パーテルノステル

虹乃ノラン

パーテルノステル

 もこちゃんのいた部屋に入った新しい女の子は黒髪の綺麗な子だった。いかにも清楚で、生まれてこの方ヘアカラーさえしたことないんじゃないかっていう、瞳の大きいナチュラルなまつげの子。

 肌がほんのり白くって、幼女みたいに頬がうっすらとピンクだった。そのくせ細い二の腕に不釣り合いなふっくらとした胸もとがなんだかアンバランスで、これは当たりだと思った反面、こんな子がどうしてこんないかがわしい物件に、と俺は心配になる。部屋に備えつきの赤いテカテカしたカラーボックスがいかにも似合わない。

 ここはパーテルノステル。知る人ぞ知るのぞき部屋だ。ここに通い始めて三年経つ。

 キッチンも風呂もなく学生寮みたいな小さな部屋で、おそらく共有スペースが別に用意されているんだろう、とにかくこちらののぞき窓から隅々まで見渡せる程度のこじんまりした空間で、どういう仕組みになっているのか、部屋そのものが循環式エレベーターになっているらしい。二十世紀前半にヨーロッパで人気があった様式だとかで、常にゆっくりと動き続ける乗り降り自由の観覧車というところだ。

 七室のかご部屋がゆっくりと動いていく。同じ女の子をのぞいていられる時間はおよそ三分。そのまま待っていれば、次のかご部屋が現れるという仕組み。女の子は何も知らないのか、普通に住んでいるだけのようだから部屋にいないときもある。

 このイチかバチか感が面白いと言えば面白い。通っていればどの部屋の子がどの時間にいるかはおよそ予想がつくようになってくる。

 二〇分も待っていれば一周する。

 俺らが入れられる狭い部屋には椅子しかなく、明かりをつけることは許されない。初めて入ったとき、ポケットを探られて煙草とライターを取り上げられた。

「まあ一度体験してみてくださいよ。煙草のことなんてすっかり忘れていますから」

 気づいたら三時間経っていた。ああそういえば、部屋にあるのは椅子だけじゃなかった。秒針が鳴らない無音ムーブメントを使った丸い時計がのぞき窓の上に設置されている。文字盤には蛍光塗料。窓は縦に細長いミラーガラスが貼られていた。

 匂いなどしないはずなのに、しどけない姿でタオルケットにくるまっている女の子を見ていると、香りまで感じる気がして三分など一瞬で通り過ぎていく。息を潜め、胸が高鳴るのを必死で抑える。この興奮に慣れることはあまりない。

 客の入る個室が何部屋あるのかは知らない。俺はいつも301に入る。部屋の移動は自由だが、移るたびに別料金がかかる。個室には鍵がかかっているので、一度受付まで戻らなくてはならない。もう少し同じ子を見たいと部屋を追いかけて移動する初心者がいるが、そんなことをするよりもう一周回ってくるのを待つ方が効率がいい。

 異変が起こったのは三カ月ほど前のことだ。いつもより早くパーテルノステルに着いた俺は、受付の男がいないのに気づいたが入口は開いていた。会計は帰るときなので、無造作に置かれたチケットを勝手にちぎると受付の中に腕を伸ばして壁にかかった301の鍵をとった。狭い階段を上って個室に入る。

 この時間、部屋にいる女の子たちはまだ少ない。彼女たちはだいたい夕方一度帰ってきて、着替えて出かけたりネイルの手入れをしたりする。鏡の前でペディキュアを直す金髪ショートの子は、いつもホットパンツをはいていて下着は黒いレースだ。股の隙間から見える黒レース、手を伸ばせば一メートルもない。この時間は狙いどきなはずだった。

 のぞき窓の向こう、男子禁制のはずのかご部屋に俺は男の姿を見た。

 淡いピンクのパジャマを着るもこちゃんの部屋だ。男がこちらを振り返る。その顔を見て、俺は冷やっとした。見つかったのか? いやそれよりこの青ひげの男は、受付でいつも咥え煙草のままモニターから目を逸らそうともせずにチケットと鍵を渡すあの男だった。

 男がこちらに腕を伸ばした。ミラーガラスの枠の一部をバカッと外す音が壁越しに響く。俺は全てを悟った。その手に盗聴器のようなものが握られている。

 男は天井中央の電球をいじり、何かを確認すると部屋ごと視界から消えた。隠しカメラでもあるのか、あの男がいつも見ているモニターはこちらからは見えないが、もしかすると全室をのぞいているのかもしれない。

