空に溺れる

なはと

晴れ色の鳥

今日も雨は降り続く。ここ数週間は、空の青さすら忘れるほど、雨が降り続いている。


私の心も同様に、晴れることなく、嫌な雨模様に閉ざされている。


傘はどこも売り切れで、雨具すらも置いていない。コンビニに寄ったのは無駄足だったらしい。そのまま帰るのも物悲しいので、少しでも心のひさしになればと安いプリンを買って、そのまま雨に濡れながら帰路に就く。


空を見やると、黒い乱層雲がいつものように大粒でもない涙を流し、顔にかかる。その感覚が不快で、自然と俯くようにして歩く。


どこからか、私を罵る声が聞こえてくる。道行く人々が、口元を歪めながら嗤っている。ああ、もう時間切れだ。早く帰らないと。


少し足を早め、私の住むマンションのエレベーターホールの入り口に近づく。


すると、奇妙なものを見た。手のひらにすっぽりと収まるくらいの小さな鳥が、エレベーターホールの自動ドアの下にちょこんと座っていた。その鳥は、久しく見ない、空の色をしていた。


鳥は私を見ると、その細い足でちょこちょこと私に寄ってくる。


誰かが飼っていた鳥だろうか。警戒心が全く無い。私のことをじっと見つめている。お腹が空いているのかもしれない。


しかし、私の家には鳥を預かることのできるスペースなどほとんど無い。関わるだけ面倒なので、迂回するようにして鳥から離れる。すると、親鴨を追いかける小鴨のように、またちょこちょことついてくる。


引き離すように歩幅を広げると、寂しげにぴぃぴぃと可愛く鳴いてくる。庇を叩く雨とは溶け合わず、それぞれが別々に私の耳に入ってくるようだった。


まるで私に縋るように鳴く様は、段々と私に罪悪感を植え付けてゆく。


ひとりぼっちとひとりぼっちの邂逅は、お互いに同情の念を抱かせるのだろうか。あちらからも、ひとりぼっちで可哀想、ぼく(わたし?)と同じだね、とか聞こえてくる気がする。


まあ、飼ってもいいかな。最近の私は限界だ。学校に居場所は無く、先生からも無視されたり、影でヒソヒソと悪口を言われている。


だから、この子をセラピーバードとして迎えることで、少しでも疲れが取れるかもしれない。毎夜毎夜ベッドで呻くようにすすり泣いて諸々を発散するよりはよっぽど健康的だろう。


「じゃあ、帰ろっか」


庇から垂れる雨粒の飛沫を食らってしまっているようで、びしょぬれになってしまっている鳥を手で掬い、一緒に、不親切にも最上階で止まっていたエレベーターを待つ。


ああ、片付け面倒だなあ。手のひらの鳥は、そんなこと露知らずとぴぃぴぃ鳴きながらキョロキョロしている。



玄関を開ければ、いつもの暗闇。家族はおらず、学生ひとりで心細く暮らすいつもの家だ。


私も鳥も共にびしょぬれなので、まずは風呂を沸かす。何もすることが無いので、空虚な時間をベッドに座ってやり過ごすしかない。鳥はと言うと、未だに手のひらに収まってキョロキョロしたままだった。


給湯器の操作パネルからチンタラと軽快な曲が流れ、風呂が沸いたことを知らせる。


風呂場に入れば、外とは打って変わってやはり暖かい。風呂桶に浅く湯を張り、鳥を入れてやる。びしょぬれがずぶぬれに昇華し、鮮やかだった空色が海のような濃青へと変わる。


こんなに濃い青色の鳥なんて日本にいたっけ。熱帯のジャングルにでも住んでそうな色合いだ。


それはさておき、私も湯船に浸かる。全身が浸かった瞬間、張りすぎたお湯が溢れ出て、ナイアガラのように流れてゆく。


「ふわぁあ~」


心の奥底から込み上げる声は、何の抵抗も受けずにそのまま口から出てくる。それに呼応するように、桶に浸かる鳥もぴぃいと鳴く。


鳥のくせに、私と気が合うじゃないか。生意気な。


風呂から上がり、壁にかけてある時計を見ると、もう日付が変わっていた。


あとは寝るだけだが、そういえばまだ食事をしていなかった。とは言っても、今家にある食べ物といえば、先ほどコンビニで買った100円ほどのちんけなプリンだけなのだけれど。


