すべての人類を幸せに
これは夢だ。
鏡に写った自分を見て、ウーロはそう気付いた。
肩のあたりまで伸びた、やや長めの濡れるように黒い髪。穏やかな印象を与えるよう、なだらかに切り揃えられた眉。日本人にしてはすっと通った鼻筋。全体を通して、かなり整った顔立ちだと言えるだろう。
そしてここだけは変わらない沈むような黒い瞳が、鏡の中から自分を見つめ返している。
間違いない。
これはウーロの前世――
鏡に写った周囲の様子を確認する。
ベッドと鏡台だけが置かれた4畳ほどの小さな部屋だ。
ウーロにとっては懐かしい、『施設』内にある剣崎唯伽の私室だった。
不意に。こんこん、とノックの音が聞こえた。
「……アニキ」
「
ウーロの意思を無視して、剣崎唯伽の口は自動的に応答した。
「入っていい? ちょっと、話があるんだけど」
「いいよ。でももうすぐお客さんが来る予定だから、手短にね」
「うん……」
ドアが開いて、暗い顔の女性が入ってきた。
これもウーロの意思とは関係なく、唯伽は振り返って穏やかな笑みを浮かべ、彼女を迎える。
顔立ちは唯伽と似ているが、全身から漂う負のオーラのせいかあまり美形には感じられない。
彼女もまたウーロにとっては懐かしい。剣崎唯伽の妹、剣崎主伽だった。年齢はたしか、二十歳になったばかりだったはずだ。
「座りなよ」
「ううん、いい。すぐ済むから」
ベッドを指し示した唯伽に、主伽は首を振る。
「そう? ならいいんだけど」
「……あのね、アニキ。話っていうのはさ」
「うん」
「…………」
言いかけて、主伽が言い淀む。
そのまましばらく沈黙が流れた。
壁に掛けられた時計にちらりと目をやって、唯伽は申し訳なさげに眉を寄せる。
「……ごめん、主伽。よかったらあとにできないかな? そろそろお客さんが来る時間だから……」
「ううん。その、お客さんにも関係してることだから」
「お客さんに?」
「うん。……あのさ。アニキの目的って、『すべての人類を幸せに』することなんだよね」
主伽の声は震えていた。
きっとこれは、彼女の勇気を振り絞った質問なのだろう。
すでにウーロは気付いていた。これはただの夢ではない。
過去にウーロが『剣崎唯伽』だった頃。実際に経験した、過去の記憶だ。
ウーロはいま、夢の中でその記憶を追体験している。
「そうだよ」
「……そのためにずっと、アニキは動いてるんだよね。『施設』を作ったのも、アタシにあんなことさせてるのも、全部そのためなんだよね」
「そうだよ」
「……っ。そ、それで! 最初に自分に賛同してくれた『施設』のみんなは、一足先に幸せにしてあげてる。そうなんだよね!」
「そうだよ」
「――――っ!!」
唯伽の淡々とした回答に、主伽が激昂する。
「っ! わっ、わかんない! わかんないよ、アニキ!」
「落ち着きなよ。急にいったいどうしたんだ、主伽」
「急にじゃない! ずっと、ずっと、ずっとずっとずっと、心のどっかでおかしいって思ってた!」
「なにもおかしくないよ。俺たちは――」
「アニキはっ! あんな状態でいることが幸せだって、本気で思ってるの!?」
主伽の叫びに、唯伽は首をかしげる。
本気でわからなかった。妹が、なにを疑問に思っているのか。
「当たり前だろ。幸せっていうのは、まさにあの状態を指す言葉だよ」
「っ、でも――」
「俺と主伽、君だけは理解できるはずだろ。だってもし彼らが幸せじゃなかったとしたら、■■■★●●●▲▼★★▲○*×?#
一瞬、世界が歪む。
「――だから、彼らはいま間違いなく幸せなんだよ」
「…………」
唯伽の言葉に、主伽はやはり沈んだ表情のままだった。
あまりにも自明の理を理解できないでいる妹に、唯伽はため息をつく。
「……うん。主伽、このことについてはあとでゆっくり話そう」
「…………」
「お客さんが帰ったあとなら時間を作れると思う。だから主、伽……」
腹部に軽い衝撃を感じて、唯伽は視線を見下ろした。
自分のお腹から、奇妙なものが生えている。
それが腹に刺さったナイフの柄だと気付いて。
その瞬間、じわりと広がる激痛が全身を揺さぶって。
「か、は――」
「ごめん、アニキ。でもこれが、アタシのするべきことなんだと思う」
「主、伽――?」
ずるり、と唯伽の体が床に崩れ落ちる。
「……アニキはたぶん、本当にできちゃうから。人類全員をアニキの言う『幸せ』にする能力が、アニキにはある。だから」
