プレゼントをあなたに

馬村 ありん

 僕以外の男と寝てほしいという思いを打ち明けたとき、妻が最初に要求したのは、契約書を書くことだった。


「あなたのそのはしたない願望に付き合ってあげてもいいけど、条件がある。奴隷契約書を書きなさい。そこにどんな苦痛も受け入れると書いてちょうだい」


 妻は押しの弱い性格で、命令口調で話すことはなかった。僕が右と言えば、妻も右。今や死語と化したが、俗にいう『よくできた妻』というやつだ。


 だから、妻の反応は、泣きながら断るか、強がって受け入れてくれるかのどちらかだと予想していた。妻はいま、キスしてしまいそうなぐらい近くに顔をよせ、目を見開いている。花のような唇の隙間からは、かみしめられた歯列がのぞいている。


「それは困る」間の抜けた声で返すのがやっとだった。「もしそうなったら、君の機嫌ひとつで僕の要求をはねつけることができるんだろう? そんな状態は嫌だよ。せめて別の男と寝ることだけは約束してほしい」


 妻の片眉が上がった。チッと舌打ちが聞こえ、その冷たさに全身がこごえる思いがした。


「あなたの提案してきたことって、殺されてもしょうがないくらい下劣な話よ。その事実をもってあなたと離婚調停に入ることもできるし、別居することだってできる。ふつうならそうしてるわよ。ねえ、私があなたに慈悲をかけているって気づかない? あなたの要求を受け入れてやろうって言ってるんですから。それをあなたはフイにしたいというの?」


「わ、分かったよ」


 妻はテレビ台のメモ帳の上から万年筆を取り上げ、古新聞の束のなかから一枚の広告紙(それは近場のスーパーのセール広告だった)を引きぬき、僕の座るテーブルの上にそれらをバシンと叩きつけた。


「書きなさい」


 僕は書きはじめた。契約書。甲……西原多香男。乙……西原三喜子。甲は乙の者の奴隷となる。本書はその契約書である――。


「わがままな人だとは知っていたけど、ここまでとは思わなかったわ。ひどいわよね。私がほかの男に抱かれるのを想像して興奮しているの? ぞっとするわ」


「仕方ないだろ。僕はそういう人間なんだ」


「確かにそうよね。昔の恋人の話をしつこく聞き出そうとしてくる。それもエッチの時に限ってよ。何人とヤッたんだとか、いままで何回したんだとか。思い出すだけで怖気がふるう。あなたって頭がおかしいのよ」


 最下段に自分の署名をした。


「印を押しなさい」


「分かったよ」


 妻が電話台の下の引き出しから取り出した朱肉に、僕は親指をふれさせた。ねちゃりとした感覚が指先に広がる。朱色に染まった親指のひらを、契約書の署名の横に押しつけた。妻の手のひらが僕の手の上から力を加えた。広告紙と僕の指が密着する。


「これは受け取っておくわ」


 契約書をエプロンの胸元にしまって、妻は居間から姿を消した。その夜は戻ってくることはなかった。僕は中断していた夕食をとりはじめた。豚汁は冷めていて、炊き立ての白米もかたくなってしまっていた。


 要するに、妻は怒っているのだろう。その仕返しとして、このような奴隷契約ごっこをした。つまり、本心ではないのだ。一晩眠れば、機嫌を直してくれるはずだ。食器を下げて洗い桶に浸し、スーツを脱ごうとクローゼットに向かおうと寝室を横切った。妻はそこにいて、ベッドに横になっていた。


「なあ、怒っているのか?」


 妻からの反応はなかった。僕の枕の方に背を向けるようにして眠っている。僕はあきらめてスーツを脱ぎ、浴室でシャワーを浴びた。髪をかわかした後でベッドに潜りこんだ時も、妻は同じ姿勢のままでいた。華奢きゃしゃなその背中がうす暗闇の中で浮かび上がってきた。


 ――わがままな人か。妻からそのような評価をされるのは初めてのことだった。確かに僕は甘やかされて育てられてきたし、いつまでたっても他人に甘える癖が抜けない。情けないことにそうなのだ。それでも社会に出てから五年、我慢してやってきた。プレッシャーに飲みこまれそうな日々を支えてきてくれたのは妻のあふれんばかりの愛情だった。妻はこんな僕を受け入れてくれていると思ってきたが、「わがままな人」と伝えてくるのは、不満に感じる面も少なからずあったということだ。


 それにしても、わがままであることと、僕が告白した性的願望は妻の中で論理的にどう結びついているのだろうか。こればかりは本人に聞かないと分かるまい。


 妻とは大学時代に同じ文芸サークルで出会った。妻は当時の恋人と別れたばかりで、共通の友人を介して知り合った。恋人づき合いをはじめ、僕が会社に勤めてから二年目に結婚。これを機に妻は勤めをやめ、専業主婦になった。出会いから七年の月日が流れているというのに、僕にとってはまだ分からないところがある。

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