 一瞬見てはいけないものを見てしまったのかと肝を冷やしたが、すぐに思い直した。こんないかがわしい商売をしているんだ、部屋を監視していたところで別段どうってことはない。しかし俺に残っていたかすかな良心が心をざわめかせた。聞いたことがある、彼女たちの出入口は一カ所しかないと。しかもあの速度でしか動いていない。俺は慌てて部屋を出た。鍵を閉めて入口へ戻る。

 男の侵入経路は不明だが、俺がいた301はパーテルノステルの昇り側にある。あの男が降りるまでにまだ時間はあるはずだ。落ち着け。店入口に戻ると、俺は勝手に取ったチケットの破り口を整えて分らないようにし、鍵を壁に戻すと入口を出て物陰に身を隠した。

 十分後に青ひげが降りてくる。腰に吊りさげた鍵をじゃらじゃらさせながら、受付横のドアを鍵で開けて入り何かを引き出しにしまうと入口に向かってきた。施錠を外そうとして既に開いていることに気づき、一瞬手を止めたが受付へと戻っていく。

 俺は営業開始時間が五分すぎるのを待って中へ入った。「301」と口にして受付に手を乗せる。いつもはこちらを見ない青ひげがじろりと見る。

「早くしてよ」

 男は黙ってチケットと鍵を渡した。

 椅子に座ったまま、もこちゃんが帰ってくるのを待った。彼女は夜遅く戻ってくると誰かに電話をしてそのまま寝てしまった。やばい、金が続かない。親から送られてくる仕送りは全て使い込んだ。工学部に通っていた俺は、第二外国語の単位を落としていて追試を控えていたが、試験の前の日も夜間の突貫工事のバイトに出かけた。


 俺は青ひげを待ち伏せし、受付に続く裏口を見つけた。暗証番号を押すのを遠目にしっかりと焼き付ける。

 受付のモニターは八分割されていて、全てがもこちゃんの部屋だった。映像を見る限り寸分の隙もなくカメラが設置されている。引き出しを開けると小さなテープがずらり、日付と時間が書かれていた。

 男は出勤すると、営業開始までの数十分をもこちゃんの部屋で過ごしているようだった。一本を適当に抜き出して聞いてみる。何も聞こえない。ボリュームを上げると寝息のようなものが微かに聞こえた。いかれている。テープをしまうと301の鍵をとり、受付の小窓から体をひねり出して階段を上った。

 青ひげは赤いカラーボックスを開けると、下着を取り出し自分の体にこすりつけていた。よだれを指にとって下着のマチに塗りつけ、にやりと見おろして綺麗に畳んで引き出しを閉める。

 俺の心臓は異様に鳴り続けた。何度も何度も時間を確認するが目に時刻が焼き付かない。

 どうすればいい、どうすればいい、ネットしか頼る先のない俺は「盗撮」と検索して、わいせつ、更衣室……とだらだらと読んでいった。

 パーテルノステルは女の子にとってはたぶん賃貸契約をしている部屋だからこれは住居不法侵入ってことになるんだろうか。『わいせつ行為以外の例では、暗証番号を設定する操作パネルを撮影するように小型カメラを取り付け――』

 そこまで読むと俺はひやりとして、スマホをしまった。


 三日後だった。いつものようにパーテルノステルを訪れた俺は、青ひげの顔からすっきりひげが落とされているのに気づいた。チケットと鍵を渡す指の、いつも汚らしい爪が綺麗に揃えられている。俺の本能が「やばい」と告げた。こいつは何かやる。

 もこちゃんに知らせなければ。もうそれしか考えてなかった。郵便受けのありかを探したが、どうやら郵便物は管理人が全て手渡ししているようで、住人用の出入口は厳重に管理されていた。彼女が学生なのかは分らないが、毎日帰ってくるということは毎朝出かけているはずだ。

 次の朝、駅で待ち伏せた俺はもこちゃんを見つけた。近づくと軽蔑するような視線をよこして足早に通り過ぎる。どうしても伝えなければならない。

 夕方まで時間を潰して裏口へいくと四桁の暗証番号が変えられていた。焦って正面入口へ向かう。

 ――「本日休業」の貼り紙

 まずい、すごくまずい、とてつもなくまずい気がするのに、俺は何もできずに立ち尽くして、その日はとぼとぼと家へ帰り着いた。


 次の日、俺はいつもより二時間も過ぎた頃にやっとパーテルノステルに向かった。「301」そう告げた俺の顔を、数ミリ生え始めた青ひげがちらりと見る。俺はぞくっとして階段を上る。