「なん、で。どうしてだ、主伽。俺と君だけは、あの■■■■■■、俺と君だけは」
「だから、アタシが止めなくちゃいけなかった。アニキが唯一警戒せずに接してくれたアタシにしか、アニキは止められなかったから」
かすれる唯伽の視界の端に、自分に背を向けて立ち去ろうとする主伽が見えた。
「ごめん、アニキ。アタシを信じたのが間違いだったね」
「しゅ、か」
「アタシも。……アタシも、アニキを信じたのが間違いだった」
ばたん、と音を立ててドアが閉まる。
ひとりになった唯伽は、ただ自分の体が急速に冷えていくのを感じていた。
もう指一本動かせない。間違いない、自分はまもなく死ぬのだろう。
唯伽には理解できなかった。なぜ自分が妹に刺されたのか。なぜ自分は死ななくてはならないのか。
主伽の感情は完璧にコントロールできていたはずだ。いや、それ以前に。主伽だけは、唯伽と同じ理想を信じてくれていると思っていたのに。
自分はそんなに、人を見る目がなかったのだろうか。
「公安警察です。剣崎唯伽、あなた、は――」
「な……なんだ、これ。刺されてる……?」
到着したらしい『お客さん』たちの声も、いまの唯伽にはやたらと遠く聞こえる。
ひとつだけ、はっきりしていることがあった。
剣崎唯伽は、失敗した。
「体が冷たい。これはもう……」
「報告します。腹部を刺された男性を発見。外見的特徴から、新興カルト宗教『存在しない神の教団』教祖、剣崎唯伽に間違いないと思われ――」
もしも。
もしも次があるのなら。
今度こそ失敗はしない。
愚かにも人を心から信じるなどという失敗は、決して繰り返さない。
そして今度こそ、すべての人類を幸せに導いてみせる。
そんな、思考の断片を最後に。
剣崎唯伽の意識は、闇へと溶けていった。
●
「…………っ!」
ゆんわりと柔らかな絨毯の上で、ウーロは目を覚ました。
「おはようございます、ウーロ様。少しうなされていらっしゃいましたか?」
「……ええ、ちょっと。悪夢を見ていました」
スフィラが差し出した水差しを受け取り、直接喉に流し込む。
喉を通る水の感触が、今この場こそが現実だということをウーロに思い出させた。
「……ぷは」
「大丈夫ですの? やはり床で寝たのがよくなかったのでは……」
「あ、いえ。本当に大したことはないので気にしないでください」
心配げに覗き込むスフィラに微笑みを返して、ウーロは体を起こす。
(……なんで今さら、前世で死んだときの夢なんて)
もしかして、前世の自分――剣崎唯伽が、無意識下で警告でも発しているのだろうか。
だとしたら、その警告は無用だ。そう考えてウーロは、軽く頭を横に振った。
大丈夫だ。
剣崎唯伽と同じ失敗は、繰り返さない。
「全然大丈夫ですよ。魔候を追っているときには、地面の上で寝るなんてよくあることでしたから」
「そ、そうですの? でしたらいいのですが……」
スフィラに笑いかけるウーロの瞳は、どこまでも沈み込むように黒い。
スフィラの紫に渦巻く瞳を『狂信者の目』とするならば。
ウーロのその瞳は、正しく『教祖の目』だった。
「それよりも。日が明けてから、針はいくつ刻みましたか?」
「え……あ、ああ。ちょうど日の針が八つを刻んだくらいですわ!」
日本での基準に直すと、だいたい六時を少し回ったくらいだ。
スフィラの言葉にウーロはうなずきを返し、
「うん。それじゃあ――布教を始めましょうか」
「え、ええ。そうですわね!」
こうして、ウーロテウティス・アンバーグリスは。
剣崎唯伽の生まれ変わりであるこの青年は。
この日から本格的に、教祖としての活動を開始したのだった。
「――すべての人類を、幸せにするために」
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ここまで読んでいただいてありがとうございます。これで第一部完です!
次回更新日は未定です。作品フォローなどしてお待ちいただけると嬉しいです!
イカを崇めよ ~イカに変身するだけの謎スキルを持って転生したら、イカ狂信者の王女様に崇拝されていつのまにか人類を率いてました~ とてもつよい鮭 @nameless
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