いつもと変わらない朝だった。午前六時半に目覚め、スーツに着替える。台所では、妻が朝食と弁当の準備であわただしくしていた。僕は食卓で、朝食を待つ。朝刊を手に取る。物価高で悲鳴を上げる商店街の記事に目を通していると、食卓の上にプレートが運ばれてきた。トーストとスクランブルエッグのいつもの朝食。


「なにか面白い記事でもあった?」


 妻が問いかけた。テーブルの上に紅茶のカップを置く音がした。


「いや。辛気臭い話題ばっかりだよ。朝から気が滅入る。戦争、不景気、殺人、詐欺、横領、セクハラ、不倫、自殺。そんなのばっかり。新聞って他人ヒトの不幸しか載っていないよね」


 新聞から顔を上げると妻と目が合った。妻はほほえみ返した。その顔に違和感を覚えた。何かがいつもと違う。


「ねえ、三喜子。お化粧変えた?」


「そうよ」


 妻はそれ以上取り合わなかった。台所に戻り、弁当作りを再開した。フライパンで何かを炒める音がした。多分ソーセージか何かだろう。妻の目元のシャドーが濃くなっていた。唇を彩る色も、普段のあわいバラの色を思わせるものから、毒々しい赤黒いものへと変わっていた。


「きょうは早く帰れそう?」


 玄関で靴をはいているとき、送りに来た妻はそうたずねた。


 いま取り組んでいるプロジェクトが今週末までかかるから、今週は定時では帰ることができないだろうと告げると、妻はそっけなく「そう」と返した。


「なあ、昨日した話なんだけど」


「ほかの男と寝る話? それがどうしたの?」


 妻は言った。


「ねえ、謝るよ。変なこと言ってしまった。夕食に飲んだワインが強かったせいだ。本心じゃないことを言ってしまったんだ。忘れてほしい」


 沈黙。


「ねえ、あなた、この期におよんで嘘だったというの?」


「いや、嘘だったとかじゃなくて」


「もう決まったことよ。いまさらくつがえらないわ」


「ねえ、まさか本気でとらえたとは言わないよね」


 そう言った後で僕は背中をそらさねばいけなかった。僕の額めがけて妻の人差し指が飛んできたからだ。


「いいこと。もう奴隷契約は交わされたんだよ。お前からこの話題を切り出すことは金輪際禁止だよ。分かったね」


 金切り声が耳をつんざいた。それは稲妻のように僕の耳のなかを蹂躙じゅうりんした。僕は通勤用カバンと弁当袋を両手に抱え、逃げるように玄関から飛び出した。


 背後で扉が閉まる音を聞き、エレベーターホールへと走った。玄関を掃いていた隣の奥さんのあいさつに返事をしている余裕はなかった。


 恐怖を感じた。妻の声に、顔に、全身に。あんな鬼のような形相でにらまれたのは初めてのことだった。心臓が高鳴る。乱れた呼吸が荒い息をつかせる。


 一方で、恐怖とは裏腹の性的興奮を感じていた。ビジネススーツに包まれた肉体が法悦の予感に震えていた。


 この時を境に僕と妻の関係は決定的なものになったのだ。

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