 もこちゃんは部屋にいた。明かりもつけず、布団を被ったまま動かなかった。ずっと泣いているのか辺りにティッシュが散らばっている。音は聞こえなかったが薄暗がりの中で携帯の着信ランプが延々と点滅していた。

 俺はその日三時間そこにいた。もこちゃんは一度起き上がって水を飲んだ。前を通り過ぎるその目が死んでいる。腕に生々しいひっかき傷と、赤く腫れた頬に涙の跡が光っていた。俺はそのまま部屋を出て、二週間パーテルノステルには行かなかった。

 次に行ってみると、もこちゃんの部屋には誰もいなくなっていた。残された赤いカラーボックスがやたらに目立つ。

 俺は遠いシリアの国で、女性が大量虐殺された記事を読んだ時みたいに、へー、そうなんだ、悲惨だけれど、だってどうにもできないしね、って椅子に座ってベルトを外した。

 特に目当ての女の子もいないのに、その後もパーテルノステルに通った理由は自分でもわからない。ただ何か、自分の胸の中のちくちくとけば立ったざらつきが、俺に靴を履かせてバイトに向かわせた。

 追試は終わっていた。留年が決まったその日も、俺は万札を握りしめて家を出た。


 黒髪の綺麗なナチュラルなまつげの子がその部屋に入ったのは、学校にもすっかり行かなくなった頃だった。

 シーツは茶色がかった薄いベージュ。部屋に見たことのない観葉植物が置かれていた。白いカビが生えたみたいな葉っぱに小さな青い花。ブルネラというらしい。清楚な青い花は、黒髪の上品な彼女にとてもよく似合った。

 花言葉は『冬の天使の涙のあと』、もこちゃんの涙を思い出し、俺は少し苦しくなりながらも、新しいこの子をブルネリーと呼ぶことにした。

 彼女は部屋に帰ってくるとその鉢に向かって大切そうに話しかけていた。土の上にかわいらしい羽のついた雪だるま人形がふたつ、ショートケーキの上に突き刺された柊の葉っぱのように飾られている。小さな雪だるまは体を寄せ合って白い網目の生えたような葉っぱを見上げていた。

 彼女はたまに、その葉っぱの裏まで丁寧に白い布地で拭いた。呼びかければ育つっていうけど人が実際にやっているのを見たのは初めてで、何かこう、まあこの子なら似合うからいいか、そんなことを俺は思った。

 駅で待ち伏せし、彼女が商店街の花屋で液体肥料を買うのを突き止める。ブルネリーは小さなハーブも育てていて、透明なガラスポットでよくハーブティーを淹れていた。

 電話がかかってくると、彼女は俺の目の前で膝を抱いたまま長電話をした。ミラーガラスの前においしそうな脚を見せつけながら、腿をぴったりと閉じて楽しそうに笑顔を浮かべる。瞳の色は日本人には少し珍しい緑がかった茶色。

 こんなに綺麗な黒髪をしているのに、色素が薄いのかその頬にはうっすらとそばかすが浮かんでいる。俺も床に座りこんで彼女のそばかすを数えるようにして、ハーブティーが自然に冷めていくのに身を任せた。

 ブルネリーの部屋に小さな家庭用のプラネタリウムがあると気づいたのはそれからしばらくしてからだった。彼女はラグの上に座り、俺の目の前で姿見に背中をぴったりと寄せたまま、人工の星が天井に映るのを眺めていた。明かりの消された室内に、この薄いガラスに隔てられた、暗闇と暗闇で隣り合う小さな箱。

 彼女の艶やかな黒髪がすぐそこにある。瞳は見えない。膝を抱え、上を仰ぎ、そしてその光を眺めながらなにを思っているんだろうか。

 いったい何周したんだろうか――次にその部屋が現れたときには別のスタンドの明かりがついていて、ベッドに横になったブルネリーの影を壁に映していた。

 たまに彼女は電話しながら真剣な目つきをした。口元を閉じて、ただ「うん、うん」と頷きを繰り返す。一度だけ彼女が目の前で泣いたことがある。そのあと、すぐに電話を切って背中を向けてしまった。布団に潜りこむ彼女を見て、俺はもこちゃんを思い出した。

