後編

 死ぬのは案外簡単で、一瞬だ。

 かつて健康すぎるくらい健康だった俺の体は、その壮健さを逆手に取ったガン細胞によって破滅に追い込まれた。体の異変に気が付いたころにはもう、細胞は代謝の良い体を伝って全身に転移しており、医者には手の施しようがない状態だった。

 覚悟はしていなかった。色んな考えを巡らせる時間すら与えられず、ベッドの上から動けなくなっていたから。しかし正直なところ、自分の死によって肉体的・精神的苦痛から解放された喜びの方が、やり残したことの多さからくる無念さよりも多いと感じていた。ただし、それはあくまで死ぬ側の感覚だ。


「うぁぁううぅ……あ゙ぁぁぁ……」


 俺の葬式の時、茜は泣かなかった。当惑して、呆然と立ったまま、ただ俯いて黙っていた。楽しかった思い出の数々はやがて呪縛となって、彼女の時間を、感情を、人生を止めてしまったのかもしれない。

 しかし何週間か経ったある日から、俺は毎日彼女に呼び出され続けた。夜になり、茜が寝ようとすると、一緒に過ごした記憶が彼女を過去に連れ去ってしまう。そして目覚めたらもう自分の恋人は死んでしまったのだ、という現実に打ちのめされて涙があふれだしてしまっていた。

 そんな日々の繰り返しは茜の精神を蝕むと同時に、幸か不幸か、俺の存在の一部を現世に繋ぎとめてしまった。止まらない涙を流し続ける茜のすぐそばで、もう触れられないその柔らかい髪を何度も何度も撫でて、彼女がまた新しい朝を無事に迎えられるように祈った。ごめん、ごめんな、と謝りながら。


「ずずぅぅ、んぅんぅ……ぐぅぅぅ」


 そんな日々からあと少しで十年経つことになる。祈りが通じたのだろうか、大学生だった茜は、今はもう部下を持つ立派なビジネスウーマンだ。彼女が忙しくなるにつれて呼び出される頻度は下がっていったものの、今回のように何かのきっかけで現世に引きずり出されることも珍しいことではなかった。

 しかしいい加減、運命に翻弄された悲劇のヒロインからは卒業していいだろう。ついでに、泣き虫も多少は克服してもいいはずだ。さもなければ、俺が自分の存在をうまく認識できなくなって、悪霊とか怨霊とか、そういう化け物になってしまうかもしれない。そんな心配をするくらい、今は自分の記憶があやふやになってきた気がする。


「うぅぅうぅ……ぐずっ」


 ただ、最後に一度だけ。

 この泣き虫が安心して眠れるように、悲しい思い出に鍵をかけて、記憶の奥底に沈めたままにしておけるように。

 一瞬だけ、二人で分かち合った過去へとタイムスリップしてもいいだろう。多分、少しくらいのルール違反なら見過ごしてもらえるはずだ。


「茜」

「……え?」

「もう寝ろ。明日は月曜日だろ?」


 困惑する茜をよそに、少しだけ世界を無理矢理に捻じ曲げる。

 そのまま、彼女の頬を撫で、涙が零れ落ちた跡を親指で優しくなぞる。


「大丈夫。俺はずっとそばにいるから」

「……うん」

「それじゃあ、おやすみ」

「……ゔん゙」


 ゆっくりと茜の瞼を閉じてやり、物が散乱するベッドの上に横たわらせる。

 さすがに泣き疲れていたのか、あるいは俺がそう促した影響か、泣き虫姫君はすぐに寝息を立て始めた。

 きっとこれは、情緒不安定な時に見た夢。きっとこれは、過去が見せた甘い記憶の成れの果て。きっとこれは、脳の記憶領域が起こした、ちょっとしたエラー。

 明日の朝起きたなら、茜はそうやって気を持ち直し、腫れぼったい目をメイクでごまかす作業を始めるはずだ。幽霊が運命を少しだけ弄ったとは思いもしないだろう。

 それでいいんだ。いつまでも昔の記憶に縛られて、何かある度に泣き虫に戻ってしまうのは悲しすぎるだろう。


(噓つき、なんて責めてくれるなよ?)


 もう彼女からは呼び出されないと思いたい。この世界からもそのうち消滅するだろう。それでも、そばにいる、というのは解釈次第では本当のことになるはずだ。


(それじゃあいい夢を、お姫様)


 寂しがり屋で甘えん坊で筋金入りの泣き虫、そして、かつて心から愛した人。

 これからの君の人生が、俺なしでも幸せでありますように。

 おぼろげな感覚で祈りながら、少しずつ世界との繋がりがほころび始め、やがてゆっくりと消えていった。




<了> 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

泣き虫と記憶領域 森メメント @higuchi55

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