無愛想な店員からぶっきらぼうに手渡されたプラスチックスプーンでプリンを掬い、口に運ぶ。無理矢理甘くしたような感じで正直美味とは言えないが、それでも疲れた体に染み渡ってゆく甘みが心地よい。


そういえば、この鳥はお腹が空いていないのだろうか。プリンとか食べるかな?流石にダメかな。ま、なんとかなるか。


「ほれ、やるぞ」


鳥の頭上にプリンを湛えたスプーンを浮かせ、ふるふると動かす。すると、鳥はツバメの雛のように上を向いて、口を大きく開けた。


スプーンを傾け、プリンが垂直に自由落下する。直後、ぴちゃと音がして、プリンは鳥の口に吸い込まれていった。


「よく食ったな。うまいか」


鳥はやはりぴぃぴぃと、喜んでいるのかはたまた怒っているのか分からない鳴き方をした。不味かったのか、それとも食べさせちゃマズいものだったのだろうか。


まあそれもどうでもいいか。どうせこの鳥が死んでしまおうと、私には関係の無いことだから。何にも思うところは無いんだから。


可哀想だね。こんな世間からどうでもいいと思われてる人間にまでどうでもいいとか思われちゃって。お前はそんなにも私に縋ってくるのに、私はお前をどうでもいいと思ってるんだよ。くだらない世の中だね。


本当に、くだらない。私もお前も、どうでもいい存在なんだ。可哀想だろう。泣けてくるだろう。本当に。


乾かして元の空色に戻ったはずの鳥に、どうでもいい涙が降り、海色の斑点を作り出す。


ぴぃぴぃ


「うん、もう寝よう。明日も、いや、今日も、憂鬱な一日だ」


鳥はテーブルの上で、既に目を閉じている。そうだ、忘れるところだった。


鳥の真隣に置いてあった白い楕円を取り、口に含み、水で流し込む。この単純な作業が、私にとって大切なのだ。


そして、現実うつつから夢の世界へと旅立てることを夢見ながら、意識を手放した。



顔を顰めたくなるような大音量をもって、スマホが私を起こす。ベッドから転がり落ちると、ぴぃぴぃと聞き慣れた鳴き声が聞こえる。


「んん……ごめんごめん。びっくりしたよね」


可哀想に。これが私の朝ルーティンなのだ。慣れてくれ。


蛇口の栓をひねり、洗い方もおざなりな水垢だらけのコップに水を注ぐ。相変わらず塩素の匂いが私の意識を鮮明にさせる。不快だが、効果は抜群だ。


形だけの冷蔵庫には何も入っていないので、食べ残したまま常温で放置していたプリンをいただくことにする。


「案外いけるね」


すっかりぬるくなってしまっており、口当たりは最悪。しかし、あの強引な甘味は全く変化していないので、そんなことは些事だった。


ぴぃぴぃとうるさい鳥には、プリンを掬って落としてやる。雛鳥のように口で受け取り、満足したようにキョロキョロとしている。


時計を見ると、もう遅刻が近いことに気づく。早く行かないと。もうこれ以上陰口の種類が増えるのだけはたくさんだ。


「もう行ってくるからね。私が帰ってくるまで大人しくしてるんだよ?お腹へったらこのプリンつついてていいから」


鳥はというと、うんともすんとも鳴かずに、私の方をじっと見つめていた。


まあ、小窓も開けてるし、嫌になったら出ていくでしょ。とりあえず、今は遅刻しないことが先決だ。


今日も変わらず、嫌な雨だった。その日の通学路は側溝が落ち葉によって詰まり、汚い雨水がたまっていた。靴が汚れるのは嫌だったので、歩道橋を使って回り道したところ、スムーズに遅刻した。



