6
朝九時に目覚めた。ひっこし業者の鳴らしたチャイムの音が、ジワリと孤独な部屋に染み渡った。玄関には制帽に制服姿の作業員がいた。
彼らは僕の荷物を元の部屋に戻すと告げた。すぐに、彼らは梱包しはじめた。ほれぼれするほど鮮やかな手つきで僕のベッドや書棚、CDラックを運び出していった。
「やあ、旦那さん。ここを離れる時が来ましたよ」
スーツ姿の男が僕に話しかけてきた。引っ越し関係の人間ではない。ヴェルサーチの派手なしま模様のスーツがそれを物語っている。やけに親し気だ。一見して誰だか分からなかった。
「千代田ですよ。この七日間お世話になりました。さて、十時には引っ越し作業がすべて終わるはずです。それまでどうですか、近くにコーヒーショップを見つけたんです。お話でもしませんか。アナタの知りたいことすべてに答えてさしあげますよ」
僕は断った。
「どうしてですか。知りたくないのですか」千代田は顔にほほえみを浮かべ続けた。「この七日間で何が起きて、何が起きていないのか。焦らされたままではつらいでしょう。驚かれるかもしれませんが、一部映像も残っているんです」
「消してください。僕には不要です」
「本当によろしいのですか」
本当にいいのだ、と僕は答えた。
千代田は引っ越し業者に二、三指示を出し、それから僕に笑顔ひとつ残してその場を去っていった。彼とはこれから先二度と会わない気がした。
時間まで何もない部屋のフローリングの床に腰かけていた。作業員は503号室の僕の部屋から603号室の僕の部屋へとせっせと荷物を運び出した。手際よく動くその姿は、働きアリを見ているようだった。千代田の言葉通り、十時には終わった。作業員の横をすり抜けて、僕は部屋に戻った。
「おかえりなさい、あなた」
玄関先で妻が僕をむかえた。サマーセーターに、フレアスカート。薄いメイク。「いつもの妻」が戻ってきた。僕があのことを言い出す前の、〈
「もう終わったのか」
「終わったわよ。だって、もう一週間ですもの。ねえ、時間あるかしら?」
「午後から会社に手続きに行くところだったけど、それまでは暇だよ」
「それなら、リビングで話しましょう」
居間への廊下をわたる途中、僕の部屋の内部が見えた。何もかもがもとの位置にあった。503号室で過ごしたときのまま。ベッドの上に伏せた本も再現されていた。
リビングからあふれ出た日光が廊下を照らしていた。光に導かれるように歩いた。ドアは羽のように軽く、指先が触れただけでキイと音をならして部屋の内側に開いた。
陽だまりの部屋は何もかもが温かみを宿していた。すてきなお住まいですね――千代田の言葉がよみがえった。その通りだ。すてきな我が家。居心地のいい家に、よくできた妻。
「私からのプレゼントはどうだった?」
彼女の口元をおおいながら笑うその仕草。いたずらをしかけた時によくやるその仕草、いささか芝居がかったその仕草、隠しきれぬ上品さを垣間見させるその仕草。
食卓の上には、これまでになかったものが上がっていた。数冊の書籍――ザッヘル・マゾッホ『毛皮を着たヴィーナス』、マルキ・ド・サド『ソドム百二十日』、ポーリーヌ・レアージュ『O嬢の物語』、谷崎潤一郎『痴人の愛』。
「あなたがマゾヒストだということを見ぬいていた。なんとか、その気持ちに答えてあげたいと思ったの。どんな風に仕掛けるのが効果的か考え抜いた。その結論がこれ。ねえ、あの人たちといる間じゅうずっと無理しているのがバレないかドキドキしていたわ。それでも頑張れたのは、あなたを愛しているからなのよ」
「僕を愛している」
「ええ。火を見るより明らかにね」
妻は僕を愛している。火を見るより明らかに。
「ねえ、私からのプレゼントはどうだった?」
プレゼント。この一連のできごとは、妻のプレゼントだったのだ。愛情……相手のためにすべてを投げ打つ――それは……愛情。
「あなたを焦らして焦らしてとことんまで焦らした。泣きついてくるのを予期していたけど、違ったみたい。そこだけは出しぬかれた気分だったわ。あなたは想像以上だった。予定が変わって困っちゃったわ」
妻はくすりと笑った。思い悩んでいたのは僕ひとりではなかったのだ。どうやら。
「ねえ、もしかして知りたい? 本当は何が起こったのか。ここで起こったこと。この七日間に起こったいろんなことを。教え合うのも悪くないのかもしれない。私の方はね、正直なところ知りたいわ。私がここにいる間、あなたが何をして何を考えていたのか。だってそれが私の頑張った成果なんですもの」
僕は「多分知りたくない」と答えた。殺したくなかった。空想上の七日間を。あそこで起きた僕の中の真実を。
「その言葉が聞けて満足だわ」
妻は胸元から一枚の紙を取り出した。ただのスーパーの広告紙に過ぎないが、僕たちには本物の契約書だ。妻の細い指はびりびりに引き裂いた。
終わり
プレゼントをあなたに 馬村 ありん @arinning
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
映画感想百篇/馬村 ありん
★36 エッセイ・ノンフィクション 連載中 29話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます