第6話 万博閉幕。その後。

 ウォルタリだけが賛成し見に行くことになったが、先に “パレスチナのイスラエル館”を見ておきたいとのドゴールの意見に、三人そろって見に行くことになった。

 “パレスチナのイスラエル館”は、ユダヤ人の故郷パレスチナに関する資料展示を通じて、パレスチナにおけるユダヤ人国家建設の大義と国際的重要性についてアッピールし、ヘブライ語とヘブライ文化を発信することを目的としているパビリオン。

 展示では、イギリス政府がパレスチナの地にユダヤ人国家を建設するのを支持するバルフォア宣言を出した元イギリス首相アーサー・ジェームズ・バルフォア卿と、その宣言を書いた書簡を受け取ったロスチャイルド男爵。

 ユダヤ人国家創設運動であるシオニズム運動の指導者であり、実業家でテルアビブの初代市長となったメイア・ディゼンゴフや、ウクライナ出身でヘブライ語の詩人であるハジム・ナーマン・ビアリクについての展示も。

 第一次世界大戦初期にパレスチナに住むアラブ人と結んだイギリスの約束と相反するバルフォア卿の宣言。

 さらに、第一次世界大戦中にはイギリスとフランスの間で締結した秘密協定で、レバノンとシリアはフランス、イラクとパレスチナはイギリスにそれぞれ分割する合意も。

 この秘密協定には帝政ロシアも関与したが、ロシア革命で権力を握った共産党がバラしてしまう。

「アラブ人とユダヤ人どっちにもいい顔したイギリスの約束。後でパレスチナの地がややこしいことにならなければいいけどな」

 とドゴール。

 ドゴールのパビリオン見学はここで終わり。

「当局はこの万博が未来への分岐点になると思っているようだが、未来、近い未来だぞ。世界の人たちは地獄を見ることになるかもしれん……」

 というとさらに古垣に

「貴国も万博を開催するそうだな」

 と質問する。

 1940(昭和15)年に東京市での開催を提案している「紀元二千六百年記念日本万国博覧会」のことだ。

「パリにある大使館を通じていろいろと交渉をしている最中ではありますが……。東京と横浜を会場した万博を検討中であります」

 と答えると、

「貴国も隣国と緊張状態にあるのだろ。せいぜい中止にならないよう気をつけろよ」

 とドゴール。

 別れ際、お礼を言う古垣に、

「君とはこれからも付き合いがありそうな気がするから……」

 と答えたドゴールは会場を後にした。

 ウォルタリと古垣は日本館へと入った。

 日本館は細い支柱で立てられ軽金属のパビリオンである。

 設計は、ル・コルビュジエの事務所で働いている坂倉準三。

 坂倉は東京帝国大学文学部美学美術史学科を卒業すると、ル・コルビュジエの事務所で働いた。

 ル・コルビジェのもとでサヴォア邸やパリにあるスイス人学生施設の建設に関わった。

 一旦帰国するも、このパビリオン建設のため再びフランスに戻ってきていた。

 館内の展示では、スンプ法(鈴木式万能顕微印画法)を出品した郡是製糸という京都の会社に興味をもったウォルタリ。

 郡是製糸は1896(明治29)年、波多野鶴吉が養蚕による地域産業振興を目的に京都府何鹿郡(現・京都府綾部市)に設立された会社。

 波多野鶴吉と妻はなは、幾多の困難を乗り越えてて会社を発展させ、1900(明治33)年のパリ万博や1904(明治37)年のセントルイス万博で受賞の栄誉を受けた。

 波多野夫妻は、会社の発展とともに地域の振興、特に女性工員の社員教育に力を入れた。

 1934(昭和9)年には兵庫県園田村塚口に絹製品工場を建設しフルファッション靴下の生産も行っている。

 「そんな素晴らしいご夫婦ですか」

 機会があれば、波多野鶴吉と妻はなのドラマチックな“物語”を聞いてみたいと思うウォルタリであった。

「来年、わが国で開催される万博にもぜひ取材に来てください」

 とウォルタリは古垣に提案。

 1938(昭和13)年に開催のヘルシンキ国際博覧会は、航空に特化した博覧会ではあるが、博覧会国際事務局(BIE) が認定する国際博覧会として開催が予定されている。

 フィンランドとは、1940年オリンピック開催を競い合ったが、今後の発展の可能性を感じさせる国と思う古垣。

 ウォルタリと別れると、古垣は時間の許す限りさらに多くのパビリオンを見てまわった。

 しかし、スペイン館同様、多数のパビリオンが建設中。

 なお、スペイン館が完成したのは、日中戦争が勃発した7月7日の5日後、12日のことである。

 鉄筋コンクリート建築のパイオニアで、パリ初のアールデコ様式の建物であるシャンゼリゼ劇場などを手掛けたオーギュスト・ペレ設計のイエナ宮殿はついに万博期間中に完成しなかった。

 11月25日までの半年間開催された万博の費用は十四億フラン。来場者数は三一〇〇万人を超え、約二億フランの黒字。

「ドイツのファシストとソ連のコミュニスト悦ばせただけじゃないかと!」

 とドゴールは憤る。

 ヨーロッパ大陸の緊迫する国際情勢の中で開催されたこのイベントが、平和的友好ムードの機運を高めることに期待を寄せられたが、この目的は結局、達成されなかった。

 1939(昭和14)年、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発。

 東京で開かれる予定であった万博は、日中戦争の激化で中止になっている。

 ドゴールは准将に昇進し、戦争担当国防次官を務めた。

 1940(昭和15)年5月にドイツがフランスに侵攻すると、世界最強フランス装甲師団を率いてドイツに反撃するよう政権中枢を説得したが、政権はアッサリとドイツに降伏。

 政権が崩壊すると、ドゴールはイギリスに亡命。

 親ドイツのヴィシー政権からフランス国籍を剥奪されるも、ロンドンのBBCラジオでフランス国民にドイツへの徹底抗戦を呼びかけた。

 ロンドンの劇場でドイツのフランス侵攻時のニュース映画を見るドゴール。

 万博のために建設されたシャイヨー宮を取り巻きを連れて闊歩するヒトラーが映し出された。

 そして、エッフェル塔を背にポーズをキメて記念撮影におさまるヒトラーを見てドゴールの怒りは頂点に達し大声を上げた。

「万博、万博、とウレシ騒いだ結果がこのザマか!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

祭典の果て La fin de la fête 林マサキ @hayashi-Kirjailija

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