結局遅刻してしまったので、いつもより周囲の視線が痛い。傘も雨具も無いのでずぶぬれになってしまったのも、それに拍車をかけているのだろう。


こんなことになるなら拾わなかったのになあ、と後悔するが後の祭りだし、そもそも状況はいつもとあまり変わっていない。


いつものように授業は進んでゆく。夜更かしが祟ったのか、いつもより眠気がひどく、授業中にも関わらず船を漕いでしまうことで周囲からの視線と陰口が強く感じられる。


そうか、もうあれの時間だ。


ポケットを漁り、私の大事なものを取り出そうと試みるも、いつも感じる感触がない。


後悔が波のように押し寄せる。鳥に気を取られるあまり、家に置いてきてしまった。あれがないと私は、私は……。


まずい。視線が痛い。やめて。私をこれ以上見つめないで。


目を閉じて必死に耐える。悲鳴が口から溢れ出てしまいそうになるのを堪え、ただ時間が過ぎるのを待つ。


瞬間、突き刺す視線が消え、聞こえていた声も静まり返った。目を開けると、机の上にあの鳥がちょこんと座っていた。


「なんでここにいるの!?」


思わず叫んでしまった。静寂を切り裂く声をきっかけに、周囲がざわつき始め、先ほどより鋭い視線が何十と突き刺さる。


「あ、ああ……」


気付いたら、私は教室を飛び出していた。そのまま学校から逃げ続け、降りしきる雨の中、ただひたすらに走った。


あ、教室に置いていっちゃった。どうしよう。まあ、大丈夫だろう。私なんかより、クラスの人にお世話してもらった方が多分あの子にとっても幸せだろうから。


そう考えると、涙が溢れてくる。またひとりぼっちだ。最近ようやく話し相手ができたのに。


お前のせいだ。卑怯者。どっか行け。死ね。


耳を塞いでも通り抜けてゆく悪口が、私の心を濡らしてゆく。溢れる涙も、雨に溶けて消えてゆく。轟音をたてて走り去ってゆくトラックの唸り声が、唯一の私の味方のようだった。



扉を開けると、微かな陽光に照らされた悲惨な室内が目に入る。そんなことはもうどうでもいい。生ける屍のようにフラフラとテーブルへと向かい、その上にある頼りない命綱を口に放り込み、びしょぬれの服のままベッドにのめり込む。


「もう疲れたよ。助けてよ」


何も聞こえない部屋の中を埋め尽くす孤独の波が私に打ちつける。涙が止まらない。


そういえば、あの鳥はなんで私のところまで来たんだろう。テーブルのプリンは全く残ったままだ。もしかして、あの子も孤独を感じて、仲間である私を求めてやってきたのかな。だとしたら、悪い事をした。


「ごめんね。ごめんね。寂しかったよね。ごめんね」


シーツに顔をうずめながら、ここにいそうでいない誰かに謝り続ける。空っぽの部屋に、すすり泣く声だけが響いた。


ぴぃぴぃ


「え?」


聞こえないはずの声が聞こえる。すぐさま鳴き声の源を探すと、テーブルの上にあの鳥がちょこんと座り、こちらを見ながら首を傾げている。


私は一目散に駆け寄り、抱きしめる。雨の中を飛んできたからだろうか、生き物の温かさは感じられない。


「ごめんね。置いていっちゃって。ありがとう。帰ってきてくれて」


今までどうでもいいと思っていた存在がどうしようもなく愛おしくて、自分が情けない。


私の腕の中でぴぃぴぃと、やっぱり喜んでいるのか怒っているのか分からない。でも、せめて今だけは、こうさせていてほしい。


暗い部屋の中、ふたりぼっちはひとしきり泣いた。



落ち着いたあと、コンビニに出かけた。流石に何も食べないのはまずいと思い、自分用に150円くらいのメロンパンと、鳥用に食パンを買っただけ。


相変わらずびしょぬれでの帰宅だったけど、なんだか面倒だったのでシャワーだけ浴びた。鳥はと言うと、昨日の、いや、今日の残り湯の上でぷかぷかと漂っていた。お前、水鳥じゃないでしょう。


部屋着に着替え、買ってきたメロンパンを頬張る。やっぱり美味しくない。私はメロンパンが苦手だ。ただ香料でメロンの風味を貼り付けた、化学物質の味。パンの棚にあったのがこれだけだったので、仕方がなかった。福があることを祈って、我慢して食べる。