 パーテルノステルが閉まっている日中の時間帯に、俺はまたひとつ新しいバイトを入れようと決めた。河川敷の花火会は十月だ。たしか水門の奥から観れる有料チケットがあるはずだ。あれはいくらだっただろう。

 ここから出してあげたい。その瞬間から俺の心はそれでいっぱいになった。


 青ひげの男は相変わらずだった。営業時間の少し前にやってきてはしばらく留守にして、開始直前に戻って入口を開ける。モニターを見つめたままチケットと鍵を渡すだけ。

 そこになにが映っているかはわかっている。あの清楚な花に話しかける黒髪のブルネリーが、青ひげの手の届く距離にずっと住んでいる。

 裏口の暗証番号は何度か試してみたが開けることはできず、そちらから侵入するのは諦めていた。彼女が泣いてまたここを出ていってしまう前になんとかしなければならない。

 しばらくたって、青ひげがまたひげを綺麗に剃り落とした。受付の小さな窓から鍵を渡すその指先を俺は睨んだ。爪が綺麗に切られている。とうとうこの日が来てしまった。背筋に一本の汗が流れる。

 ブルネリーが部屋の電気を消すのを待って、こっそり忍ばせたポケットのライターを取り出すと、カチカチとミラーガラスのこちら側で灯した。

 確証はないが、ミラーガラスの場合のぞかれる側が明るくて、のぞく側が暗いことが大前提だと聞いたことがある。勘のいい彼女はすぐに異変に気づいて、明かりをつけてこちらを凝視した。近づいてきてのぞき込む。そしてまた電気を消すと目の前に戻ってきた。

 彼女はすぐそこに立っている。そうだ気づいてくれ、そのままライターをカチカチと点けたり消したりを繰り返す。彼女の手がミラーに触れた。ゆっくりとさする。次の瞬間、携帯のライトでこちらを照らした。

 まぶしさにぎょっとなる。そうだそれでいい、気づいてくれ。俺はここにいる。そこから出るんだ。俺は知っている。あの男が全てを監視していることを。君のいない間にその部屋に入り込んで何をしているかを。俺の顔がもし見れるなら見るんだ。そして気づいてくれ。お願いだ。

 その日俺は朝まで駅で待ち伏せた。ブルネリーが歩いてくる。黒い髪にブルーのシャツ。ブルーのデニムに、白いスニーカー。透明な使い捨ての傘を差していても、彼女は目を見開くほどに綺麗だった。勇気を振り絞って声をかける。

「あ、あの、パーテルノステルに住んでいる人ですよね」

 いつも見ています、とは言えない。声をかけたはいいものの、続きを考えていなかった。

「パーテルノステルって?」

 ブルネリーは不思議そうに聞き返した。しまった、その名前は住人は知らないのかもしれない。

「ああ、ごめんなさい、じつは知り合いがあなたのいる部屋に以前住んでいたんです。それで、あの、こんなこと言うと怖がられるかもしれませんが、何か変わったことはありませんか?」

 いぶかしそうに俺の目を見る。底から砂金でも掬おうとするように、俺の眼球の底をえぐった。そしてさらっと言った。

「ええ、実はそうなんです。でもどうしてそれを?」

「ああ、よかった」俺はほっとした。

 ブルネリーは朔良さくら明日香あすかといった。学生かと思ったがデザイン会社に勤めていて俺より五つも年上だった。その日は休みらしく、俺たちは駅から離れた喫茶店に入って人気のない二階の隅に座る。

「出かけるところだったんですよね」

 そう詫びると、ブルネリーは少し躊躇ってから話し始めた。

「友達が入院しているんです」

「お見舞いでしたか。呼び止めてしまってすみません」

 踏み込んでいいのかわからなかったが、見舞う先のその人の容態を訊ねてみる。彼女はそれには答えず、手にしたカップを握る手に力をこめた。

「最近部屋から変な音がして、昨日も電話していたら不安になって泣いてしまって……。一人でいるのが怖くって彼女に会いに行こうと思っていたところでした」

 見定めるように俺に視線を向けてから、ひと呼吸置いて饒舌に語り始めた。

 青ひげの男は部屋に侵入しているだけではなく、彼女をストーキングしているようで、夜道をつけられたり下着がなくなったりするという。警察にも届けたが相手にされなかったと。

