかった。

 映画館のある駅に到着するころには、佐原の呼吸は落ち着いていた。改札を抜けるとまた新島がマップアプリを見ながらさっさと動き始め、佐原はげんなりしたが、文句を言う資格はやはりなかったので、人混みを抜けて商店街の方へ曲がっていき、路地を三回曲がってほとんど人のいない通りへ来ると、ビーフシチューの匂いがする方向へさらに新島は進んで行き、匂いの元へ辿り着くと、そこはパン屋だった。新島はスマホを仕舞って迷いなく入っていったのでそこがやはり目的地だった。

 どうやら個人でやっているパン屋らしく、店の奥の厨房からレジの方へ、少し太った三十代くらいの男がやってきた。厨房にはもう一人、同年代の女がパン生地を捏ねている。新島は

「ビーフシチューランチのBメニュー。こっちは……」

と佐原の目を見るので、

「自分も同じで」

とAメニューも知らず佐原は言った。Cメニューがあることは最後まで知らなかった。

 こじんまりとしたイートインスペースに案内され、「一番」の番号札を渡される。佐原は息を整えるように深呼吸する。

「運動不足じゃない。また太ったでしょ」

と新島は口を出してしまった。

「桑原からテニスには誘われているんだけどね」

「行きなよ。元バドミントン部なら似たようなものじゃない」

「全然違うよー。あとウェアとか……」

「キツいの?」

新島が少し意地悪そうにニヤニヤする。佐原は冗談めかして視線をそらすと、その視線の先の陳列されたパンの中にちくわパンを発見した。佐原の地元ではよく見たが、実物を見たのは数年ぶりだった。

「見るだけでお腹空いてきた。お土産に何個か買わなきゃ」

新島がテーブルの上に手を組んで顎を乗せた。

「桑原のぶん?」

「映画、あいつ誘えばよかったのに」

「嫌だった?」

「別に?」

会話を遮るように、先の小太りの男がビーフシチューとバゲットとクロワッサン、それにサラダを持ってきた。少し量が少ないかな、と新島は思った。桑原とラーメンとか食べに行くときは、量が中心だったから、たまに新島を呼ぶと、野蛮な食事だ、と茶化された。

 佐原はビーフシチューを一口すすって、確かに美味しかったが、他の店と特に何が違うのかわからなかった。新島は

「深みがすごいね」

と言って嬉しそうにしているから、まあ、いいかと思った。

「よく違いがわかるなあ」

と小声で佐原が言う。

「好きだしね。たまにはジャンクフード以外もいいでしょ」

「毎日じゃないよ」

「自分が作りに来る日があるから?」

「桑原とだってパン屋くらい行ったことある」

見え透いた嘘だったが、新島はそれ以上追求しなかった。

「桑原はまだバイト続いているわけ」

新島がバゲットをちぎる。

「らしいよ。最近、忙しいって言って全然遊んでくれない」

「お世話、の間違いでしょ。ご飯とか作らせるの自分だけにしときなさいよ」

新島がレモン水の入ったグラスをクルクル回す。

「最近は、和崎にもやってもらってないし」

「誰、和崎って」

新島が鋭く言ったので、何か間違えたかな、と素朴に佐原は思った。

「高校の後輩。大学がこっちだからたまに会ってたんたけど、言ってなかったっけ?」

「初耳。男、女?」

「何で?」

「いや、なんとなく」

佐原もクロワッサンをちぎって、口に入り込む。バターが多いらしく、佐原の口でもわかりやすい美味しさだった。

「このクロワッサン美味しいでしょ。佐原好きそうだと思って」

「この店来たことあったんだ」

「いや、まあ、ね。一回だけだけど。それでどうなの」

「美味しい」

「ならいいんだよ」

新島は自慢げな表情をして、サラダをつついていた。食はゆっくりな新島なのに、ビーフシチューもパンもいつの間にかなくなっていた。

 佐原は少し冷えたビーフシチューをすする。その様子を楽しそうに新島が見ているので気になったが、映画に誘ったことと同じ気持ちだったのかもしれないと思った。

 ふと店にある時計を見ると、十一時半を回っていた。そろそろ出ようか、と言って再び新島が先導する。

 二人が見た映画は酷く退屈で、内容は思い出せないが、この日のことは寝坊するたびに思い出す。

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