せっかくあのプリンよりも高いものを買ったのに、なんで我慢して食べなきゃいけないのだろう。少し笑える。


鳥は、テーブルに放り出された食パンをじっと見つめてはいるが、口をつけようとはしない。お腹が空いたら食べるかな。とか思って放っておいた。


ふと、この子がなんという鳥なのか気になったので、ブラウザを開く。検索履歴が目に入り、思わず目を逸らしたいものばかりで嫌になる。


「ねえ、お前ってこの鳥?」


ぴぃぴぃ


「この子?」


ぴぃぴぃ


「それともこれ?」


ぴぃぴぃ


埒が明かない。まあ、例え新種だったとしても、この子を衆目に晒すなんてことは絶対にしない。私だけのものだ。


ブラウザを閉じ、ホーム画面に戻る。年頃の子は入れてそうなSNSも、ソーシャルゲームも、何も入っていない空虚なホーム。どれもが、空虚な私にとっては無用の長物だからだ。


画面左上の時計を見ると、21時を回ろうかという頃だった。今日はいろいろありすぎて疲れてしまった。もう寝よう。


「もう寝るから、お腹空いたらパンでも食べてね。おやすみ」


すると、鳥は私の寝転がる隣までやってきて、そのまま目を閉じた。こうして見ると鳩胸が可愛いな。でも、これじゃ寝返りが打てない。


諦めた私は、寝ている間にこの子を押し潰さないことを祈って眠りについた。



アラームは鳴らなかった。窓の外から聞こえる喧しい雨音で目が覚める。時刻は8時をとっくに過ぎていた。

鳥はもう起きていたようで、何故か私の頭の上に乗っていた。


「おはよう。潰れなかった?」


ぴぃぴぃ


大丈夫そうだ。元気そうに鳴きながら、尾羽根でおでこをぺちぺちと叩いてくる。


そんな鳥を掬い取り、いつものように錠剤を含む。パンは、一片も欠けていなかった。小窓から外に出て虫でも狩っていればいいんだけど。


隣にあるプリンは既に変色しており、コバエが集っている。そんなプリンをぼーっと見つめたあと、なんだか面倒くさくなってそのままにした。


もちろん学校には間に合わない。しかし、遅刻していくのも、学校に連絡するのも億劫なので、初めての無断欠席をすることにした。罪悪感など無く、むしろ清々しい。


今日は何をしようか。逡巡したところで、文化的な生活にほとんど触れていない私には、何もすることが無い。


玄関からバタンと音が聞こえる。郵便だろう。


久しく開けていない郵便受けを開くと、黄色い封筒を中心とした、カラフルな封筒が雪崩のように落ちてくる。それを見てまた陰鬱な気分になり、散らかった玄関をそのままに、リビングへ踵を返す。


残したメロンパンと放置されてカサカサになった食パンを食べる。両方美味しくないし、今更だけど全く健康的でない。それもまた、人生のスパイスとなってくれるだろうか。


今日は一日、鳥と一緒に映画を見漁ることにした。映画と言っても、サブスクリプションで視聴できるようなものだけだ。


スマホの小さい画面に鳥と共に釘付けになりながら、色とりどりな映画を見た。スピード感あるバトルモノをぼーっとしながら見て、眩しい青春モノ、恋愛モノに吐き気を催し、あからさまななホラーモノに辟易したり、何ともまあ、どれもインパクトに欠けていた。私の人生を映画化した方が売れそうなほどに。しかし、どれも退屈はしなかった。他者と一緒に見るということが一役買ったのかもしれない。


鳥は疲れてしまったのか、もう寝ている。私も昨日と同じく、老人のように早い眠りについた。ご飯と、何かは思い出せないけど、何かを忘れながら。



その日もスマホは沈黙したままで、ぴぃぴぃという音によって意識が覚醒する。相変わらず雨は降り続いているらしい。身の程知らずにも清流のような音をたてながら、世界を沈めようとしている。