「何か証拠でもあれば、もう一度話をきいてくれると思うのですけど」

 すがるような目つきだ。狭い丸テーブルの下でブルネリーの膝が俺の膝にこつっとあたった。俺はどぎまぎとしながら紙の手拭きでテーブルを拭く。

 彼女はあそこがのぞき部屋であることさえ知らない。俺が全てを知っているといっても、一緒に警察に行くのは躊躇われる。

「本当に、怖いんです。もうどうにか、なってしまいそう」ブルネリーはそう言って涙を浮かべた。

 パーテルノステルはやはり賃貸だった。しかし信じられないほど格安だったのだという。

 詳しく聞いてみると部屋が動いているEV方式で、非常に旧式のために入口でしばらく待たなければいけないという条件の他にも、水回りは全て共有スペース。

 それらを考えればなるほどと思える物件で、お店を持ちたくてお金を貯めていた彼女は、しばらくならと我慢してそこに住んでみることにしたという。

「引っ越してきたばかりですし、すぐに新しいところに移るお金もありません」

「明日香さん……っ! お金なら、お、僕がなんとかしますから」

 膝が離れて彼女は立ち上がった。

「ご親切にどうも。私もう行きますね。やっぱり警察に相談してみます。誰かが忍び込んでいるのなら、なんとか証拠をつかんでみます」

「危険だからやめたほうがいい!」

 そう言うのも聞かずにブルネリーは出ていった。

 もこちゃんの体についていた傷を思い出す。だめだ、真向からあの青ひげを捕まえようなんて無理に決まってる。あの綺麗な細い腕のブルネリーに傷がつくなんて考えたくない。

 俺は覚悟を決めた。青ひげはひげを剃り落とした。その爪も短く整えられている。

 今晩か明日か、絶対にあの男はもう一度やる。俺は今日、あの男を止めなければならない。だけど裏口の暗証番号は変わってしまっている。正面突破しかない。

 俺は一度家に戻ると、バイト先から持ち帰っていた鉄パイプを持ってパーテルノステルへ向かった。

 青ひげの出勤時間を待つ。男は裏口から入り、受付に鍵をかけて奥へ向かった。俺は正面玄関にガムテープを貼ると、持ってきた鉄パイプで叩き割った。音は意外なほどしなかった。腕を突っ込んで鍵をあけて中へ入り、男の後を追う。

 青ひげは狭い階段を上り207へ入った。ドアに耳をあて聞き耳を立てる。ゴトゴトと物音がしてしばらく経つと静かになった。意を決してドアノブをそっと握るが扉には鍵がかかっている。

 くそっ。中からは一切音がしない。どうなっているかはわからないが、目的の部屋はわかっている。

 俺は慌てて今来た階段を駆けおりて受付へと向かった。こちら側は下り側、急いで301へ回れば、男がブルネリーの部屋に入り込んだなら確認できるかもしれない。

 受付で301の鍵をつかむ。横には207の鍵もかかっていた。

 あいつはマスターを使っているんだろう。腰に下げたじゃらじゃらとした鍵束を思い出す。207の鍵もポケットにつっこむと俺は301へ走った。

 いらいらと時計を確認しながらブルネリーの部屋を待つ。次だ、次がブルネリーの部屋だ。

 赤いカラーボックスの部屋が現れた。青ひげの男がそこにいた。クローゼットを開けて中へ入り込もうとしている。俺は確信した。彼女が帰ってくるまでに、奴を仕留めなければ。

 俺はそこを飛び出して207へと走る。一度一階へと駆けおりて、逆側にある別の階段を上る。

 鍵を使って207へ入ると、のぞき窓は外されてぽっかり穴をあけていた。やはりここから入り込んでいたのか。それなら、かご部屋のミラーガラスは外れるように細工がされているはずだ。こちら側に部屋が戻ってくるまで時間もない。鏡の外し方を確認しておかなければ。他の部屋が現れる。俺は手を突っ込んで四隅に指を這わせた。

 どうなってる? 枠は木ではなく、金属でできているようでかなり重かったが、持ち上げてみると簡単に浮いた。深めの金具で沈み込ませているようだ。

 部屋がどんどん下へと動いていく。暗い中、頭を潜りこませて必死に視界を凝らす。どうやらエアコンの取り付け金具みたいなもので固定されている。思い切って掴んで力を込めると、がたっと枠が外れた。

