往きて還る、忘却の河

夏まつり🎆「私の推しは魔王パパ」3巻発売

往きて還る、忘却の河



「……あら?」


 気付けば見覚えのない場所にいた。深い霧に覆われた周囲の様子はほとんど見えない。でも、どこかの河原だということだけは理解できる。数歩先を水が流れていて、足元には大ぶりの小石がいくつも転がっている。着物の袖からは痩せた皺だらけの手が覗いていた。薬指から指輪がずり落ちそうで、私は左手を上向ける。長く手入れをしていないせいで、指輪の光は鈍い。


「お父さーん、おられますかー?」


 周囲を見回し、夫の姿を探した。結婚当初からあまり旅をする夫婦ではなかったけれど、遠出をしたなら一緒にいるはずだと思ったからだ。


「呼んだか」


「ひゃっ……もう、脅かさないでくださいな。年なんですから、心臓が止まってしまいますよ」


 夫はすぐ隣に立っていた。足音はしなかった。夫が着ている浴衣は彼のお気に入りで、「あれはまだ乾いてないのか」とよく聞かれたものだった。一番に乾くようにと、いつも日の当たる端っこで乾かしていた浴衣。見慣れたはずのそれに、懐かしさを覚えるのはなぜだろう。


「行くぞ」


「行くって、どちらに?」


 夫は川岸に向かって歩いていく。岸には木製の小舟が停められていた。舟には誰も乗っておらず、川の流れに合わせて揺れている。


「もう……」


 黙って舟に乗り込んだ夫を追いかける。揺れる舟の手前で戸惑っていたら、夫が手を引いて乗せてくれた。夫は慣れた手付きで舟を固定していたロープを外し、舟に備え付けられた長い棒を握って漕ぎ始める。舟が岸から離れていくことに心細さを覚えていたら、夫が漕ぐ手を止めて私に目を向けた。


「結婚して何年になる」


「いやですよ、また歳を忘れたんですか? 六十二年です。こないだ金婚式のお祝いも子どもたちから頂いたでしょう」


「金婚式は五十年の祝いだ。この間なものか」


「あら、そうでしたか?」


 そう言われてみれば、金婚の祝いをくれた孫にはその場で成人祝いを渡した気がする。その孫ももう一児の母だ。最近の夫婦は子供を持っても共働きが普通なのだと、彼女と正月に話した覚えがある。


「いやですねえ、歳を取ると時間の流れが速くって。でも、皆が帰ってくる盆正月がすぐに巡ってくるのはいいですよね」


「そうか」


「そうそう、お父さん。先日のお盆にね、かっちゃんが曾孫を連れてきたんですよ。暑かったから、お墓には連れて行きませんでしたけど。赤子はいいですねえ、もう可愛いったら。育てるほうは大変ですけどね、でも、育児は楽しかったですねえ……」


「そうか」


 夫がまた舟を漕ぎ始める。霧が濃くなった。


「……あら?」


 どうして私は小舟に乗っているのだろう。深い霧で周囲はよく見えない。私は赤いワンピースを着て座っていた。はっとして左手を確認すると、真新しい指輪が小指にはまっている。よかった、まだ慣れなくて、たまに落とすのだ。


 私に背を向けて立つ達彦さんが舟を漕いでいる。プレゼントしたポロシャツを彼が着ているということは、私はデートの途中にうたた寝でもしたんだろう。だって彼があれを着てくれるのは、休日に二人で出かける時だけだから。


 達彦さんが不意に手を止めて、振り返る。私は首を傾げた。


「ねえ達彦さん、どこに行くの?」


「行くんじゃない、帰るんだ」


「ふうん……? ねえ、また旅行に行きましょうよ。新婚旅行で行ったハワイも良かったけど、国内の温泉もいいんじゃない? 達彦さん、いつも忙しそうだから。たまにはゆっくりしましょうよ」


「……」


「あっ、都合が悪くなるとすぐ黙る。温泉は嫌? でもハワイでだって、ずっと仏頂面で……あ。そういえばハワイで買ってくれたワンピース、やっぱり着ていく場所がないのよ。リゾート地なら着られると思うの。ねえ、いいでしょう?」


「……」


 達彦さんは答えずに私に背を向け、また舟を漕ぎ始める。霧が濃くなった。


「……あら?」


 どうして私は小舟に乗っているのだろう。しかもデパートの制服で。指には何もはまっていない。おかしいな、何かアクセサリーを身に着けていた気がしたのだけど。霧が濃くて、舟を漕いでいる父の姿すら霞んで見える。父が手を止めて私に顔を向けてきた。


「おまえ、仕事はどうだ」


「もう。お父さんってば、会うたびそればっかり! 慣れたわよ。もう三年目のベテランですうー」


 ふくれっ面を返したけれど、父の表情は霧のせいでよく見えない。きっと向こうも同じだろう。たまに帰ればいつもこれだ。心配してくれているのだろうけれど、父からも母からも同じ質問ばかりされればうんざりもする。しかも結婚はまだかだの見合いをしないかだの続くのだ。


「……」


 珍しくそこで質問を止めた父が前を向き、また舟を漕ぎ始める。霧が、濃くなった。


「……あれ?」


 どこだろう、ここ。おふね? あしがとどかなくて、ブラブラする。あっちもこっちもまっしろ。よくみえないけど、だれかがたってる。じっとみたら、しっているひとだった。


「ママ!」


 ぴょいとおりたら、ふねがゆれた。じゃまないたをくぐって、ママのあしにぎゅってした。


 ながいぼうをもっていたママが、ふりかえって、わたしのあたまをなでてくれた。


「あなたは、幸せだった?」


「?」


 しあわせって、なに? めをパチパチしていたら、まっしろになって、なにもみえなくなった。


「お帰りなさい」


 だれかがわたしにそういった。


「ただいま!」




(終)



---

輪廻転生の際、魂は浄化されすべてを忘れる……と聞いたことがあります。

船頭が本当にお迎えだったのか、記憶を映す鏡のようなものだったのか、読んでくださったあなたの想像にお任せします。


もしよろしければ、星や感想など、残していただけると嬉しいです。

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