「おはよう。今日も暗い朝だね」


そんな暗い空と対照的に鮮やかな空色をした鳥は、今日も私を見ながら首を傾げ、ぴぃぴぃと鳴いている。


そして、また遅刻の時間。もういいや。学校なんて知らない。私たちを孤独にさせるような場所に行くくらいなら、家でこの子と一緒にいる方が全然いい。


ベランダから下を見ると、止まない雨によって地面が冠水している。人々はそれを気にも留めず、目的地に向かって黙々と歩いている。誰も傘なんて差していない。


車も同様に、邪魔する水をものともせずに、すいすいと走っている。


みんな強いなあ。なんて他愛もない、投げやりなことを思いながら、ぼーっと眺めていた。


ぴぃぴぃ


私の肩にとまっている鳥は、私と同じような気分を含んだ声で、投げやりな感じで鳴いている。


「ねえ、このまま雨が止まずに、降って降って降り続いて、こんな世界、全部全部押し流しちゃえばいいのにね。そうしたら、私のこんな気持ちも、全部きれいに流されてくのにね」


ぴぃぴぃ


「私、海に行ったことがないんだ。だから、このまま世界が海になっちゃって、いっぱい泳げるようになったらいいのにね」


ぴぃぴぃ


戻ろうか。


スマホのワンセグでテレビを見る。某放送協会はいつもと変わらずに連ドラを流し、民放はバラエティーのようなワイドショーを放送している。まるでこの雨なんて最初から無かったかのように。


いつまで、こんな時間が続くんだろう。でも、終わってほしくない。ずっと、ずっとずっと続いてほしい。この雨が、全部を飲み込んでくれるまで。


今日は、ボードゲームをすることにした。もちろん、画面上で。


オセロをやるときは、鳥はきちんと石を置きたいマスにちょこちょこ飛び移り、私と互角の勝負をした。まるで自分と戦っているようで、不思議な感覚だった。


将棋の対決になっても、私の知っている戦法で戦ってきた。実力も拮抗しているようで、中盤戦から終盤戦まで互いに探り合って膠着状態となり、4時間ほどかかってしまった。ちなみに、私が負けた。


そんなことが私にとってはとても楽しく、曇ったままの心が、久しぶりに晴れた気がした。


心做しか、この鳥の色もより鮮やかになったように見える。私と同じで、心が晴れたのかもしれない。


そんなこんなで、今日はとてもいい日だった。明日は、今日以上にいい日になったらいいな。



ここ数日は、鳥と一緒に今までに無いくらい楽しい日常を送っている。雨はやはり止まずに、遂に目算で2メートルほどの雨水が世界を埋めつくすようになった。


しかし、そんなことはもうどうでもよかった。この子との楽しい日々が続いていれば、何もかも忘れられる。


水も電気も止まってしまったけど、もうどれも必要ない。全て忘れてしまえばどうにかなる。


ご飯を食べることも、学校に行かなきゃいけないことも、黄色い封筒をどうにかしなくちゃいけないことも、部屋を片付けなきゃいけないことも。そして、薬を飲むことも。



今日は珍しく、スマホが鳴って目が覚める。霞む目でスマホを探し、スワイプして黙らせる。


「おはよう。今日は何して遊ぼうか」


いつもならここら辺で返事があるはずだ。しかし、何も聞こえてこなかった。


「ちょっと、どこにいるの?返事してよ」


声を張っても、虚しい部屋に虚しく声が吸い込まれるだけだった。聞こえてくるのは、外を走るバイクや車の音だけだった。


急に焦燥感に襲われる。だめだ。あの子がいないと、もう私は何もできない。何も感じられない。だから、早く出てきてよ。いつもみたいに、可愛い声で鳴いてよ。


鳥を探すためにベッドから降りると、足を慣れない感覚が撫でる。


足元から、ちゃぷちゃぷと音が聞こえる。部屋を見渡すと、一面が水に浸かっていた。困惑しているところに、ぴぃぴぃと、待ちわびた声がベランダから聞こえた。


急いで向かうと、ベランダの手すりに、あの子がちょこんと座っているのが見えた。


部屋から出ると、久しぶりに太陽の光を感じる。長く長く降り続いた雨はようやく上がり、空は鮮やかな色を湛えている。


下を見ると、割と高層にあるはずの自分の階まで水が貯まり、海のようになっていた。その海は、空の色をそのまま映し出している。


「これが、海……ようやく、願いが叶うんだ」


鳥はぴぃ、と一鳴き、返事を返してくれる。


「ねえ、泳ごうか」


ぴぃぴぃ


鳥は私の頭の上に乗り、意志を示してくれる。


私は手すりをよじ登り、いつか夢見たうみへと、落ちていった。


ふかたかい、そらの底まで、落ちていった。

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