 できた! 枠を部屋の中に落としそうになるのを慌てて元に戻すとその部屋をやりすごす。

 ブルネリーの部屋がやってくる。301から見て、青ひげは正面のクローゼットに潜んでいた。207から見ればそのクローゼットは手前にある。合わせ鏡のようになっているこのミラーガラスのすぐ横だ。音もなく入り込めば、うまくいけば気づかれずにすむ。

 枠に腕をかける。力をいれてぐっと持ち上げ、落とさないように堪えながら枠を床に降ろした。そっと床に立つ。

 のぞき窓越しに三年間見つめ続けてきた部屋に俺は今立っている。目の前のベッドに飛び込みたい衝動を抑えながら、左横にあるクローゼットにゆっくりと向いた。

 ごくりと唾を飲む。鉄パイプを握りしめて扉を開ける。この男と目が合ったのは確かこれで三回目だ。そんなことを考えながら俺は腕を振り下ろした。

 男は手に刃物を持っていた。奪おうとして俺は腹を刺された。俺は崩れ落ち、鉄パイプは男に蹴り飛ばされた。俺はあちこちをまさぐって手にブルネラの鉢植えを掴むと、それを粉々に砕けるまで夢中で殴りつける。

 体中から力が抜けていく。気づくと俺は床に倒れ伏していた。隣では青ひげの男もピクリとも動かなくなって頭から血を流している。

 ベッドの下から誰かが出てくる。視線の先にブルネリーが立っていた。

 ああ、いたんだ。隠れていたんだね。無事だったんだ……。

 目の隅にブルネラの鉢植えが映る。ごめん……、君の大切な分身が粉々になってしまった、本当にごめん、でも君が無事でよかった。

 俺はほっとして口を開き、声をかけようとしたが、ごぼっと喉奥から鉄っぽいものがこみあげてきて言葉にならなかった。彼女の足が近づいてくる。

「あんたも同罪なのよ」

 俺は耳を疑った。彼女の声は血が通っていないように冷淡だった。

 ブルネリーは床に落ちたナイフを取り上げて俺を見おろした。彼女の白いスニーカーがブルネラの鉢植えを踏みつけていた。靴を、履いている……。手には手袋がはめられていた。

「まあでもお礼を言わなきゃね、こいつをやってくれて」

「いったい、どうして……」俺はかろうじて言った。

「知りたい?」

 腹からどくんどくんと血があふれ出す。

「あんたも早苗のことつけ回してたんだってね。この部屋のありえなさ以上に、ここに通うあんたたちに一番反吐が出るわ。私は早苗にこの部屋のことを聞いた。どうやら鏡の向こうに部屋があるみたいだって。動いている部屋なんてありえないと思ったけど、あれはのぞき部屋になってるはずだって、あの子はすぐに気づいてた。あんたよ、あんたがあれこれしたおかげであの子はやられた。あんたが沈黙の管理人の支配妄想に火をつけたのよ。私はあんたたちを許さない」

 ブルネリーは俺の胸を一突きすると、ぐりっと手首をひねった。そう、パーテルノステルが観覧して頂点から落ちていくように、ぐりっと、右に……。

 彼女はナイフを突き刺したまま手を放し、ミラーガラスを振り返ると、ふっと笑って、

「ねえ、私の脚は気に入ってた?」そう言ってどこかに電話をかけた。

「ああ、早苗? 仇はうったよ」

 ブルネリーが膝を抱えて電話をかけていた姿が脳裏に蘇った。視界が斜めに歪む。口から溢れた血しぶきが、踏みつけられて散らばった白いブルネラの葉にかかり紅い花火のように染まっていた。

 彼女は静かに部屋を出て、しばらくするとパトカーのサイレンが鳴り響いた。

 俺はかろうじて命を取り留めたが、パーテルノステルは摘発され、俺はムショに送られた。部屋の借主は偽名で見つからず、俺の話は信じてもらえなかった。青ひげが録りだめていたはずの盗聴記録も丸ごと消えていたという。

 もこちゃんは確かに存在していたようだが本人が証言拒否をしたらしく、裁判で俺を擁護するものは何もなかった。俺の人生は壊れた観覧車みたいに二度と上を向くことはなく、小さな闇の箱の狭間に散っていった。


《了》

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パーテルノステル 虹乃ノラン @nijinonoran

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